去年ツイッターでちらほら断片情報を目にしていた頃の私の認識は、「知的障害のある女の子が酷い目に遭うのを楽しむような作りのマンガ?」程度のものだった。アニメ化されるというニュースで再び大きな話題になっていた7月末にマガポケのサイトで一気読みし、既刊を買って再読し、「みい山」で頭がいっぱいになったまま今朝、最終話を見届けた。
設定が不自然だとか、知的障害者の描き方に問題があるとか、読者の反応を見てよりバズらせるために酷い展開にしたといった批判を受けてきた本作だが、物語は偶然性を取り入れながらも、基本的には必然に従って動いていくように設計されていると私は感じた。
以下は、ツイッターに書き散らかしてきた感想を、大幅に加筆の上でまとめ直したもの。最初に、
・障害や福祉はテーマではない
・両極の感情に読者を振り回す
・みいちゃんの生い立ち描写に過不足はない
という見方を示した上で、「みいちゃんは〈私〉だ」に至るまでの作品分析を述べる。
⚫︎障害や福祉はテーマではない
それらは「夜職」「性風俗」と同じく、作品のモチーフだ。大きなモチーフではあるが、テーマではない。みいちゃんを、診断はされていないが知的障害者を思わせる人物にしたのは、それが「共同体から弾かれる人」「社会規範に馴致されない人」の端的なモデルだからだ。もっと言えば、「社会規範に馴致されない人」の特質を強く持つがゆえに、結果として「共同体から弾かれる人」がみいちゃんなのだ。彼女の”知的障害っぽさ”は、いろんな意味で社会と折り合いの悪い特質の、最たるものとして選ばれたに過ぎない。
とは言え、知的障害関連の具体的事象がある程度細かく描かれ、台詞や説明文ではいろいろとフォローも入っている。これらは、取材したことを反映させないと現実感が生まれないという作劇上の理由と、モチーフとして扱う以上、専門性にも目配りはしていますというエクスキューズだと考えられる。
3巻末尾に掲載された精神科医・宮口幸治氏と作者の対談もその一つだろう。しかしこれは余分だったと思う。専門家との対談が入っていることで、あたかも知的障害や福祉がテーマのように感じさせてしまっている。
障害者支援に関わる人からは、不十分かつ間違った描写が多く誤解や偏見を呼ぶとの批判が出た。しかし、そもそもフィクションは取捨選択やデフォルメを前提としているものであり、知的障害が作品のテーマではないことを踏まえると、それについて誰もが納得できるリアリティや高いクオリティを、全37話の尺で新人作家に求めるのは、かなり高い要求ではないだろうか。
一方、知的障害者を描くことで少しでも社会の関心を呼ぶことができるのでは?という、作品の”社会的意義”に注目する擁護派の意見も見た。しかしそういうことが目的であれば、まったく別の描き方になるだろう。少なくとも本作は、そうした社会的意義を巡って何かはっきりしたことを言える水準には達していない。
「みい山」にあるのは、現実の「反映」と言うよりは、「還元」である。ドラマ性を持たせた現実の「反映」で終わるフィクションではなく、現実を参照しつつも普遍的なテーマに「還元」して伝えようしていると捉えるべきだと思う。
従って、「こういう人々を包摂できる社会に」とか「知的障害者について学ぶきっかけに」とかいった意見は、それ自体はいいとしても、そこに作品を落とし込むのはやはりズレている。同様に、障害者を登場させたら何らかの処方箋が示されて然るべき、というような考え方もズレている。そうした教訓を求める単純な物差しや、因果律の中で読もうとする目線では捉えきれないものが、あの作品の核心にはある。
⚫︎両極の感情に読者を振り回す
何らかの知的障害が疑われ地元でも周囲から著しく浮いた存在だったみいちゃんは、東京に出て紆余曲折の末にキャバ嬢をしながら枕営業や立ちんぼをやり、やがてDV男に貢ぐためにもっとも過酷な種類の労働に従事するデリヘル嬢となる。絵に描いたようなその転落のプロセスは、「かわいそうだ」という同情と「救いがたいな」という苛立ちの間で読者を振り回す。
その中に「どこまで堕ちていくのか見たい」という、フィクション内で安心して人の不幸を楽しみたい欲求が芽生えることは、普通にあるだろう。現代の日本社会で若い女が体を売りながら過酷な状況に嵌っていくストーリーは、人に強い負の刺激を与える。「胸糞悪くて読めない」と「どこまで堕ちていくのか見たい」は紙一重だ。
また、初期から多かったというネガティブな反応や、炎上したヤンマガ編集部(「みい山」の編集には関わっていない)の感想については、単に内容が読めてないという推測を別にすると、負の刺激をわざわざ露悪的な言葉で語るのが、漫画読者の感想のスタイルとして蔓延しているのではないかとも考えられる。
みいちゃんが性的サービスさえすれば相手と対等になり優しくされると信じていること、どんな目に遭っても次の瞬間にはあっけらかんとしていること、非道徳的な行いを反省できないこと、否定的態度や言葉には瞬間的にブチ切れてしまうこと、それら常識人からすれば理解に苦しむ心理や”異常行動”が、みいちゃんへの読者の共感を阻害し、時に見せ物を見物するような心性を生む。
一方、冒頭でみいちゃんの死という結末が提示され、その一点に向かって次々と不幸が積み重ねられていく流れは、物語の悲劇性を高めると同時に、みいちゃんの束の間の幸福や彼女なりの努力や垣間見える純粋さを、報われなかったがゆえに尊いものとして輝かせる効果も持っている。
つまり「みい山」は、読者を両極の感情に揺り動かしながら牽引していくストーリー展開となっている。それがエンタメとして成功している所以だ。
円満家庭に五体満足で生まれ、教育と文化と人間関係に恵まれ、学歴もルックスもコミュ力も経済力も良い趣味も持っている‥‥などという人は極々一握りで、皆多かれ少なかれ社会に馴染めない要素があったり、生きづらさ感じたりしている。みいちゃんには、私たちのそうした負の要素が凝縮されている。
読者は、みいちゃんの何気ない姿に自分の片鱗を感じつつも、それを否認しながらみいちゃんの過酷な運命を”鑑賞”する。みいちゃんは、なんともアンビバレントな私たちの位相を映し出す鏡なのだ。
もし本作から「知的障害のある女はどんなに痛めつけられても仕方がない」といったことを読み取ったり、特定の相手を侮蔑する目的で「みいちゃん」という言葉を使うとしたら、*1それは読み手の人格かマンガの読み方が著しく歪んでいると言わざるを得ない。先入観を捨て虚心に読み進めれば、まずそんな感想や反応は出てこない。
ちなみに私が心を打たれたシーンは、第四話の最後の方。2012年2月29日、大久保公園で立ちんぼをするみいちゃんを、キャバクラの同僚である山田さんが目撃するシーンだ。
〈今でこそ 大久保公園の立ちんぼは 日本人が多いが
当時の立ちんぼは 外国人が ほとんどだった
外国人に交じって 立ちんぼをする 小柄なみいちゃんは
異国で迷子になった 子供のよう〉
この時山田さんは、みいちゃんから搾取するマオ君の存在をまだ知らない。だからこんな能天気なことが書けたのだとも言える。それでもここには、みいちゃんを見つめる山田さんの真情が感じられる。雪の降る中、外国人女性たちに挟まれて立つ少女のようなみいちゃんの姿を正面から描いた一コマは、寒々とした痛ましい場面にも拘らず、リリカルな詩情さえ漂っている。汚濁と純粋の両極に振れるテイストが、ここにもうかがえる。
⚫︎みいちゃんの生い立ち描写に過不足はない
フィクションには一般に、虚構性が強く感じられるものと現実感の強いものとがあるが、「みい山」では双方がモザイク状に混じり合っている。言い換えれば、みいちゃんの出自を本当にそんなことがあるのかと思えるような特殊な状況設定にし、その内部の細かい出来事やそこから延長される物語にはそれなりのリアリティや説得力を持たせる、という技が使われている。
では、なぜ作者は、みいちゃんの出自をあそこまでレアな設定にしたのか。それは「普通なら与えられるべきものが剥ぎ取られた丸裸の幼い愚者」という、ある意味特権的な場所に彼女を置くためだ。以下で少し丁寧にその出自を振り返ってみる。
1970年代から80年代という時代背景を考えると、宮城県の田舎町で夫と離婚して一人で子育てしたみいちゃんの祖母が、発達障害らしい自分の二人の子を福祉に繋いでないのは、まず知識が何もなかったからだと考えられる。子供二人は近親相姦してしまい、1990年にみいちゃんが生まれる。母親はみいちゃんを可愛がりはするものの、キレやすく安定した子育てができない。みいちゃんの特殊学級編入を勧めた須崎先生を、母も祖母も拒絶。母の態度は障害のせいと思われ、祖母は閉鎖的な田舎に住む世間体重視の昔の人だから、仕方なかった面はある。*2
やがて祖母は、狭い田舎町で噂の的となり何かと顰蹙を買うようになったみいちゃんに、百万円を握らせて東京に出す。これも世間体だろうが、半分は仏心だったかもしれない。いっそ大都会の中に紛れてしまった方がまだしも生きやすいのではと考えたから、住民票を移しマンションまで見つけてきたのだ。
最後、みいちゃんが殺されて母が捕えられ殺人罪となったが、読者は彼女が無実なことは知っているし、もっと引いてみれば彼女自身が犠牲者の一人だということも知っている。何の犠牲者か。「周囲から浮いた者や違和感を喚起する者を差別し、利用し、虐めさえするクソのような共同体」の、である。
作者が明確な作為を忍ばせたのは、両親が発達障害らしく近親相姦で生まれた”世を憚る子”(祖母目線)という点と、知的な遅れがあるが強い自我を持った少女としてみいちゃんのキャラクターを作り上げた点だ。これらは、みいちゃんを福祉や家庭からさえも切り離す大きな要因として機能する。それによって、「普通なら与えられるべきものが剥ぎ取られた丸裸の幼い愚者」となった彼女の後の転落は、ほとんど決まったも同然となる。
みいちゃんの幼馴染で彼女の誘いに乗って一旦は足を踏み外したムウちゃんを、刑務所に入ったことで福祉につながる設定にしているのも、みいちゃんから彼女を引き離すためだ。そうすることで作者は、みいちゃんを徹底して「共同体から弾かれる者」として描き出そうとしたのだと思う。
⚫︎転落の契機
地元時代において、のちのみいちゃんの運命に大きな影響を与える出来事が二つ起こっている。一つは小学校で、無神経な担任教師にしょっちゅう揶揄われ(90年代にはこんな教師もまだいたのだろう)、その空気の中でクラスの笑われ者になり、自分を笑う者は自分を見下す者だと学習してしまったことだ。これは、やり方はともかくみいちゃんに親身になろうとした須崎先生の笑顔に、同じ見下す者の笑みを見出してしまうという結果に繋がった。
場の規則や規範を無視し素のままに振る舞うことを禁ずる学校、空気を読めない者を孤立させる学校という場を、みいちゃんは「強制と矯正の場」だと直感したはずだ。これはある意味では正しい。
自分の絶対的な自由を信じ「社会規範に馴致されない者」の気質を強く持つ彼女にとっては、社会に包摂される道に導こうとする須崎先生も”あちら側”の人間である。これも、ある意味では正しい直感だったと言えるのではないか。学校を始めとした社会規範や制度の方が、個人の自由よりあらゆる意味で正しく優先されるべき、と断定できない限りは。
二つ目の出来事は中学時代に起こる。実はみいちゃんのその後にとっては、こちらの方がより本質的だ。
中学に入っても依然として勝手気ままに振る舞うみいちゃんは、佐藤君との出会いで初めて自分を承認してくれる他者を発見し、奇行が収まってくる。授業中につい暴れかけた時、「動物的な嗅覚」で佐藤君の「表情の変化に敏感に反応」し大人しくなる一コマは秀逸だ。共同体にすんなり参入するのは難しくても、恋には前向きになれるものだ。
しかし嫉妬したクラスメート雪奈の友人の女子が、(佐藤君と)「絶対に両思いになれる方法」としてみいちゃんに性的なデマを吹き込み、真に受けた彼女のコンドーム万引きで空気が一変する。その中で、不良の高橋をそそのかす女子(件の女子とは別人のよう。高橋とラインで繋がっているので不良ではある)が現れ、みいちゃんはまんまと高橋とその悪友達にレイプされる。さらに、彼らが自分を持て囃してくれたことをみいちゃんは承認の証と勘違いし、同じことを佐藤君に持ちかけて失敗した心の穴を埋めるために、誰彼なくセックスするようになる。ここで、「性的サービスをすれば相手と対等になり優しくしてもらえる」という誤った認識がみいちゃんの中に根付き、それは上京後の彼女の行動規範となっていく。
みいちゃんに直接加害行為をしたのは高橋らだが、みいちゃんの間違った行動規範とその後の運命を決める重大なきっかけを作ったのは、雪奈の友人、他の同級生女子である。とりわけ雪奈の友人は、雪奈の気を引きたかったがためにみいちゃんを突き落とすことにしたのだが、そこに何の罪悪感もなかったのは、みいちゃんが知的障害があると思われる子だったからだ。
どこにでもいそうな女子中学生の彼女が、「周囲から浮いた者や違和感を喚起する者を差別し、利用し、虐めさえするクソのような共同体」を何食わぬ顔で支える無名の者として描かれている点が、ぞっとするほどリアルである。
⚫︎山田さんの物語
本作はまず第一義的には、「タイプはまったく違うが互いに欠落を抱えた女の子同士の、出会いと、束の間の共有と、すれ違いの物語」だ。私はマンガに詳しくないが、おそらく少女マンガなどではお馴染みの、二人の女の子の関係性を一方の視点から描いた王道ものと言ってよいのではないかと思う。
言うまでもなく、これは山田さんの物語である。将来が見えず、大学に真面目に通う気も起きず、こっそりバイトしていたキャバクラに、新入りとしてみいちゃんは入ってくる。
みいちゃんは基本的に、「人に見下されず対等に扱われたい」「人に喜ばれ愛されたい」「幸せになりたい」という極めてプリミティブな欲求を強く持っており、それらはしばしば突発的かつ不器用に発露される。それが、山田さんの中の「自分の道を見つけ出し、人に承認されたい」という欲望を刺激し、最初は「ヤバい子」と警戒していたみいちゃんとの関わりを徐々に深めていくことになる。
母親からの否定と支配に苦しむ山田さんは、みいちゃんの無防備で前向きで屈託のない態度に感じ入り、自分を慕ってくれることに小さな喜びを見出し、彼女を救うことで自己承認欲を満たそうとした。将来の夢を語り、ハムカツを可愛がり、「たからもの」を集めて楽しく生きようとするみいちゃんへの山田さんの視線には、時に羨望と感動が混じっている。
しかし共同生活を始めた結果、山田さんの”毒母譲り”の支配欲、矯正欲が、みいちゃんの「社会規範に馴致されない」強い自我を抑えつけるようになり、大トラブルの後、自分の母が自分にしているようなプライドを粉微塵にする言葉をみいちゃんに投げつけた山田さんは、猛烈に反発される。反発したみいちゃんも当然、毒母に反発する山田さんの映し絵だ。毒母との関係は、「みい山」の通奏低音をなす裏テーマになっている。
一番チクチクと刺さってくる振る舞いや心理を見せるのは、わりと類型的に描かれる差別的、暴力的な人々ではなく、やはり山田さんである。理想を押し付ける親の機嫌を伺い、いい子ぶってきた子供時代などは、私とよく似てると思いながら読んだ。また、みいちゃんに感情移入した山田さんの優しさと優柔不断さ、甘さと驕り、その反対の自信喪失と虚無感、それをいちいち自覚する様子も、私にとって若い頃の自分を見るようだ。
キャバクラバイト時代に死んだ友人について描こうと思ったという作者自身が山田さんなのであり、かつての自分の未熟さや愚かさを葛藤を持って描こうとしているのだと思われる。みいちゃんを直接的に死に至らしめたのは地元だが、最も悲しみ最も責任を感じているのは山田さんだ。だから本作は、「若かりし日々の悔恨と懺悔と鎮魂の物語」とも言えるだろう。非常に古典的且つ、あまりにもイタい話なのだ。
⚫︎「現実が見えてきた」が語るもの
山田さんと同居しデリヘルもやめたみいちゃんがパン屋をクビになった夜、男を連れ込み売春しているのを山田さんに見つかり、二人にとって最大の危機が訪れる。みいちゃんは「これしかできない」と抗弁し、山田さんは怒りのあまり彼女を超上から目線で論難し、ブチ切れたみいちゃんは大いに暴れる。それまでは頑張って山田さんの細かいアドバイスや忠告に従おうと努力する日々を送ってきたが、みいちゃんの中には相当のストレスが溜まりリミットに近づいていたことを、山田さんは見抜けなかった。
その危機的騒動の最中を描く30話のラストに、「現実が見えてきた」という山田さんの内心の言葉と同時に、みいちゃんを突然写実的な絵で表現したコマが現れる。
現実の本当の相が見える瞬間、急にあたりの物がそれまでにない不気味なほどの解像度で立ち上がってくることがある。ジャック・ラカンの「三界」の理論を引用すれば、それまで「想像界」(普段我々の暮らすイメージの世界)にいた山田さんは、ここで一瞬「現実界」に出会ったのだ。この「現実界」は「想像界」の裏に張り付き、普段は滅多に姿を現さない不条理でおぞましい世界である。
みいちゃんとの関係の決裂の瞬間に、山田さんはその”ほんとう”の世界に遭遇した。言い換えればその絵は、それまで「社会性皆無だけど、健気で純粋で可愛い子」というフィルター越しに見ていたみいちゃんが、突然有り余るほどの強烈な存在感を持った身体的、物理的存在として立ち現れてきたことを表す。
大きく描かれた正面からのみいちゃんのこんもりとした丸い肩のラインは、彼女の現実の質量を伝えてくる。小柄だがそれなりの重みのある体躯。この絵からじんわり伝わってくるのは、ああ、生きてる者は厄介だ、みいちゃんという人はその中でも特大級に厄介だ‥‥ということだ。*3
⚫︎誰が一番悪かったのか
表面はわりと良い人に見えながら、みいちゃんをデリヘル業者に売ったキャバ店長と、みいちゃんの報酬をピンハネするデリヘル・オーナーの金村は、どうしようもなく生まれてくる社会悪である。様々なグロ・暴力行為をするデリヘル客は、自分の性癖にマッチしたそのサービスを買っているのだから、一概に否定することは難しい。店長、オーナー、客の彼らが、みいちゃんに知的障害があると認識しているかどうかははっきり描かれていないが、わかった上でそれらの行為に及んでいたら犯罪となるだろう。
同僚のキャバ嬢では、露悪傾向でズケズケ喋るキツい性格だがそれなりの苦労を経ており経験値のある桃花、社会の勝ち組になるのが目的の凡庸な常識人ココロ、性格はいいが失敗ばかりするADHDらしいニナなど、作者の観察眼が光る人物造形がされている。
キャバクラの客だったシゲオは、妄想の中でみいちゃんに前のめりになっていく「非モテ」で「オタク」のマイナス面を煮つめたような男だが、最後にスッパリ拒否されたことでようやく我にかえり、内省するという成長を見せている。もともとは至極マジメな人なんだとわかる。
みいちゃんを取り巻く男性で頭抜けて問題なのは、共依存関係に縛り付けて搾取し日常的に暴力を振い、最終的に海外に売り飛ばそうとするマオ君で、彼は最後に相応の罰を受けて消える。
読者からその描写がもっとも問題視されているらしいのが、ツバサだ。ツバサの母が重度知的障害者と思われる息子の性欲処理のために、デリヘル嬢のみいちゃんを家に呼ぶのが最初の邂逅。その玄関には、「悪霊退散」の札や壺や水晶玉、廊下には宗教施設にありそうな絵が飾ってある。のちに、パン屋で働き始めたばかりのみいちゃんの前にこの親子は再登場し、呆れるような言動を繰り広げるが、そこで母親は「先生にお願いしてここに光の結界を」などと言っている。
以上から、ツバサの母は重度知的障害児の息子の扱いに行き詰まって病んでしまい、福祉ではなく新興宗教に救いを求め、その信心の結果息子をひたすら甘やかすことにしてしまった人だろう。ツバサに罪はないし、母親も気の毒な女性だと思う。
故郷に帰ってきたみいちゃんにとって、実家は既に「家庭」ではなく労働を強いられる場であり、母親は自堕落な生活を送り、祖母は現実逃避からアルコール依存症になっている。ムウちゃんに誘われて行った農園でも浮いてしまい、*4母親とぶつかり家を飛び出してホームレスとなったみいちゃんを、見つけ出してイタぶり意図せず死因を作ってしまうのは高橋とその悪友たちだ。
みいちゃんへの暴力を厭わない彼らをマオ君と同列に置きたくなるが、マオ君がサイコパスめいた男だったのに対し、高橋と悪友たちはただのバカであり、みいちゃんをボコボコにしたのは高橋の子供を殴られた仕返し(とは言えそもそもの原因を作ったのは高橋らだが)だったことを見ても、そこに悪賢さはあまり感じられない。*5。結婚して子供を作り、仕事や仲間もあり、地元でリア充のはずなのにわずかな燻りを抱えている高橋には、田舎町のヤンキーの鬱屈が垣間見え、唯一そこにだけ彼の内面が感じられる。
瀕死の状態のみいちゃんを黙って遠くから見ていたのは、娘のことでみいちゃんに恨みを抱くムウちゃんの母。高橋の妻は、夫と一緒にみいちゃんに暴力を振るっておきながら、みいちゃん母に罪をなすりつける。
他人では誰も、みいちゃんの生死を心配する者はいない。郷里で過去に何度もトラブルを起こしているみいちゃんは、「周囲から浮いた者や違和感を喚起する者を差別し、利用し、虐めさえるすクソのような共同体」において、暗黙のうちに犠牲になっても良い存在となっている。彼女を葬り去ることによって、共同体はめでたく安定する。
東京の人々は、宮城の陰湿な地元よりずっとビジネスライクに彼女を利用した。山田さんは救おうとして壁にぶつかった。みいちゃんを一つのリトマス試験紙として、人々の本音や人間性が浮かび上がってくる群像劇だが、しかし「こいつ一人に罪を被せればOK」という構造にはなっていない。だから救いがなく、カタルシスもない。誰のせいだとも言えないが皆が少しずつ悪い‥‥そうした皆の罪を、みいちゃんは一身に背負って死ぬ。
だが、みいちゃんが単なる”可哀想な被害者”だったとは私は思わない。些細なことで喜んだり悲しんだりし、人一倍自己主張しながら(人に迷惑をかけながら)、彼女は懸命に生を謳歌しようとしていた。その時その場面での己の欲望に従ってしか生きられないみいちゃん自身が、圧倒的な「生」そのものだ。それは岡本太郎の哲学が肯定していた、危険に満ちた爆発的なエネルギーに近いものかもしれない。
搾取され傷つき拝金主義に翻弄された者としてのみいちゃんと私たちの垣根は実質なく、この世は無数のみいちゃんで溢れた絶望社会だが、だからこそ自身を絶対的に肯定して生きようとする彼女の、野蛮なまでの「生」が際立ってくるのだ。
⚫︎みいちゃんは〈私〉だ
みいちゃんは、山田さんの自意識を切り裂き”ほんとう”を見せつける存在だった。だから限界が訪れたのは不可避だった。散らかった部屋で二人が向き合って声を上げて泣くどうしようもない光景を俯瞰で捉えた大きなコマは、心に深く突き刺さる。
ここに浮かび上がってくるのは、自分とは絶対的に異なる異物としての他者との共生は可能か?という問いだろうか。半分はそうだが、半分は違うだろう。その異物、他者、「社会規範に馴致されない者」こそが、〈私〉なのだ。みいちゃんとは紛れもなく、私の中にいる〈私〉である。
このことは、表題の「みいちゃんと山田さん」にわかりやすく反映されている。「山田さん」は明朝体の活字、「みいちゃん」は手書き風(にデザインされた)文字だ。人が書き方を覚える時はいつもそうだが、文字は本来手で書かれる。人によって癖があり上手い下手もある。活版印刷が発明されて活字が生まれ、ワープロの普及で誰でも最初から整った文字を打つことができるようになった。活字にすれば何でも一応体裁が整って見えるものだ。個人的な手紙や飲食店に掲示されたメニューなど特殊な場合を除いて、手書きだと「ちゃんとしてない」ような印象さえ与える。
表題デザインに示されているのは、山田さんは表向きは社会に流通する活字のような存在、みいちゃんは活字以前の手書き文字のような存在だということだ。しかし活字の中には、大元の手書きの情報が、ちゃんと織り込まれている。
だからみいちゃんは、山田さんをはじめとしてこの社会で生きる女性一人一人の心の奥に、ひっそりと棲んでいる。女性だけなのか。無論、男性でもそういう人はいるだろう。だが男性に比べて社会化されない部分を多く抱える女性の方が、みいちゃんとしての〈私〉に敏感ではあるだろうと思う。みいちゃんを飼い慣らし、飼い殺し、眠らせて私たちは生きている。少なくともこの社会ではそうせざるを得ない。
屈折を抱えた山田さんが、〈私〉そのものを生きているみいちゃんと出会い、救いを見出し、やがて当然のように破綻を迎える。「共同体から弾かれる者」であると同時に「社会規範に馴致されない者」として描かれたみいちゃんは、自分の運命をそのまま生きて死ぬ。ヘタクソな手書きがきれいな活字に駆逐されるように、そうなるのは必定‥‥。
‥‥ここまで書いたところで、最終回を読んだ。みいちゃんを失って心に穴の空いたままの山田さんは、毒母の相変わらずな圧力に抗いながらも感情的には決着をつけ、みいちゃんを動物的キャラクターに置き換えた『みいみいの冒険』を8年に亘って描きながら、みいちゃんのことを考え続け、連載完了間近に不摂生が祟ったせいか急死する。
私の最初の感想は「逃げたな」というものである。作劇として、主人公の死で終えるのは安易な手に思えた。鏡に映った写実的な実像も「ここでそれ必要?」と思わされたし、第1話の墓前のシーンに一回も戻らず終わるのも投げっぱなしに見える。*6
個人的には、山田さんはみいちゃんへの後悔と贖罪意識に苦しめられ、マンガは続けるもののパッとしないが、やがて『みいちゃんと山田さん』を描くことを決意し、職業漫画家として一皮向けた再スタートを期す、といった展開を期待していた。ただしこれだと、最後に希望を残したよくあるパターンではある。そんなありがちなラストには、作者は満足できなかったのだろう。
最終話で理解したのは、28話の終わりの2025年に飛んだシーンで「失敗した、失敗した‥‥」と呟いているのは、山田さんの母であり、*7その部屋の棚に並んでいるのはおそらく、山田さんの遺作となった『ミイミイの冒険』全7巻だということだ。しかし山田さんは、みいちゃんをモデルにしたその漫画を描くことで、すべてを昇華し燃え尽きたようには、私には見えなかった。
みいちゃんの死は深く彼女の心を蝕むほどになり、その現れの一つが急激な体重の増減だったと思われる。職業上不摂生になりがちとは言え、自分を労ることをしなかったのだから、山田さんは無意識下では自分を罰し続けていたのではないか。誰もみいちゃんの運命に責任を取らなかった中で、互いに唯一の友達になった山田さんだけはそこから逃れられなかった。つまりあの急死は、ほとんど山田さんの自殺だ。*8
みいちゃんは死んだのに、みいちゃんと「一緒」「同じ人間」(名前の秘密が明かされているが、不器用にしか生きられない人間として同じという意味だろう)である自分は生きている。「みいちゃんは私」なら、私も死んで当たり前なのに。
死によってやっと山田さんは一生続きそうな苦しみから解き放たれたから、それは救いでもあったのだろう。これを克服など到底不可能な問題を抱えた人の宿命を描いたと見るか、自分と「同じ人間」である友人を失った人の優れて倫理的な最期を示したと見るか、私の中ではまだ揺れている。
【8/18追記】
⚫︎山田さんの死の必然性
最終話についてはさまざまな意見が出ている。自分の見た範囲でざっと拾ってみると、
1.期待外れ
・山田さんの死が唐突過ぎ、雑で投げやり感があって失望した。
・山田さんが喪失感から立ち直り、「みい山」を描こうと決意するラストを想像していた。
・山田さんが自己否定から立ち直り、冒頭のようなみいちゃんの鎮魂をしてほしかった。
2.作品内の解釈
・山田さんはみいちゃんをモデルにした漫画を描くことで、自分の思いを成就させ燃え尽きて死んだ。
・山田さんはみいちゃんをモデルにした漫画を描くうち、みいちゃんへの思いと罪悪感に苛まれて著しく心身を害し、自殺同然に死んだ。
3.作者の心情の変化(私小説として着地)
・作品や言動へのネット上の批判に追い詰められ、作者の分身である山田さんを死なせた(「これで満足か」という開き直り? 一方、私のTLには亜月ねねの自殺を心配する声まであった)。
・作者は描き進めるうち、自分の分身である山田さんの罪深さを重く考えるようになり、山田さんを罰して死なせるという結末に予定変更した。
他にもあるかと思う。上記に上げたものも、個人の中で重なっていたりするだろう。私は基本的に、作者の言動と切り離して作品のみに向き合い、作品内ですべての答えを見つけるべきだと考えているが、「みい山」に関してはどうしても作者自身の何らかの変化が、最終話に影響を与えているのではないかと思わざるを得ない。
そのことを踏まえて、再度解釈を書いてみる。前提としては繰り返しになるが、みいちゃんであるところの〈私〉は、何をどうしても社会から疎外されるものであり、それを全面的に開示したまま生きていくことはできない(だからみいちゃんは死んだ)。大抵の人は社会化の過程で〈私〉を飼い慣らしていくが、それがうまくいかない人は何らかの、できれば社会が受容可能な形式に置き換えて昇華する必要がある。表現活動などはそうだろう。山田さんはそれをやろうとしていたのだが‥‥。
以下の「」内は、本稿からの引用。
「しかし山田さんは、みいちゃんをモデルにしたその漫画を描くことで、すべてを昇華し燃え尽きたようには、私には見えなかった。」
『みいみいの冒険』は、山田さんの ”「みいちゃん」のこと この世のどこかに 残したい” ”「みいちゃん」のこと この世の誰かに 知らしめたい”(最終話より)という思いから描き始めたものだった。原稿に「みい山」と同様の構図、同様の台詞があるから山田さんの実体験を取り入れているのがわかるものの、みいちゃんと自分の関係を抉り出すような性質のものではなさそうに見える。むしろ、みいちゃんを猫耳のみいみいという広く読者に受けそうな面白キャラに書き換えたことで出版社の編集会議も通り、結果うまく行ってヒットしたのだ。
作品が売れるかどうかを判断するのは、編集者や出版社だ。しかしその作品が自分にとってホンモノかどうかを知っているのは、作者自身である。極論すれば、仮にそれがヒットしてもホンモノでなれば、自分が描きたかったのはこれなのか?売れ線に迎合したのでは?対象とちゃんと向き合ってないのでは?などと自問自答するのが、少なくとも一流を目指す作家だと思う。
ましてモデルにしたのは、かつて実在し自分が深く関わった人物である。そういう人を作品のモデルに使うということは、途方もなく重いことだ。だから本来なら、作者はその人の真実と対峙し、血を流し骨身を削ってホンモノを書こうと努力せねばならない。
山田さんに、そこまでのことはできなかった。かと言って、”「みいちゃん」のこと この世のどこかに 残したい” ”「みいちゃん」のこと この世の誰かに 知らしめたい”という思いがあるから、割り切って売れ線の戦略に徹することもできなかった。そういう中途半端さが彼女の中に潜在していたから、次第に売り上げが落ちてきて打ち切りとなったのだ。
描きあぐねている最終話の最後のページには、みいみいの顔の両サイドに ”私は なんで 生きているのだろう” ”どうして ミイちゃんに 出会ったのだろう” というフキダシの台詞がある。それは、みいちゃんを失ってからずっと山田さんの中に居座ってきた、彼女の中の〈私〉をめぐる実存の問題である(『みいみいの冒険』の最終話としては、相当迷走しているだろうことがうかがえる)。
そもそも山田さんにとって『みいみいの冒険』は、商業的な面を除いては当初、みいちゃんを失った寂しさと罪悪感を紛らわし、自身の心を慰撫しようとするものだったと思われる。つまりマスターベーションだ。それが次第にマスターベーションでは済まなくなり、自分自身への問いが始まった。この一番大切なことに、最初から山田さんがしっかり向き合えていなかったのは結局、彼女の中に自分への甘さと弱さがあって、創作者としては二流だったからにほかならない。あのままだらだらと漫画家を続けたとしても、大成はしなかっただろう。
しかし、明確に自覚はできなくても、自分のそんな中途半端極まる状態を無意識には感知していたのではないだろうか。それは、症状に出てくる。
「みいちゃんの死は深く彼女の心を蝕むほどになり、その現れの一つが急激な体重の増減だったと思われる。職業上不摂生になりがちとは言え、自分を労ることをしなかったのだから、山田さんは無意識下では自分を罰し続けていたのではないか。」
「つまりあの急死は、ほとんど山田さんの自殺だ。」
当初ここらあたりで、私は最大限、山田さんに寄り添った見方をしていた。しかし作者はたぶん、そこまで優しくは考えていない気がする。
山田さんは、みいちゃんの「社会規範に馴致されない」〈私〉性に触発されて、前向きになり自分の夢を語り毒母とも対峙した。漫画家にもなった。一方、みいちゃんに山田さんは一体何を与えられたのか。最終的には、みいちゃんを利用し消費し搾取した人々と、見かけは違ってもそう変わらないことをしていると言えないか。
”「みいちゃん」の人生って なんだったんだろう”(最終話より)じゃないんだよ。みいちゃんをいいダシにして踏み出した自分の人生はどうなんだよ。だいたい今頃、”私たちは 同じ人間だ”と悟ったところで何になる?バカかお前は?
‥‥という作者の突き放しが、あの冗談みたいな”ガクッ”という滑稽且つ無様な死に方に表されているのではないだろうか。
山田さんは、一度は出世を諦め愛に生きようとしたが結局は保身のために恋人を捨て、それが元で恋人が狂ってしまったのをよそに、自分を憐れみながら回想に浸っている『舞姫』の主人公と同じだ。山田さんがなるべきは、友人をコントロールした挙句に死に追いやり、そんな自分のエゴと欺瞞性に耐えきれなくなってとうとう自死を選ぶ『こころ』の先生なのだ。
最終話の結末は、山田さんという「克服など不可能な問題を抱えた人の宿命を描いた」のでも、山田さんの「優れて倫理的な最期を示した」のでもない。山田さんは、残念ながらそこまでの人物ではない。そういうことが、描き進めるに従って作者にははっきり見えてきたのだと思う。
だから最後に作者は、山田さんの姿を通して実体験を元にした創作の世界の厳しさを示すと同時に、山田さんの自己愛を断罪し、山田さんに投影した自身をも彼女と共に一度殺すことで、美しいまとめかもしれないが凡庸な結末への退路を断ち、自分にとってのホンモノとして『みいちゃんと山田さん』を残そうとしたのだ。そこに、毀誉褒貶に塗れながらもこの作品に賭けた新人漫画家としての矜持を見たいと私は思う。
*1:作者が、別のエッセイ風なマンガの中で他人を「みいちゃんみたいな」と書いたと批判されているが、これは侮蔑目的とは違うだろう。一緒に飲んだ人々を「みいちゃんみたいな」と形容した絵では、「能天気にワーワー騒ぐだけの人」という意味で使っており、隣の「頭のいい人々」の絵にもある右下の作者本人の顔がまったく同じで、双方に優劣をつけず単にタイプの違う人々として見ていることが示されている。「みいちゃんみたいな看護師」という形容も、絵を見る限り自己中とかヒステリックとか加害的ということではなく「どこかぽわんとした雰囲気の人」という意味だろう。入院中の自分を「みいちゃん」と形容している文もあった。作者にとってみいちゃんは自分の作り上げた愛すべきキャラであり、それをもっと親しみのあるものにしたいという漫画家ならではの業のような欲求もあって、カジュアルにみいちゃんを使ったのだと考えられる。
*2:みいちゃんの父はちょっとヤバそうな斡旋業者の手引きで北海道に出稼ぎに行くが、祖母はみいちゃんをシングルマザーの子ということにしている近所の手前、家で父親然としていてほしくなかっただろう。
*3:この絵では首から上の描写に比して、胸は極めてあっさり描かれている。乳首もない。そもそも他の絵でもみいちゃんの乳房が描かれていることがほぼないし、裸はいつもシンプルな線で描かれた幼児体型だ。性的な表象として消費されないようにしている気配りを感じる。
*4:知的障害者をこの農園で雇用している男性と、東京のパン屋の主人だけが、本作ではほとんど唯一まともな大人の男性である。二人ともいい歳の「おじさん」であり、山田さんもみいちゃんも父の影がほとんどないことを考えると、出会いそびれた父親として描かれているのかもしれない。
*5:8/16追記:高橋らが処罰されてないことは、不条理として受け止めるべきだろう。フォロー的後日譚があるとしたら、覚醒剤など薬物所持がみいちゃん殺人とは関係なく発覚し、捜査の対象になるとか、あるいは高橋はそれに関して辛くも逮捕を免れるが、長じてみいちゃんを殺したという罪悪感に苛まれ、酒浸りになって家庭崩壊などの結末を迎えるのもありだ。別にそこまで描かなくてもいいとは思うが。
*6:一方で、あっけなく嘘のように「ガクッ」と死ぬ場面にはギャグセンスを感じた。全体に「ここ笑うとこだね」的なテイストを時々入れてきたり、偶然によって事態が暴力的に急変する(例えば縛られたみいちゃんが倒れて、たまたまそこにあった石に頭を割られる)場面など、突き放したような雰囲気をキープしている点は味わい深い。
*7:てっきり山田さんだと思っていたが、よく見たら少し髪は長めだし目周りが老けていた。口癖だった「失敗した」の内容は、娘の死後3年経った時、それまでの「自分の理想から外れてしまった」から「自分が理想を押し付け過ぎた」に変化したのではないか。やっと自分の毒母ぶりに気づいたのだと思いたい。
*8:山田さんのペンネームが「山田花」だったので、虐めをテーマにした漫画を描き24歳で自殺した山田花子を思い浮かべた。また、連載が始まってから「毀誉褒貶に塗れてきた」と言ってもいいだろう作者の亜月ねねが、自分の投影である山田さんを死なせることで、「これが見たかったんでしょ」と読者に言っている気もした。

