『マイ・インターン』のロバート・デ・ニーロの微苦笑とは

「シネマの男 父なき時代のファーザーシップ」第15回が更新されています。

ロバート・デ・ニーロアン・ハサウェイが共演したコメディドラマ『マイ・インターン』(2015)を取り上げました。

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ヒット作ですが、好きな人と苦手な人に分かれる作品。いつもより若干辛口な批評になってます。
あまり強い引っ掛かりがなく、適度に笑いを混ぜながらスルスル展開して行くテンポの良さを、ウェルメイドと捉えるか安易と捉えるか。

ただ、俳優の演技は脇役に至るまで、ほぼベストパフォーマンスだと思います。


デ・ニーロ演じる定年後のおひとりさまの理想形(主に男性から見て)に焦点を当てています。この役をあのデ・ニーロが‥‥というところが、余裕綽々な感じも含めて面白い。

アン・ハサウェイは、働く現代女性の役ではアパレル業界の仕事で揉まれ鍛えられる女子大生を演じた『プラダを着た悪魔』(2006)が印象に残っていますが、今回は通販ファッション会社の起業が成功したものの前途多難な社長の役。あれから10年近く経ったのだなと感慨深いものがあります。

 

「シネマの男」第14回は「お父さんなんかじゃない」と言われた男の罪と罰を描く『鬼畜』

ForbesJapanで好評連載中の「シネマの男」第14回は、野村芳太郎監督、緒方拳主演の『鬼畜』を取り上げています。我が子殺害(未遂)に至る「父の弱さ」に焦点を当てました。

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松本清張原作シリーズの中でも、高い完成度を誇る本作では、岩下志麻が演じる妻・お梅の薄情を通り越したコワさがよく話題になりますね。

しかし妾の菊代(小川真由美)の、ちょっと得体の知れないところもジワジワ不安を掻き立てます。彼女は宗吉(緒方拳)の子供だと言っていますが、それを保証するものは何もありません。
男にぶら下がってしか生きていけない彼女は、他にも「旦那」がいたかもしれない。その中で、一番人の良さそうな宗吉を掌で転がしていたかもしれないと思わせます。

一方、お梅は宗吉に対して愛はあるものの、一頃のようには商売もうまくいかなくなっていてイライラしがちだったところにもってきて、妾と隠し子の存在を知り、一気に「鬼」と化す。

それぞれ支配型の女の間に挟まれた宗吉という男の凡庸さ、人間としての弱さ、どうしようもなさが、残酷なまでに描き出された傑作です。
ぜひご覧になった上でお読み下さい。

 

 

野村芳太郎松本清張シリーズでは、桃井かおり×岩下志麻の『疑惑』も傑作ですね。映画批評集『あなたたちはあちら、わたしはこちら』で、主に岩下志麻の役柄を論じています。
本書で扱った映画のイラストは、こちらのページから全部閲覧できます。

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「シネマの男」第13回は、知的障害者の父親が主人公の『アイ・アム・サム』

「シネマの男 父なき時代のファーザーシップ」第13回は、『アイ・アム・サム』(ジェシー・ネルソン監督、2001)を取り上げています。

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知的障害者の父を演じたショーン・ペンがとにかく秀逸です。どこかジェンダーレスな感じの父親像は、この当時わりと新しかったのではないでしょうか。
彼の娘役のダコタ・ファニングはずるいほどの愛らしさだし、凄腕弁護士を演じたミシェル・ファイファーの派手なキレちらかしに笑ってしまいます。

障害者の描写がやや類型的な嫌いはあり、悪い人は出てこず、ちょっとファンタジーの混じったドラマではありますが、個人の持つ「限界」が多面的な、でも最終的にはポジティブなかたちで描かれている点は好印象。
全編にちりばめられたビートルズナンバーは、いろんなアーティストがカバーしたもので、エンドロールでその名を見つける楽しみもあります。
20年以上前の本作を今回見直して、こんなにほのぼのとした牧歌的な親子ものはもう作れないだろうなとも思いました。

 

さて次回は、『鬼畜』(野村芳太郎監督、1978)を取り上げます。ほのぼの要素なし!岩下志麻が怖い! テキストは、緒方拳が演じたダメな父親をじっくりと見つめる内容になる予定。未見の方は是非配信を検索してご覧ください。

生きるのに意味なんかない目的もないよ冬より早く走ろう

 

飼い犬タロになっているつもりで詠む「犬短歌」、2022年下半期の歌です。
まあまあのも今ひとつのも全部上げました。気に入ってる歌の最後には*マークをつけてます(/サキコとあるのは私名義の歌)。俳句も少々あります。

 

◆七月

夕焼けに薄いグラスをかざしたら彼女のための夏のカクテル *

ニンゲンを語るトークをしますので対談相手募集中です

ワンで飯ワンワン大盛りクンクンでおやつくださいサイゼ方式

おばさんが歳をとったら歩行器という名の機械の犬になろうか

お天気は変おばさんも変だけど どっちもいつものことだったよな

この人は柴犬教の信者です だから勧誘しないでください

傍に行くまで伏せをして待っていたあいつはきっと生涯の友

猫のシャツ着たひとの胸ポケットに小さくなってもぐりこみたい

ふきげんな空ふきげんな俺の腹テッセン二番花白く濡れたり

血の色の向日葵の血の味の蜜啜るキタテハ今宵も暑し 

枯葉は蛾になり道路は暗号に満ちて明日はどっちだあっちか

電線の楽譜に音符はないけれど虚空に満ちる世界の音よ  *

夏を微分する蝉の声 白墨の線を描いて早朝の便/サキコ

日暮れ時なにかを思い出したかに一声鳴きて蝉絶命す *

何回も会ってそろそろ友だちになれそでなれぬ奴それは猫

真夜中のドラムとシンバルいかしたね稲妻ライトも凝っていたよね

あの人と押し合いへしあいして見てた真夏の夜のカミナリライブ

高原で蝉はホーホケキョと鳴くと彼女が言うのほんとうですか

七月ももう終わりねと空仰ぐひとの靴下夕焼けの色


◆八月

水浴びたこの夏最後のクレマチスいちごシロップ味がするはず

涼求め人はわざわざ山に行き犬は地面を掘ってくつろぐ

腹痛でおやつ食べれずおばさんは可哀想だね代わりに俺が

辛いもの食べてお腹をこわしたのしばらく犬のごはん食べたら

ああ風が来たねと目を閉じ足止めた人と夜更けの夏の香を嗅ぐ

薄荷飴みたいな月を舐めようと夏が長くて熱い舌出す 

空仰ぎ「九月にやる」と呟いて急に足取り軽くなる人

あのチワワ盆に帰ってくる時の牛の背中はさぞ広かろう *

原稿を書くのをやめてツイッター眺める背中見るガラス越し

一回もおはぎ作らぬ人生でいいさ自分が選んだ道さ

クレマチス白い二番花終わる日に黒猫に会う空は灰色

きものほど折り目ただしくない君はこうべを垂れてきものをたたむ * 

たたんだらたんすにぴたりまとったらからだにそうてきものはやさし/サキコ

あの雲はまだ夏の色鉄橋を歩いて死体探しに行こう *

あの人に小さい頃があったのかなかったのかは母のみが知る

ハミングが聞こえ洗濯ものを干す人を迎えに縁側に出る

鉄線の蔓はやさしく傾いてトンボの体重ぶんだけの秋

たたんでる羽の付け根がかゆいから肩甲骨を揉んでください

大昔チョウだった頃止まったよ君が被った通学帽に

門の外いつも会う子の姿見て戻って来るに賭けたい気分

おばさんと暗くなるまで遊ぶのさ暗くなったらひとりで遊ぶ

八月の最後の三日月雲に溶け舌で溶けるはバームクーヘン


◆九月

生きづらくないか犬より大きくて人より小さい足跡の主

自己のみを恃む生きもの柔らかき土に深々跡を残せり *

キジトラは車の下で世界への不服静かに申し立てたり

耳元でネロって誰か知ってる?とフランダースの子犬が言った *

人間も互いの尻を嗅ぎ合ってやっとわかりあえるようになる

お散歩で誰にも会えなかったから誰か通るのここで待ってる

昨晩の雨に打たれた紫の君の名前は柳葉ルイラ

欠落はないが過剰もない俺のどこから愛は生まれるんだろ

いやうまいいやまずくないこのおやついやねほんとはいつものおやつ

俺の顔拭くの忘れたおばさんのせいで出会いが消えた恨むよ

ヒャクニチソウ上からそっと覗いたらヒャクニチソウもこっち見ていた

百日草みたいな人より秋桜のような女が好きね男は/サキコ

台風で「犬をしまえ」と言うけれど俺は自分で自分をしまえる

一匹のコオロギが縁の下にいて嵐の夜中鳴いてくれたよ

広縁に膝つき「タロちゃんよろしく」と頭を下げるおばさんの母

秋空にぱっと血を吐く吾亦紅 *

根を伸ばし伸ばし切ったら引き抜かれ漬けられるんだぞ千の双葉よ

「グランマと呼んで」と言うけどおば母さん 彼女に子どもはいないと思うよ

おば母さん朝も早よから庭掃除 家政婦さんで来たんですか

おば母はだんだん子供帰りして「カズコちゃん」へと生成変化


◆十月

記憶の香記憶を消す香金木犀/サキコ

親と住み子と住み悩み抱えてる人は柴犬と住むがよかろう

あのひとにお菓子をせがむ老いた母 俺のおやつをわけてやろうか

コスモスや雨に打たれてカオスなり *

おば母の背中はまるい猫の背のまるさとちがうやさしいまるさ

「ルンちゃん」と呼ぶ人「シッシッ」と怒る人 機械相手にどっちもどっち

娘から赤入れされた下書きを見つつ葉書の清書する母/サキコ *

揉め事でお困りですか柴犬を間に入れて話しませんか

ビーフ缶味はチキンと違うけど知っているのは違うことだけ *

ごうごうと訓練機舞う空の下 雲まで伸びるをやめた豆の木

掃除機に乗ってきた魔女・おば母はルンバと犬がいまだに苦手

キジトラの額の縞は昼寝中犬を寄せ付けないためにある

高い高いされた子供が沈む陽に片手を伸ばす火傷するなよ *

「おいしゃさん」NGワードで気を引いて笑う愚かな人間どもよ

散歩行く時君は右 俺左 帰りは逆でいいんじゃないか

瓶の蓋一つ開けれずやれ左翼やれ右翼だのと悩むおばさん

外壁に書き殴られた計算式ここで宿題やってたのかな


◆十一月

秋草は茫々俺の毛も茫々

「うちの犬よく食べる」って戌年のおじさんのこと言っているよね

食べるとこ見せたいんじゃない食べているあいだ一緒にいてほしいだけ

青過ぎる空がまぶしいふたりともこの秋すこし歳をとったね

月に棲む犬たちに聞くこの星はそこからどんな色に見えてる?

薄切りの大根俎板の光/サキコ *

枯れ草の中で泳ぐ犬を見たか

朝日に背向けて一輪だけ冬の方を向いてる丘の向日葵

冷蔵庫開いて閉じて母消える/サキコ *

クッションのかたちに沿って寝ても空く隙間はたぶんおやつ置くとこ

あのひとは俺にタロちゃん探してる俺の知らないかわいいタロを

「当ててみよ」そう黒猫は言うけれど何を当てたらいいかわからぬ

赤い菊白い菊咲く日溜まりにいつか穴掘りきみを埋める日

待っていて落ち葉の下は固い土その下のきみ今助け出す

グッモーニン マイおやつイズ ベリチープ ユアおやつイズ ベリベリデリシャス

笛吹いてイノシシ集めシシ神の森へお帰り言うたらええやん

おばさんはズルいよ犬の名で短歌詠んでいいねは独り占めかよ

十本の脚がこちらにやってくる黒柴二頭と黒ジャージの人

秋薔薇に謎かけられて動けない *

喧嘩しに行く勢いでペダル踏むギターケースを背負った彼女 *


◆十二月

バーボンと間違え油舐めようとしたおばさんはきっと化け猫

国語辞典パタンと閉じて「山茶花という字書ける?」と老母微笑む/サキコ

生きるのに意味なんかない目的もないよ冬より早く走ろう *

真夜中に猫や鼬と喧嘩して傷舐め帰る犬になりたい

すばらしい柴百選に入るのは無理だねここで虹を見ている

強制と自由意志との中間で散歩コースは決定される

おやつじゃないお散歩でもヨシヨシでもない何が欲しいかわからず吠える

吠えてるとおばさんが来る来たとたん何が欲しいか忘れてしまう

「花たちは誰に挨拶しているの?」「雨に打たれてうなだれただけ」

この部屋に来ることはもうないかもと背中で閉めたノブの冷たさ/サキコ

規格外にて捨てられし大根のかたち楽しき師走の畑  *

ギャン泣きで叱られてるどこかのタロよ病院嫌いは俺も同じだ

メダカらは氷の下に我々は氷の上に閉じ込もる冬

垂れ耳の幼犬期遠くなりにけり応挙を見つつ耳の裏掻く

降る雪よ俺以外塗れ白く塗れ

おばさんの車の音で少し鳴く着替える音でまた鳴いておやつもらってようやく黙る

砂色のズボンの君と枯れ草に分け入る誰も探しに来ない  *

 

 

2021年上半期の犬短歌

ohnosakiko.hatenablog.com

 

2021年下半期の犬短歌 

 ohnosakiko.hatenablog.com

 

2022年上半期の犬短歌

ohnosakiko.hatenablog.com

 

父の原型を描いた名作『わが谷は緑なりき』(連載更新されました)

「シネマの男 父なき時代のファーザーシップ」第12回は、ジョン・フォード監督の名作『わが谷は緑なりき』(1941)を取り上げてます。

 

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時代の波の中で徐々に崩壊していく炭坑の村の大家族、その中心だった”古い”父の姿を、これほど味わい深く見せてくれる作品を他に知りません。これ以降数多描かれる父親像の原型と言ってもいいのではないでしょうか。

名場面に溢れたこのドラマ自体が、一つの普遍的な説話構造をもっているようにも思われます。最後の悲劇が人々の目の前に「上がってきた」ところは、あたかも神話の一場面。何回見ても鳥肌が立ちます。

失われゆくものへの強い哀惜の念と、現実への厳しい眼差しと、人間への深い愛情。家族、親子の関係がこの一作に描き尽くされていると言っても過言ではないでしょう。

現代的視点から見ると、フォード監督の人間観には一種の「保守性」が潜在していますが、むしろそれが、ポリコレ的配慮の行き届いたハリウッド映画の多い中では、今や貴重な美質として伝わってくるように私は思います。


ところで、昔のビデオのジャケットを見ると、モーリン・オハラウォルター・ピジョンがクローズアップされていて「恋愛ものか」と思ってしまいますが、恋愛はドラマの一部ですね。
引きのあるビジュアルとして、見栄えの良いこの二人を全面に出したのでしょう。オハラ、この時まだ二十歳くらいですが、すごく大人っぽい。
ウォルター・ピジョンの演じるグリュフィド牧師が、なかなか興味深い人物造形です。良心と誠実さを体現しつつも、諸々の現実には力及ばず、女性の情熱にも応えられない。


語り手である末っ子ヒューの成長物語でもあります。とにかくロディ・マクドウォールがとても健気で私は母性を刺激されまくりなのですが、『猿の惑星』のあの俳優だとかなり後で知りました。名演技です。

しかしこの時代の学校教育ではよくあることだったのでしょうけど、あの体罰教師、あれだけはさすがに「ないわ」って感じですね。また、それにああいう対応をする父親も凄いよなぁ‥‥と。


アマゾンプライムで視聴できます。未見の方は是非とも!

少年は二人の父に逢う‥‥デ・ニーロ監督作品『ブロンクス物語』

連載「シネマの男 父なき時代のファーザーシップ」第11回は、ロバート・デ・ニーロ監督の『ブロンクス物語』(1993)を取り上げてます。

 

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イタリア系移民の少年と「二人の父」。デ・ニーロの監督作品としての評価は、王道の手堅い作りといったところでしょうか。
結構いろいろなエピソードが盛り込まれていますが、うまく捌いている感じです。2008年のギャング映画top10にも入っている秀作。

 

子供時代に魅力的な大人に出会い、父親がつまらなく見えるということはよくありそうです。それは現実の父に出会い直すための回り道だったりするのですが、もちろんそれは後にならないとわかりません。

原作となる戯曲の作者で、マフィアを演じるチャズ・パルミンテリの面構えが素晴らしい。
しかし邦題サブタイの「愛につつまれた街」は頂けませんねぇ。そんなイメージの作品ではありません。

 

次回はいよいよ『わが谷は緑なりき』(ジョン・フォード監督、1941)を取り上げます! 

何が”いよいよ”かわかりませんが、映画の中の父親と言ったら、個人的にはまずこのお父さんです。あまりにも名作なので今まで手が出ませんでしたが、やっと書き上げました。

12月17日(土)の更新です。未見の方は、是非作品をご覧下さい。繰り返しますが名作中の名作です!

『自転車泥棒』には三つの重要な水が登場する

ずっとバタバタしていて、すっかり忘れていました、こっちの告知。何人見て下さってるかわかりませんが、すみません。。
「シネマの男 父なき時代のファーザーシップ」第10回、今回はあまりにも有名なイタリア・ネオリアリズモの代表作、『自転車泥棒』(ヴィットリオ・デ・シーカ監督、1948)を取り上げています。

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父親の辛さと惨めさを見つめる息子の視点と共に、後半は三つの「水」(雨、河、涙)に注目して書いてみました。
ラストまで言及しています。未見の方は是非作品をご覧下さい。映画ファンでなくても必見の名作です。amazon prime videoとU-NEXTで配信しています。

監督が街で見つけてきたという子役エンツォ・スタヨーラの近影を、2ページ目に入れて頂きました。すっかり老紳士ですが面影がほんのりと。
作品を見直していて、最後の方で彼が父の帽子の埃を何度も強く払う仕草に、何となく今年亡くなった上島竜兵を思い出しました。

次回は、『ブロンクス物語』(ロバート・デ・ニーロ監督、1993)を取り上げます。ForbesJapanでは11月19日(土)の更新になります。