後期高齢者に社会が突きつける安楽死という選択 -『プラン75』

大変お暑うございます。
ForbesJapanに連載の映画コラム、今回は『プラン75』(早川千絵監督、2022)を取り上げています。

 

forbesjapan.com

 

75歳以上は安楽死を選べるようになった日本社会‥‥‥大胆な設定で非常に議論喚起的なテーマに挑んでいる作品。ただ、ラストの描き方については、テーマに対して曖昧だという批判もあるでしょう。

主演の倍賞千恵子の存在感に依拠するところも、かなり大きい作品です。

実は、環境はまったく違いますが、佇まいや物腰、喋り方が、今は施設にいる老母の姿と重なってしまい、涙なしに見られませんでした。そういう個人的事情があって、どうもツッコミは弱くなったと思います。

 

テキストのタイトルは引き重視でこうなりましたが、本当は「選びたいか選びたくないか」ではないですよね。そういう選択肢が制度として生まれてしまう社会がどうなのか、です。

‥‥とは言え。テキスト冒頭にも書いたように、さまざまな理由で生きる意欲を失い、もう生きているのが辛い、死にたいと思っている人は、死なせてくれてもいいんじゃないか。そういう感覚も自分にはあります。ヒトの寿命が長くなり過ぎた、とも思います。

大勢の働くことのできない老人を支えていくようには、この社会はもともと設計されていない。というか、これまでのどんな人間社会も、そうだったのではないか。だから姥捨もあったのだし。

いろいろ考えると問題のスケールが大き過ぎて鬱々としてきますが、未見の方は配信で見られますので是非。

 

すべての芸術は「体制芸術」である  ー天皇、天皇制をめぐる美術とその限界ー

 

2020年に発行された『超藝術手帖』という雑誌に寄稿した本稿ですが、ブログに掲載しても良いとの許可が出ましたので、全文を貼り付けておきます。2019年あいちトリエンナーレと並行して行われ、「水=ガソリン」事件で逮捕者を出した「なごやトリエンナーレ」実行委員会の編集。発行人が右翼の方なので年の表記は皇紀になっています。

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すべての芸術は「体制芸術」である

  ー天皇、天皇制をめぐる美術とその限界ー     

                                   

 

1. 「左翼芸術」にとっての天皇制

 

 2019年に開催されたあいちトリエンナーレにおいて、企画展の一つである「表現の不自由展・その後」に、事務局への脅迫も含め膨大なクレームが殺到し、展示期間の大半が会場閉鎖となった一連の出来事は、まだ記憶に新しい。

 この展示は過去に国内の公の美術館等で出品・展示を拒否された作品を集めたもので、特に非難の集中した昭和天皇の肖像写真を使ったコラージュ四点組《遠近を抱えてPart II》および作品焼却場面の含まれた映像(大浦信行)と、朝鮮の従軍慰安婦をモデルにした彫刻《平和の少女像》(キム・ソギョン、キム・ウンソン)の他にも、天皇や天皇制というテーマと直接的、間接的にリンクする作品群があった。

 もちろんその中に、天皇や天皇制を賞賛するような表現は皆無だった。なぜならそのような表現は美術館などに赴かなくても、我々が日常、折りに触れてメディアを通じて受け取っているものだからだ。今上天皇や皇室への礼賛、それを通じて反復される象徴天皇制の肯定は、いわば「(戦後民主主義)体制の表現」であり、その「空気」のただ中にいる我々は、それを改めて「体制」とも「表現」とも意識しないだけである。

 こうした中では、昭和天皇の肖像を切り貼りしたり、そのコラージュ作品を燃やす過程を撮影した作品を発表しただけで、激烈なアレルギー反応を生む。反応には「不敬だ」「不謹慎だ」から「芸術に政治を持ち込むな」まで幅があるが、その中心にあるのは「天皇や天皇制を肯定的に捉えない=反日左翼」という図式であり、芸術作品が左翼イデオロギーの啓蒙に使われていることへの忌避感情であろう。件の作品にそのような政治的意図はないと作家が主張しても、作品全体をじっくり見た上で考えるのではなく第一印象で判断する人々からはそう受け取られるのである。

 

 しかし、個別の作品が政治的問題に触れていようといまいと、「空気」と化したこの体制および「体制の表現」に対してどのような距離や構えをとっているか?という観点からすれば、すべての作品は「政治的である」ととりあえずは言えるだろう。さらに、近代以降の芸術、とりわけ前衛芸術のモチベーションにあったのは「世界への違和」であり、それはしばしば現行支配体制および「体制の表現」への批判や否定、あるいは相対化として表現されてきた。つまり近代以降の芸術の本流はそもそも「反体制芸術」であり、広い意味での「左翼芸術」であったと言っても過言ではない。

 例えば19世紀フランスの写実主義の画家ギュスターヴ・クールベは社会主義者であったし、20世紀初頭のアヴァンギャルドたちはボルシェビズムやアナキズムから大きな影響を受けていた。アメリカの黄金期を代表する抽象表現主義の画家ジャクソン・ポロックの、中心を持たないオールオーバーな大画面はコミュニズム的ユートピアのメタファーとしても解釈されるし、彼を見出した批評家クレメント・グリーンバーグは元はマルクス主義者である。

 現代美術の分野に、保守的・規範的な価値観を問い直す、広い意味での「左翼的」問題意識に親和的なアーティストが少なくないことは、昨年のあいちトリエンナーレの作品群を見ても明白である。日本には「芸術に政治性は持ち込まない」主義の美術家が多いようだが、作品に直接表出しないまでも、リベラルも含めて右翼よりは左翼寄りの立場や心情を多かれ少なかれ所有するという条件で見れば、おそらく現代美術のアーティストの大半がそこに含まれるだろう。

 

 ではそうした広い意味での「左翼芸術」に対し、天皇を再び最高権力者として頂き八紘一宇を唱えるような、あるいは天皇へのフェティッシュな欲望を開陳するような「右翼芸術」は、存在しないのだろうか。私の知る限り、日本の右翼は芸術にはほとんど関心がなく、右翼的問題意識に親和的な作品を制作している美術作家も、どこかにいるのかもしれないが存在を確認していない。それは、日本の中道保守から右にかけての政治意識を持つ大衆(気分的な左翼嫌いからネトウヨや排外主義者までを含む)が、体制とほぼ同化し「体制の表現」に違和感を抱かないことの現れの一つだと思われる。

 美術において「体制の表現」者としてあげられるのは、平山郁夫を頂点とする元・帝展(日展)をはじめとした、伝統的な表現形式を保守する、現代美術に比べると一般の人には馴染み深い団体展系の作家群である。美術に限定しなければ、皇室関係の祝賀行事に駆り出される芸能人やミュージシャンらもそれに含まれるかもしれない。それらは「空気」の一部である。

 ともあれ、天皇及び天皇制という主題は、我々が吸っている体制の「空気」の匂いに気づかせ、日本という国家の姿を端的に顕現させる働きを持つがゆえに、あらゆる主題の中でもっとも政治的な主題とみなされてきた。中でも天皇の姿や顔を組み込んだ作品に避けようもなく生まれる広範でネガティブな反応は、天皇の肖像が「体制の表現」において物神化、偶像化されてきた歴史も思い起こさせる。

こうした諸々の”リスク”の大きさゆえ、天皇モチーフを取り扱う作家の「菊タブー」を恐れない姿勢と作品の議論喚起力を評価する向きも、当然のことながら出てくる。

 

 だが、そうした現象、例えば『美術手帖』2020年4月号でも特集されたような「表現の自由」をめぐる議論の活発化を、「芸術の力」として言祝いでいていいのだろうか?という疑問が一方に湧く。

 戦後、天皇や天皇制を主題とした美術作品は数多く制作されてきた。大きな物議を醸したものもあった。しかし、象徴天皇制はますます盤石になることはあっても揺らぐことはなかった。「昭和天皇の戦争責任」を問う声は平成以降徐々に消えてゆき、皇室はかつてないほどの国民の支持を取り付けている。こうした中では「天皇陛下のお祖父様の写真を焼くなんて酷い」という感情がごく素朴な意見として発せられ、共感を呼ぶ。そこから議論は天皇や天皇制ではなく「表現の自由」に集中してしまい、作品はいっとき周辺に波風を立てたとしても、あっという間に「空気」に呑み込まれているのである。

 この事態が表しているのは、「芸術の力」ではなく、その逆の「芸術の無力さ」ではないだろうか。先の『美術手帖』の特集では「アートは社会を変える」という信仰とも呼べそうな論調が支配的だが、ではいったいどのように社会を変えるのか、その変わった社会においてアートは今のようなかたちで存続しうるのか、という疑問に対する具体的なビジョンは見えてこない。「芸術には変革の潜在力がある」という漠然とした希望による自己肯定しか、そこには見出せない。

 つまり「変革が実際には起こりませんようにと願う左翼リベラル派」(『絶望する勇気』スラヴォイ・ジジェク)と同様、芸術、美術は、実際には無力であることを暗黙の前提として、天皇や天皇制に言及し続けてきたと言えるのではないか。

 

 そもそも日本において、のちに「美術」と一括りに呼ばれるジャンルと天皇制は、密接な関係性を持ってきた。古代より歴代の帝及び朝廷は、仏像の保護や王朝絵画への影響力、お抱え絵師を通した美意識の発現、京都画壇への関与など、常に日本文化のパトロンとして君臨してきた。とりわけ明治に立ち上げられた近代天皇制は、「日本の美術」の創出と深く関わっている。

 本稿では、まず近代日本の美術制度の成立と天皇制の関係について素描し、明治期を通じた天皇の肖像の「聖化」とそれ以降出現する前衛芸術、特にアナキズム周辺にあった芸術運動のモチーフに触れる。次に戦後の天皇及び天皇制を主題化した作品群を概観し、その”挑戦的”かつ”政治的”な身振りによって、図らずも隠蔽されているところの今日の美術の位相について、私見を述べたい。

 

2. 近代天皇制の精神的支柱としての美術と天皇表象

 

 日本の近代美術の誕生が、天皇制と西欧思想を二つの軸とした近代国家建設の大事業の中に深く組み込まれていたことは、よく知られるところである。近代国家建設の目標は富国強兵・殖産興業であり、それを支えるものは後に「家父長制」と呼ばれる家制度と産業資本主義だった。美術制度と天皇制に触れる前に、明治期に成立した家父長制と資本主義の関係についてざっと確認しておきたい。

 家制度とは、それまで武士階級にのみ用いられていた家督の嫡子単独相続を、明治政府が西欧の国民国家における近代家族を参照して本格的に法整備した、近代家族システムである。天皇は「父」であり、「父」の下にいる無数の赤子(臣民)が家族を作る。それぞれの家族においては天皇家と同様、「家長」たる年長男性に妻や子を従属させ、男子継承が定められた。

 この近代家族制度によって、前近代にも存在していた性差別は構造として社会の隅々に組み込まれた。家父長制のジェンダー構造は家制度が撤廃された戦後も、公私を問わずさまざまな場所に残存し続けることになる。

 また明治政府は欧米列強の植民地になることを恐れ、国力を増強するため各種インフラを急速に整備し、外国から技術を導入してまず綿糸・生糸の大量生産・大量輸出に乗り出した。ここから日本は資本主義国家として立ち上がっていくが、その直接の契機となったのは1880年代後半のデフレ政策である。それによって農作物の価格が下落し没落農民が急増する一方、地主や都市の商人はこぞって会社設立や株取引へと動き、貧富の差が拡大していった。

 貧農の子女たちは紡績工場で低賃金の長時間労働につき、生まれたばかりの日本の資本主義経済を底辺で支えた。近代家族制度の中心的担い手として台頭してきた都市の新興ブルジョワジーは、階層の維持のために蓄財と子供の教育に励み、家庭内の無償労働に従事する専業主婦層が形作られていった。

 マルクス主義フェミニズムは、資本制は家父長制によって利益を得、家父長制は資本制によって維持強化されているという、重要な指摘をしている。家父長制は単に規範というだけではなく、主婦のフルタイム家庭内労働や産業社会における女子労働の位相を通して、資本制の「物質的基盤」となってきた。

 つまり、明治以降の日本が欧米と比肩する資本主義国家に成長していくために敷かれた家父長制の、最大の根拠であると同時にそれを体現し続ける装置が、近代天皇制なのである。そして、その天皇制の精神的支柱として創出されたのが、「日本の美術」である。

 

 「美術」という言葉が日本で最初に用いられたのは、ウィーン万博に参加した1873(明治6)年。出品された工芸作品が高い評価を得たことから、明治政府は殖産興業による資本主義経済育成を目指して、内国興業博覧会を定期的に開催していく。

 やがて洋画を排斥し国粋主義を推進する竜池会が勢力を伸ばす一方、1889(明治22)年、大日本帝国憲法発布の年に宮内庁直轄の帝国博物館が設置され、東京美術学校が開校し、東洋美術史家フェノロサに薫陶を受けた岡倉天心が初代校長となる。東京美術学校を中心とする美術教育機構の編成と共に、神社仏閣、古美術など伝統文化の調査と国家管理も進められ、西洋由来の美術概念を当てはめた「日本美術史」が、万世一系の皇国史観に対応するべく編纂されていった。

 明治中頃からは、天皇の肖像画や肖像写真などの御用制作も名誉職として担わせた帝室技芸員制度(戦後廃止)に始まり、竜池会を前身とする日本美術協会が発足し、しばしば宮家から作品が買い上げられている。

 一方、文部省は1907(明治40)年に西洋画と日本画を柱とする文展(現・日展)を創設。フランスから帰国し、1910(明治43)年に東京美術学校初の西洋画科の教授に任命された黒田清輝は、帝室技芸員や帝国美術院(現・日本美術院)院長を歴任し、皇室との関わりを深めていく。

 長らく主導権争いの続いた洋画と日本画が、天皇の元に「和解」した象徴として、1926年に完成した神宮外苑の聖徳記念絵画館には、日本画と洋画合わせて80点の明治天皇の生涯を描いた絵画が展示されている。

 以上のように、天皇を中心とした国家建設において明治政府は、精神や美意識の拠り所を美術というジャンルに求め、国家体制に制度として組み込んでいった。ヨーロッパではアカデミズムに対抗して生まれた印象派以後の動きとして、フォーヴィズムやキュビスム、ダダなどの前衛が勃興しようという20世紀初頭、日本の近代美術は名実ともに「体制芸術」としての態勢が固められていた。

 

 ところで明治より前、庶民が帝の姿を目撃する機会はなく、中世末期までは帝の肖像画もなかったと言われる。しかし明治政府は天皇制による中央集権国家確立のため、天皇の巡幸や御真影によって「天皇の可視化」を目指した。

 明治天皇の肖像として最も有名なのは、1888(明治21)年に大蔵省のお雇い外国人キョッソーネがスケッチを元に描いたコンテ絵を撮影した肖像画写真である。キョッソーネが軍服の自分の上半身と天皇の顔をモンタージュし、理想化して描かれている。

 これ以前、1873(明治6)年に撮影されている明治天皇の写真は既に国粋と欧化を象徴的に体現する軍服正服姿であり、軍の最高指揮官にして国家元首としての立場を視覚的に明示するものだった。この天皇と皇后(小袿姿)の写真は印刷され、全国の教育機関に掲示される「御真影」として普及していく。天皇の像を国家のシンボルとして国民の礼拝対象にすること、つまり御真影の物神化は、近代の天皇についての最も初期の「体制の表現」である。

 『天皇の美術史6 近代皇室イメージの創出』によれば、明治政府は「御真影」を広めつつその「聖性」を保とうとしたが、一般大衆にとって当初、後に見られるような「タブー」意識はなく、著名人のブロマイドと同じレベルで早くから「ヤミ御真影」も出回ったという。

 それに伴って天皇の行幸の姿を描いた錦絵や石版(リトグラフ)が現れ、「貴顕石版画」の大ブームとなり雑誌や引札にも天皇の姿が描かれるまでになった。明治政府は時々注意勧告や規制をかけるものの、大日本帝国憲法発布の年に以前を上回るブームとなり、非公式の肖像も「御写真」の代替物として黙認されるようになる。

 それらはやがて天皇を中心とした皇室一家のファミリー・ポートレート、つまり「あるべき家族の理想像」=家制度を体現した表象として全国に浸透していく。戦後の象徴天皇制においてもこれは継承された。「異性愛者カップルとそこから生まれる継承者としての男子」という家父長制の原型を、戦後民主主義体制下で「理想」として提示するロイヤルファミリーの像は、引き続き強力なジェンダー規範再生産装置として働くことになる。

 

3.「爆弾」イメージの反復と皇国主義美術運動

 

 風刺画が盛んだった戦前の日本で、唯一天皇を漫画的に捉えたとされるのは、宮武外骨主宰『頓知協会雑誌』第二八号(明治22年2月)に掲載の「大日本頓知研法発布式」(安達吟光画)である。大日本帝国憲法の発布に因んで、骸骨姿の宮武が頓知協会会員に「大日本頓知研法」を授与している図であり、これが元で宮武と安達は不敬罪に問われ、雑誌は発禁となった。ただしこの絵も、「天皇を空疎な骸骨に見立てた上での帝国憲法への痛烈な皮肉」とする論者と、「骸骨は自分の名である外骨の寓意と本人が控訴で主張しており、宮武自身の表象」と見る論者で意見は分かれている。

 明治天皇への直接的な行動としては、1911(明治44)年、無政府主義者たちが天皇の爆殺を計画し処刑された大逆事件(幸徳事件)が挙げられる。幸徳秋水主宰の『平民新聞』には、小川芋銭、平福百穂、小杉未酔、竹久夢二、戸張狐雁ら美術家が参集していた。

 『前衛の遺伝子 アナキズムから戦後美術へ』(足立元)によれば、美術史の研究においては彼らと社会主義との関わりは積極的に論じられていないが、社会思想の側からはその関係が強調されている。特に小川芋銭は、当時の有力な社会主義雑誌に西欧の象徴主義や表現主義を織り込んだ多くの漫画を提供しており、国家の否定と個人の自由を主張するアナキスト気質が指摘されている。

 秋水亡き後、大杉栄や荒畑寒村らの社会主義思想圏で起こった民衆芸術運動の中に、1919(大正8)年、画家望月桂が結成した黒曜会がある。足立元は黒曜会について前述書の中で、「美術のアナ・ボル共同戦線」として詳述し、彼らの表現に度々現れるモチーフである「爆弾」に注目している。

 「爆弾」モチーフは、前衛芸術運動におけるアナキズムとボルシェビズムの共存と共に、2023(大正12)年関東大震災の年に結成されたマヴォやそれに続く三科にも引き継がれた。雑誌『マヴォ』第三号には本物の癇癪玉がつけられており、発売当日に発禁、押収となったという。「爆弾」は「芸術面での爆発」のメタファーであると共に、「革命のヴィジョン」を象徴するイメージとして前衛芸術家たちに好まれた。単純明快なその形態は構成主義とも相性が良かったと思われる。

 「欲望」という観点から見ると、国家による厳しい思想統制の中での、明治天皇爆殺計画の失敗という「不首尾に終わった革命」が、爆弾イメージの反復という「享楽」として現れていたと見ることもできるのではないだろうか。

 

 昭和に入り、様々なグループの分裂・統合の中でアナキズム芸術運動は離散してゆき、日本共産党再結成をバックとしてボルシェビキ主導のプロレタリア美術運動が主流となっていく。

 やがて1930年代の後半以降、共産主義運動が許されなくなった中で、1939年に設立された「日本文化協会」にはシュルレアリズムに共感する画家が参集したが、シュルレアリズムは国際共産主義運動の一翼と見做されており、指導者だった瀧口修造と福沢一郎が検挙される。『戦後美術盛衰史』(針生一郎)によれば、日本のシュルレアリズム絵画は時局柄「重苦しく屈折」した傾向があったが、事件後は更に「主題主義と自然主義への傾斜」が見られ、その中から戦意昂揚に繋がる作品すら現れたという。

 足立元は「シュルレアリズムがシュルレアリズムというだけで弾圧された」外部要因として、昭和戦前期に最も影響力を持った右翼雑誌『原理日本』を挙げている。「狂信的な日本至上主義者」蓑田胸喜が主宰する『原理日本』は「右翼側から左翼思想を検討する雑誌」であり、そのバックには「和歌を支える日本語」を天皇と共に絶対化した歌人・文学者の三井甲之がイデオローグとして存在していた。

 この雑誌に参加していた画家で美術評論家の田代二見の文章の中には、シュルレアリズムへの批判が散見されるという。田代は画壇にはびこる西洋由来の個人主義を徹底的に批判し、「超個人史的全体的意思」を超越の美学として打ち出し、皇国主義的日本美術史観を提示した。

 関東大震災の模様を描いたスケッチや油絵以外では田代の作品が残っていないので、その思想がどのように具体化しているか確認することはできないが、ファシズムの芸術が一般的には西欧の古典的なリアリズムに則るのとは別の道を、この「右翼芸術」運動は模索していたようである。

 国家主義の勢いに乗った『原理日本』は、圧力団体として政権周辺の人々に大きな影響力を及ぼすようになる。足立が「もう一つの「前衛」芸術思想というべき可能性もあった」とする田代の「ファシズムの美学」は、1940年代に入って「体制の表現」の肯定に利用されていった。

 

4. 天皇制批判から「内なる天皇制」へ

 

 戦前の前衛美術の中の「爆弾」は、言論統制と敗戦によって不発弾のまま潰えた。「天皇の人間宣言」と同時に天皇の神格化は否定され、新しい象徴天皇のイメージを全国に定着させるため、1946年から9年に渡る巡幸が行われた。服装は軍服から背広に変化したが、明治天皇の近代日本の元首としての姿を国民に定着させようとした時と同じである。

 一方、戦後のカストリ雑誌には昭和天皇を揶揄する表現がよく見られ、一般の人々の間にも天皇制をめぐる議論が盛んであり、有識者の中には「退位すべき」という意見も少なくなかったという。

 占領期、GHQの統制は絵画表現にも及び、反戦を描くことは奨励されたが「占領軍に対する批判」を始め「神国日本の宣伝」や「大東亜共栄圏の宣伝」はもちろん「闇市の状況」「飢餓の誇張」など現実の描写は禁じられた。やがてアメリカが反共政策に転じると、美術もその観点から監視対象となった。

 「体制芸術」(日展をはじめとした団体展)に対抗していた「左翼芸術」においては、戦前をはるかに上回る会派の立ち上げや分派があったが、それらを大きく分ければ、社会主義リアリズムのプロレタリア美術と、共産主義に親和的でありつつシュルレアリズムを継承する流れであった。天皇の表象は後者から登場する。

 

 1950(昭和25)年以降の日本の美術には、天皇及び天皇制を主題としたものが数多く見られる。ここではそれらを総覧的に論じている『天皇アート論』(アライ=ヒロユキ)を参照し、国内作家の主な作品に絞ってその傾向を見ていく。

 ちなみにアライ=ヒロユキはあいちトリエンナーレの「表現の不自由展・その後」実行委員会の一人であり、前述書では直接天皇や天皇制を扱ったものだけでなく、国家や戦争をテーマにした作品も取り上げ高く評価している。「左翼」視点による「左翼芸術」へのやや過剰に感じられる思い入れを除けば、多くの作品や試みを網羅している点で資料的価値は高いだろう。

 天皇及び天皇制を題材にした戦後の作品は、それぞれの時代の美術潮流の影響を受けつつも、抽象表現からミニマルアート、コンセプチュアルアートへと展開された現代美術の自己言及的な流れには乗っておらず、もちろん「もの派」とも無関係である。1950年代から80年代中頃までは、モチーフを具象的に明示しやすいシュルレアリズム絵画、フォトコラージュ、ルポルタージュ絵画が中心となっている。

 アライがほぼ一章を割いて最初に論じているのは、シュルレアリズムの画家池田龍雄の二つの作品である。菊紋の旗と旭日旗が絡み合う中に帽子とメガネの操り人形のような人物を浮かび上がらせた《にんげん》(1954)、昭和天皇の顔を持つ恐竜に似た醜い化け物を描いた《聖なるもの》(1955)。いずれも戯画的要素が濃い。アライはこれらの作品を、「戦後の自由な時代、特にカストリ雑誌に見られる不敬でアナーキーで猥雑な表現が横行する時代背景を抜きに語れない」としている。

 いわゆる「逆コース」が始まり、市民の社会運動が盛り上がっていった一方で、戦前と変わらず天皇を奉じる右翼団体の活動も復活していた。そうした情勢の中で、天皇を主題にすることにおいては美術表現より雑誌のイラストが先行していたのであり、その量とインパクトの方が美術作品よりも人々に与える影響は大きかっただろう。天皇をカリカチュアライズした池田の作品は、それら「不敬でアナーキーで猥雑な表現」をシュルレアリズムという美術文脈に置き換えたものと捉えられる。

 

 60年代から70年代にかけて、天皇及び天皇制をモチーフにした膨大な数の作品を制作した画家山下菊二についても、かなりのページが割かれている。71年の「天皇制シリーズ」は、キャンバスに投影した複数の記録写真を写し取る形で描かれた5枚組みの絵画。目隠しされた処刑を待つ人々、虐殺された人、横たわった犠牲者などの間に昭和天皇の姿が配置され、被害と加害の構図は明らかだ。

 これらから、従軍した山下個人の体験を重ねて複雑に屈折した心情を読み取ることは可能だろう。山下菊二は池田龍雄より9歳年長だが、戦争を体験した世代として天皇をいかに対象化するかが、彼の実存に関わるテーマだったであろうことは想像される。

 同時代の表現としては、イラストレーター貝原浩が反天皇制の機関誌などに描き続けた昭和天皇の風刺画や、アナキスト向井孝の「反天皇パロディステッカー」、また戦後世代の現代美術作家による、天皇制と日常の乖離を扱ったパフォーマンスや、昭和天皇批判のフォトコラージュなどが紹介されている。

 以上、60年安保を経て70年安保に至る社会・政治運動が激化したこの時期の、天皇を主題にした美術表現を大別すると、権力を失い新たな権力に利用される昭和天皇の「戯画化」と、昭和天皇の戦争責任についての「告発・断罪」の二つに集約されるだろう。「戦前に内面化された天皇像の更新」を一方の極、「反天皇制の思想」をもう一方の極とした中に、それらの作品は位置付けられる。もちろんこうした現象は美術固有のものではなく、昭和天皇や天皇制をめぐる当時のさまざまな批評言説を背景にしたものと見るべきである。

 戯画化や断罪ではなく、「空虚なシステムとしての天皇制批判」がなされているのは、アライによれば工藤哲巳の《縄文の構造=天皇制の構造=現代日本の構造(天皇制の構造についてーー聖なるブラックホール)》(1983)である。

 色糸を使い穴の空いた中心をもつ円盤状のこのオブジェは、説明的なタイトルそのままの観念的な作品だが、天皇制の構造を「ブラックホール」(空虚)に喩えた点は、後々の作家たちにも共有される視点だ。しかしこの作品から遡ること15年前の1968年、吉本隆明の『共同幻想論』において共同幻想としての天皇制が論じられており、議論が「天皇制の是非」から「天皇制をめぐる日本人の精神構造」、あるいは「内なる天皇制」へと重心が移っていたことを考えると、工藤作品はそれらの言説のかなり遅れたトレースにも見える。

 

 ところで80年代は、雑誌や映画、小説などに描かれた天皇や皇室、タレントの天皇ネタなどに対して右翼の抗議活動が活発化し、社会に「菊タブー」が浸透していった時期である。

 1986年、富山県立美術館に展示された大浦信行の《遠近を抱えて》10点の中に、昭和天皇の写真を使ったコラージュがあったことについて、富山県議会の自民党議員と社会党議員がそれぞれ「不快感」「好ましくない」などと疑義を呈し、次いで右翼団体からの抗議を受けて、美術館は収蔵した当該10作品を非公開にした後売却し、図録も焼却処分した。

 興味深いのは、保守体制派の自民党だけでなく「革新」であるはずの社会党の中から否定的な意見が出た点である。「国民が天皇在位60年を祝賀した直後に、こうした作品を展示するのは~」というその発言が社会党議員の口から飛び出す程度には、象徴天皇制は「国民感情」に定着していたということだろう。バブル景気に突入していく当時の日本社会で、天皇制批判はあらゆる媒体から消えていた。

 美術においても同様である。例えば、日本的でキッチュな意匠を散りばめた中に天皇の写真を配置したオリエンタリズムの香り漂う大浦作品にも、それを昭和天皇や天皇制批判ではなく「自分の肖像」「自分の背中の風景」だとする作家本人の言葉にも、特定の政治的主張は感じられない。むしろこの作品は、ほぼ同時期の工藤哲巳作品と同様、「内なる天皇制」について交わされてきたさまざまな言説効果の一つとして捉える方が適切である。

 にも関わらずしばしば美術作品が問題になるのは、外から直に目に触れることがなく読解するにもそれなりの時間がかかる雑誌や書籍の言論に比べて、美術作品の形式が「無防備」だからだ。また、天皇制を主題化していても抽象的な作品より、天皇の写真を使っているなど具体性の高い作品の方が反応を引き起こしやすい。そうした条件によって作品が注目され議論を喚起することと、美術作品としての精度や思想的強度とは別に論じるべきことだが、しばしば混同されがちである。

 

5. 「空虚な中心」というクリシェと批判の不可能性

 

 80年代は大浦作品以外に目立った「天皇アート」は見られないが、昭和天皇崩御が近づいてきた頃には、Xデーを意識した天皇制反対の街頭パフォーマンスが散見されるようになり、昭和天皇の死去後は、天皇と天皇制をモチーフにした作品が急激に増えていったという。

 確かに筆者の当時の記憶を辿ってみても、現代美術のメインストリームにポリティカルなテーマを扱った作品が目立つようになってきたという印象がある。その要因としては、70年代末に現代美術の自己言及的な方向性が行き詰まり、80年代を通して具体的なモチーフやテーマが回帰していたという流れと、昭和の終わりに際してメディアでは天皇制をめぐる議論が再燃していた、という背景があろう。

 アライが上げている中で、中村政人、中ハシ克シゲ、会田誠、柳幸典、飴屋法水、森村泰昌といった作家たちは、「日本」という場所性を意識するという点で共通していた。具体的には、西欧に出自を持ち明治期に国家によって創出された美術というジャンルを、日本という「悪い場所」でどうやって続けていくのか?という問いが共有されていた。

 美術と同じく、明治期に国家によって創出されたのは近代天皇制である。そして「共同幻想としての天皇制」「空虚なシステムとしての天皇制」「天皇制を巡る日本人の精神構造」といった思想的フレームは、既に提出されている。つまり、日本における美術の「根拠の不在」に直面するところから始めるという作家たちの、ある意味優れて政治的な問題意識に、天皇や天皇制というモチーフは見事に合致していたのである。

 

 「戯画化」や「告発」の対象にもなった昭和天皇に代わって、平成天皇は憲法に明記された基本的人権は剥奪されたまま、父親の尻拭いと思えるほど平和と戦後民主主義のイメージを堅守し、被災地慰問や皇室外交など天皇に期待される仕事を積極的にこなし、国民の支持ばかりでなく同情すら集めた。「空虚なシステムとしての天皇制」の中の「囚われ人としての天皇」というイメージは、巷の議論にもしばしば表れている。同時に、天皇は日本の伝統文化の保護者であるばかりか、反戦平和の象徴であるというイメージも醸成されていた。

 こうした中で90年代以降の美術作品は概ね、国家や天皇制についての政治的な判断を宙づりにするものであり、「告発・断罪」といった言語的メッセージに回収可能な以前の作品とは明らかにスタンスが異なっていた。さまざまなメタファーやアナロジーを駆使して提示されるのは、天皇及び天皇制の「人工性」、「表層性」、「仮構性」、「不確かさ」、「根拠の不在」、「空虚な中心」、そして「内なる天皇制」である(前述の作家たちより一回り以上年長でアメリカでの活動歴が長かった杉本博司のアプローチは、「聖性」により重点を置き審美性が強い)。

 しかしこれらの作品をめぐる言説で、「空虚な中心」という言葉を何度見ただろうか。『天皇アート論』にも「空虚」が頻出している。天皇や天皇制を、日本という国家の特異点である同時に自身の内側にも存在するアンビヴァレントな「空虚」として表現する、というのは、端的に言ってしまえば、「ポストモダンの現代美術」となった「左翼芸術」におけるクリシェなのである。そこで行われていたのは、言説としては既出の「空虚なシステムとしての天皇制を内包した日本という国家」を、記号やイメージを編集、操作した視覚効果の中に浮かび上がらせること、以上のものではない。

 最後に、前述書に取り上げられていない彫刻家藤井健仁の《彫刻刑 鉄面皮》シリーズについて触れておきたい。勝俣恒久(東電元会長)、細木数子、キム・ジョンイル、ビン・ラディン、麻原彰晃、安倍晋三夫妻といった人々の頭部を鉄で制作したこのシリーズの中に、《H》(2006)というタイトルをつけられた昭和天皇の首がある。

 このシリーズにおいて、対象への「殺してやる」という感情と実像にリアルに迫るための制作は、鉄を長時間叩きのめすという「暴力」の元に結ばれ、「彫刻刑」という名の「私刑」を通じて「殺意」はフェティッシュな「享楽」に昇華されている。藤井が幻視しているのは、過去に一人の人間として実質的な質量を持って存在した天皇ヒロヒトであり、「戯画化」や「告発・断罪」は無論、言語ゲームによる「空虚な中心」という相対化は、ここでは慎重に避けられている。

 

 そもそも、日本の近代美術の成り立ちからすれば、天皇や天皇制は、根拠なき「空虚な中心」として済まされるようなものではなかったのは明らかである。近代天皇制が代表・体現するところの家父長制と、西欧型国家建設のために導入された資本主義は、それぞれ確固とした物質的基盤を持ち、相互に深く関係し合うことで維持されてきた。日本の美術は”その中から”生まれた。戦後は象徴天皇制の元の民主主義体制となったが、戦前に作られた基盤は継承されている。

 だが『天皇アート論』が取り上げた30人を超える美術作家の中で、天皇制=家父長制という「性」の問題を焦点化しているのは、嶋田美子(+ブブ・ド・ラ・マドレーヌ)のみである。まして、象徴天皇制と戦後民主主義と資本主義相互の関係性までを視野に入れた作家、作品はない。それは日本の戦後美術が、これら三つの共犯関係を暗黙の前提とした上で築かれてきたからにほかならない。

 美術家の菊畑茂久馬は著書『天皇の美術 近代思想と戦争画』の中で、次のように述べている。

 「現代社会では、芸術家が国家権力によって不当に干渉を受けたり弾圧されたりすると、われわれは体を震わせて怒る。今やこうした干渉や弾圧に対する芸術家の”人間の良心の抵抗”は、流行とも言えるほどたやすく行われている。ところが実際は、今日の市民社会をかたちづくっている規範からすれば、こうした”芸術の自立”という概念は、すでにすっかり溶解してしまっているとみてよいだろう。

 今日では、前衛芸術家が同時に体制の中心に位置する芸術選良でもあるという不思議な回路は、ひとつも不思議なことではなく、芸術家が国家権力によってついに破滅してしまうといったことは、資本主義社会のなかではほとんどありえない”神話”となってしまった。これは言い換えれば、今日の芸術が、国家と市民社会との両面にわたるある種の協約から身を避けては、まずもって存在し得ないことを示している。日ごろさんざんこの市民社会の恩恵に浴している芸術家が、作品が不当に封鎖されたと言って、司法権力の前で口角泡を飛ばしていきり立ってみても、それはせっかく築いた芸術的営業権を剥奪されそうになった一人の芸術家の、単なる権利主張のようにしか響かないのは、残念だが仕方のないことである。」(p.10~11)

 42年前に書かれたこの言葉は、近年ますますリアリティを増しているのではないだろうか。

 

 したがって現在、最もラディカルな批評態度としてあり得るのは、こうした美術それ自体の存立形式、芸術家の存在様式をあらゆる位相から問い直すことであり、天皇や天皇制をモチーフやテーマとして扱う美術作品にことさら「先鋭性」を見出すことではない。またそうした作品が、市民や右翼団体からの抗議を受けて取り下げられたり自粛されたりする現象に「表現の自由」の危機を叫ぶのは、議論の本質からの逸脱である。天皇や天皇制を扱った美術作品がさまざまな対立を呼び議論を引き起こすことは、「どこにでもある出来事だ」という認識が必要なのである。

 近代に創出された日本の美術は「体制芸術」だった。そこから分岐した反体制の「左翼芸術」たる美術は戦後、「表現の自由」の中で新しい問題設定を探し求めた。だが、言葉によって提起可能な問題をイメージや物に置き換えているだけならば、それは自律したジャンルとしての美術の自己放棄であろう。そもそも議論の分かれる重要な主題であればあるほど、精密な言葉によって把握することが肝要になる。それを、我々の知覚と美意識に直に働きかける美術作品でわざわざ扱うのであれば、その必然性が問われてくるのだ。

 こうして美術が独自に設定できる問題はいつしか消尽され、「美術は公共圏にどう開かれてあるべきか」という、この社会との和合が近年の焦点となっている。文化庁は一旦不交付としたあいちトリエンナーレへの助成金を減額して交付としたが、これこそ和合のリアルな相である。芸術は国家及び社会との「協約」において、新型コロナ感染拡大の非常時の保護と援助を、つまり「営業権」に替わる補償を求めざるを得ない、さまざまな業界の一つとなっている。

 「象徴天皇制と戦後民主主義と資本主義の共犯関係」から完全に独立した思想的基盤を、芸術は持っていない。構造的に持ち得ないのだ。だから社会と和合する方向しか残っていない。その意味において現在の美術、芸術は潜在的に「体制の表現」であり、「体制芸術」である。

 ここから完全に距離をとった制作の営為がもしあるとすれば、無力な個人の無為の行為を孤独な「享楽」へと解放するかたち以外にないだろう。だがそれが美術と名付けられるかどうかは、もはやどうでもいいことである。

 

 

[参考文献]

『天皇の美術 近代思想と戦争画』(菊畑茂久馬、フィルムアート社、1978)

『戦後美術盛衰史』(針生一郎、東書選書、1979)

『眼の神殿 「美術」受容史ノート』(北澤憲昭、美術出版社、1989)

『家父長制と資本制』(上野千鶴子、岩波書店、1990)

『フェミニズムと国家権力 トランスナショナルな地平を拓く』(大越愛子、世界書院、2004)

『前衛の遺伝子 アナキズムから戦後美術へ』(足立元、ブリュッケ、2012)

『天皇アート論 その美、”天”に通ず』(アライ=ヒロユキ、社会評論社、2014)

『天皇の美術史6 近代皇室イメージの創出 明治・大正時代』(塩谷純・増野恵子・恵美千鶴子、吉川弘文館、2017)

 

※ 初出:『超藝術手帖』(2010)、ブログ掲載に際して作品名の括弧を《》で統一した。

     

 

 

 

 

 

 

 

ForbesJapan映画コラム更新と「月刊アート・コレクターズ」レビューのお知らせ

どれだけの方が見ておられるかわかりませんが、3月以降、あれこれバタバタしているうちに、こちらの更新が全然できていませんでした。

連載映画コラムは、月1で継続しております。まとめてお知らせで失礼します。

 

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イラン映画『聖なるイチジクの種』(モハマド・ラスロフ監督、2024)、公開当時はかなり話題になってました。
政府の機関に勤務する男が護身用にと上司から渡された銃を、家の中で紛失してしまい、家族の間に疑心暗鬼が広がるといういたたまれないドラマですが、イランの政治体制と大人世代、若者世代の意識や感覚のズレがよく描かれています。ラストが壮絶です。
反政府映画、フェミニズム映画として見るのは定石なので、もう一歩踏み込んでおります。

 

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『シリアナ』(スティーヴン・ギャガン監督、2005)。中東とアメリカを舞台にした群像劇ですが、21年前の作品にも拘らずそんなに古さを感じさせないのは、ホルムズ海峡を舞台にイランとアメリカの関係に注目が集まっている今だからでしょう。
映画は一回ですべて把握するのは難しいくらい情報が錯綜しているので、なるべく整理してまとめてみました。アメリカという国が何を生み出してきたか、改めて考えさせられる作品です。


2本、中東関連が続いたところで次は地球環境。

 

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『デイ・アフター・トゥモロー』(ローランド・エメリッヒ監督、2004)もひと昔前の作品ですが、大西洋の海流循環AMOCの崩壊が従来の予測より早まる見込みという研究結果が4月に出たことで、見直すべき作品として浮上しました。
ハリウッドのパニック映画の作法に則った形式で、映画ならではのスペクタクル感が満載な点、22年前ならエンターテイメントとして普通に楽しんだでしょうが、リアリティが増してきた現在は真顔になってしまいます。


さて、レビュー執筆のお知らせは、Xのポストで失礼します。

 

イラン人写真家による、ホルムズ海峡地域のアフリカ移民の写真があり、最近何かと中東を気にしてきたので「おっ」となりました。何より企画の視点が素晴らしいと思います。地方都市の美術館、頑張ってますね。今月14日まで。お近くの方はぜひ。

『生きものの記録』と『太陽を盗んだ男』の間にいるわれわれ

映画コラム更新されました。

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以下、本文からの抜粋でご紹介に変えさせていただきます。ぜひお読み下さい!

 

1月に亡くなった長谷川和彦監督の『太陽を盗んだ男』(1979)は、原発からプルトニウムを盗んで個人で原子爆弾を作ってしまった高校教師・城戸誠(沢田研二)が主人公だ。国家しか保有できない核兵器を個人が持つ、それによって名もない一人の人間が国家を脅かす存在になるという意表を突いた設定の本作は、今なおカルト的人気を誇っている。

 

核兵器という脅威ほどあらゆる物事に影響を与え、人を動かす力を持ったものはない。この観点から今回『太陽を盗んだ男』と比較してみたいのは、黒澤明監督の『生きものの記録』(1955)だ。原水爆の放射能汚染の恐怖に取り憑かれ、私財を投げ打ってブラジル移住を画策する鋳物工場主・中島喜一(三船敏郎)が登場する。彼は、「加害者」然としている城戸とは反対に、強い「被害者」意識に突き動かされている。


この二作品の間には、1950年代半ばから1970年代末までの核や原子力を巡る社会情勢の変化のみならず、戦争を体験した世代と戦後世代の相違がくっきりと浮かび上がっている。ただ、いずれもそれぞれにとっての闘いを描いているという点では変わらない。それは、反核や反原発といった平和運動、社会運動からすれば”邪道”な、世界から孤立した個人の闘いだ。

 

恋もしてないのに心臓キュッとなるおばさん早く病院に行け



飼い犬タロになっているつもりで詠む「犬短歌」、2025年下半期の歌です。
気に入ってる歌の最後には*マークをつけてます(/サキコとあるのは私名義の歌)。
タロは今月で12歳になりました。人間だと還暦です。最近胃腸が弱くなったのかたまにお腹を壊しますが、それ以外はとても元気。タイトルの歌ですが、その後私は病院で狭心症と診断され、心臓の冠動脈にステントを入れました。タロと一緒に走るのは、なるべく控えねば。

では、来年もどうぞよろしくお願い致します。


◆ 七月

七夕の願い事なら暑過ぎる夏はやめての一択だろう

犬なのに水の嫌いな俺だけど天の川なら泳げそうだよ

犬(けん)議員選挙の告示はいつですか まだ立候補間に合いますか

アゲハチョウ翅失ってニッポンの二番目に長い夏の始まり

畑から帰る農夫をUFOの光が照らす夏の夕暮れ  *


◆ 八月

遠くから眺める花火諦めてパソコン画面を見る君寂し

スズムシに鳴くの上手になったねと話しかけてる老母の背中/サキコ

死者たちの魂抱いて三百万匹の蝙蝠舞う盆の夜  *

そんな歳には見えないと褒められたのは飼い犬で君じゃないのだ

 

◆ 九月

重陽の日の積乱雲 この夏に後足で砂かけてやるのさ

恋もしてないのに心臓キュッとなるおばさん早く病院に行け  *

飼い主が知っているのはタロという犬だけ 俺のことは知らない

 

◆ 十月

コスモスのように優しい花じゃないポンポンダリアはきみに似ている  *

俺の詠む短歌は俺のものなのに著作権だけ飼い主のもの

山へ行きお腹の空いたクマさんにおれのおやつを分けてあげよう

 

◆ 十一月

心臓が強いくせして弱い人 俺はいつでもドキがムネムネ

寒い朝 空に点々浮かぶのは 昨夜おまえが丸めたティッシュ  *

あのひとにブラックジャックが施術した鉄の心臓おくれ俺にも

葉の上にセキレイ一羽止まらせて冬大根の茎は健やか

 

◆ 十二月

犬たちが服着始めて自分だけ裸に見える初冬の散歩

あのひとをツイ廃人にしないため午後は三回外に連れ出す

赤ちゃんや犬にサンタの服着せてどうしたいのか人間どもよ  *

昔のSF映画で考える「人の愛しているものは何か?」

今年最後の連載映画コラム、モチーフはAIです。

 

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数年後にはさまざまな産業で人型ロボットが爆発的に普及するとの予測もある中、癒し用人型ロボットが登場するのも時間の問題かもしれない。

おそらくそこで、「人間が同じ人間に向ける愛と、人間そっくりの対象に向ける愛とは、まったく同じなのか?」という問いが浮上してくるだろう。

 

A.I.』(スティーブン・スピルバーグ監督、2001)は、今見直すと公開当時より現実味を帯びたディストピア感が強まっていると感じます。スピルバーグのヒューマンな味付けでそのあたりが中和されてますが。
惑星ソラリス』(アンドレイ・タルコフスキー監督、1972)は大好きな作品です。観るたびに発見があります。今回は、ソラリスの海を人工知能に重ねて解釈してみました。
是非お読み下さい。

 

今年の漢字は「熊」ということでクマ映画2本

バタバタしていて、ここでの告知をすっかり忘れておりました。。。
今年の漢字は案の定「熊」でしたね。それを見越して(?)書いた今回では、二つのクマ映画を取り上げてます。

 

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ハリウッドのクマ映画はパニックもの、ホラーものが多いですが、邦画は一味違います。
『リメインズ 美しき勇者(つわもの)たち』(千葉真一監督、1990)は、大正末期の「三毛別羆事件」をモデルにした女しか食わない人喰いグマとマタギたちの死闘、『デンデラ』(天願大介監督、2011)は、姥捨山で生き延びた老婆と母グマの駆け引きがクライマックスにあります。
共通する「女」というタームから、二作品を読み解いてみました。どうぞお読みください。

 

次回は、生成AIの著しい浸透を前振りに、『A.I.』(スティーブン・スピルバーグ監督、2001)と『惑星ソラリス』(アンドレイ・タルコフスキー監督、1972)を取り上げます。
ちょっと昔のSF映画を、今の視点から見直してみたいと思います。