錯綜する権力の充満 - 『祇園囃子』

祇園囃子』(溝口健二監督、1953)

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<あらすじ>
置屋に所属せず一人で商売を営む芸妓、美代春は、没落した昔の馴染み客の娘、栄子に頼って来られ、「芸妓になりたい」という彼女の願いを聞き入れて祇園を仕切る女将のお君に借金の相談に行く。修行を重ね「美代栄」としてお披露目となった席で栄子は、車両会社の御曹司で専務の楠田に見初められ、同時に美代春も、そこで接待を受けていた役人の神崎に一目惚れされる。
神崎に取り入って大きな仕事の受注を受けたい楠田の部下の佐伯は、美代春が神崎と寝るように計らってくれと女将のお君に頼む。お君の説得に美代春はなかなか良い返事をしない。
進展しない事態に焦れた楠田は東京見物を仕組み、強引に美代春と神崎を会わせる一方、自分は栄子を手込めにしようとするが、抵抗した栄子に舌を噛まれて大怪我する。
佐伯は、こうなった以上どうしても美代春を神崎に差し出して事を収めるようお君に釘を刺し、お君は美代春を呼びつけて恫喝する。お君の差し金で商売を干され進退窮まった美代春は、栄子の免罪と引き換えに神崎と寝る。
それを知った栄子は反発するが、「あんたを守るため」と美代春に宥められ、晴れてお座敷解禁となった二人は着飾って祇園の街に出て行く。



何度見ても面白い。溝口作品の中では「祇園の情緒たっぷりに女の哀しみを描いた佳作」といった扱いの本作だが、ここに描かれているのは最初から最後まで、露骨なまでの権力関係である。錯綜する権力関係があらゆる場面に充満している。
簡単に書くと以下のようになる。左が「男の世界」で右が「女の世界」。


 神崎(役人)
 楠田(専務)
 佐伯(部下)--- お君(女将)
         美代春(芸妓)
         栄子(舞妓)


楠田は会社の利益のために神崎のご機嫌を取らねばならず、佐伯は部下として楠田の目論見を叶えねばならない。また美代春は祇園を仕切る「おかあはん」のお君に頭が上がらないし、まだ16歳の栄子は美代春に頼って生きるしかない。
「男の世界」の下位に位置する佐伯と、「女の世界」の上位に君臨するお君は、共謀関係にある。佐伯としてはお君の手腕で美代春を説得してもらわねばならず、お君にとっては佐伯らは大事な上客ゆえその要求を無碍にはできないからだ。*1


気障でムッツリ助平な小役人の神崎、横暴で滑稽な俗物楠田、その提灯持ちの佐伯‥‥と、男たちはカリカチュアライズして描かれており、それらが象徴する「男の世界」の張り子の虎のごとき権力性を観客はニヤニヤしながら眺めることができる。
だがそうした「男の世界」が金と性を絡めて突きつけてくる要求を「女の世界」が聞き入れねばならないという非対称性は最初からがっちりと固定されており、揺らぐことはない。そのことを神崎、楠田、佐伯、お君はちゃんと承知し、個々の役割に忠実に動いている。
花柳界に入ったばかりの現代っ子の栄子はともかくとして、年増芸妓の美代春も、当然承知してなければならない立場にいる。あるいはそう周囲から看做されている。
しかし己の芸と美貌のみを頼りに生きてきた彼女はそのことにいささか無自覚で、「人情」から権力関係のスムーズな連携を滞らせることになる。その甘さというか弱さが、妹分の栄子のやらかした「不祥事」をきっかけに露になり、彼女は抜き差しならない状態に追い込まれていく。


しかしそもそも、美代春がお君に無心した栄子のお披露目費用の30万が楠田から出ていた(そのことを美代春は後でお君から知らされる)時点で、すべては決まっていたと言える。
栄子の処女はいずれ楠田に提供されるとの暗黙の約束がそこで交わされたことになり *2 、もしそれが拒否されれば、栄子の後見人たる美代春を神崎にあてがうことで楠田は会社の利を得ようとするはずだ。何の見返りもない金を男が使うわけがない。
楠田にとっても、楠田という上客を手放したくないお君にとっても、それは水が高い方から低い方に流れると同じく当たり前のことである。美代春一人がそれを拒むことはできないのだから、妹分のツケを払うために金のない彼女が自分の体を差し出さねばならないことは、最初から決定されていた。そして事態はその通りになった。


つまりこの映画は、何らかの事件をきっかけにして人間関係に後戻り不可能な変化が起こるという「動的」な物語ではなく、最初から厳然としてある権力の構造が手を変え品を変え現れる「静的」な作品である。
一人で商売をし旦那は持たず、好きでもない男とは寝ないという気楽な生き方を自分なりに貫いてきた、一人の年増芸妓の意地が切り崩されていくかりそめの過程は、その背後にある男女の非対称性を描き出すためにだけ作られているかと思えるほどだ。
だがその性差をめぐる権力関係は、常に男の側が女の側を抑圧し跪かせるというようなありきたりなかたちでは描かれていない。「男の世界」の要求の理不尽を美代春に対してもっとも具体的に体現しているのは、男たちではなく、女将のお君である。


この煮ても焼いても喰えない女将の権力性は、最初の登場シーンに凝縮されている。
かしこまって正座し栄子の話を始める美代春の前に、浴衣姿で堂々と寝そべって新聞を読み団扇で煽ぐやや遠目の正面の姿、次いでそのすぐ背後からのショット。後者では画面の下半分近くが横になったお君の背中で占められ、ほとんど不愉快と言っていいような威圧感を発散している。
後ろ向きの彼女が寝転んだまま下から掬い上げるような視線で相手の上位に立っているだろうことは、その向こうに見える美代春の上半身の縮こまらんばかりの弱々しい風情に現れている。お君はふてぶてしくも、"下から"美代春を見下ろしているのだ。


「不祥事」の後で美代春を恫喝したものの説得に失敗したお君は、借金を返すまでの「出入り禁止」を言い渡すが、彼女の底力が発揮されるのはその後である。あちこちの料亭から次々とお座敷キャンセルの電話がかかり、美代春と栄子の二人は言わば兵糧攻めに遭う。
無論、美代春が神崎と寝た後では、何事もなかったかのようにまた次々と依頼の電話がかかってくる。生殺与奪の権利を握っているのは誰かということを相手にわからせるために、ここまで効果的な方法はないだろう。
「しっとりした祇園情緒」と「肩を寄せ合って生きる女の人情と悲哀」という甘いオブラートに包みながら圧倒的な上下関係を描き出すこの映画において、もっとも美代春が頼りにし尚かつ苦しめられる女将お君の、下から相手を威圧する最初のシーンと、姿を見せずに支配の効果を見せつける最後のシーンは、権力というものがどのように現れるかを見る者に教えてくれるようだ。


もちろんお君の権力は、「男の世界」の構造の小さな反映に過ぎない。彼女がいくら意のままに祇園を仕切ろうと、それはせいぜい地元企業の専務の部下と張り合えるかどうか程度のものである。「女の世界」である花柳界そのものが、「男の世界」に寄生しそれを補完して成り立っているのだから。
男の力には頼らず、自分の節を曲げても栄子の保護者たらんと決意する美代春ですら、最後に「今日からあんたの、美代栄ちゃんの旦那はあたしや」と、まるきり「男の世界」を「女の世界」に翻訳した台詞でしか自分たちを励ますことができない。それに栄子は涙を拭いて笑顔で応えるのだ。その一切が哀切極まりない甘美な情景として描かれる。なんて残酷な映画だろう。


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美しいツーショット。二進も三進もいかなくなって右に左にくねる美代春こと木暮実千代の悩ましい白いうなじ、酔っぱらって沢山の髪飾りの載った日本髪の頭をぐらんぐらんさせる栄子こと若尾文子の細く可憐なうなじ。女優のうなじにうっとりする映画でもあります。

*1:この緊密な権力関係とは別に、商売に失敗して落ちぶれた栄子の父が、「男の世界」の敗者として登場する。彼は中気で震える手と経済的な苦境話で同情を買い(買うというかもぎ取り)、金のない美代春から指輪や時計をせしめていく。人情に骨がらみになった美代春は、底辺の男にまで"搾取"されるのだ。

*2:「皆さんは基本的人権で守られています」と話す華道の師匠を栄子が質問責めにした後で、同期の舞妓が62歳のおじいさんを旦那にせねばならないと栄子に打ち明ける象徴的な場面がある。少なくとも当時、「暗黙の約束」は新憲法より効力を発揮したということだ。