わたしの叔父さん

タイトルはジャック・タチの『ぼくの伯父さん』の真似です。
私の叔父は母の歳の離れた弟で、私より十歳上の63歳。タチのユロ伯父さんとは違い、既婚で、成人した子どももおり、仕事はしていなくて、別にオシャレでもない。‥‥が、ひょろりと背が高く、飄々としていて堅苦しいことが嫌いで、少し変わり者であるところはユロ伯父さんと似ているかもしれない。
人付き合いの悪い私が子どもの頃から親戚の中で一番親しみをもっているのが、このマコト叔父さん。
                     

一回り年下の弟が生まれた時、母はとても喜び「マコちゃん、マコちゃん」と何かにつけてよく面倒を看たという。母が二十歳で結婚した時の披露宴の写真には、半ズボンで坊ちゃん刈りの8歳の叔父が心細そうな顔で写っている。特別よく可愛がってくれた下の姉さん(姉は二人)がお嫁に行ってしまうので、寂しかったのだと思う。中学に入って真新しい制帽を被り、家の玄関の前で母と3歳の私と写っている写真では嬉しそうだ。
叔父は最初の大学受験に失敗したが予備校に通うお金もなく、実家回りは静かに勉強できる環境でもなかったので、私の家に一年住み込み、昼は図書館に通って自習するというかたちで宅浪した。「大学受験の勉強をしているのだから邪魔をしてはいけない」と親に言い含められていたが、私と妹にとっては、時々遊んでくれる面白いお兄ちゃんが家に来たという感じで、その一年は楽しかった。もちろん叔父はまだ二十歳前だから私たちは「お兄ちゃん」と呼んでいた。


叔父はとてもサッパリした性格で姉の嫁ぎ先とはいえ変に遠慮することもなく、朝起きてラジオ体操をした後、母の作った弁当を持って自転車で図書館に出かけ、夕方帰ってきて御飯をモリモリ食べ、その後少し皆と一緒にテレビを見てからお風呂に入り、勉強机に遅くまで向かっていた。
休日は、庭で父に代わって薪割り(私の家は当時なんと薪でお風呂を湧かしていた)をしたり、私たちと遊んでくれたりした。叔父はハーモニカが上手かった。
でも結構悪戯好きで、私のマンガ本を隠して「どこに隠したか当ててみ?」と試したり、すごく上手に怪談をして幼い妹を怯えさせて面白がり、母に「余計な話しないでよ」と怒られたりもしていた。


叔父が一浪して第一志望だった地元の国立大学の文学部に合格した時、母はもちろん父も大層喜んで叔父にセイコーの腕時計をプレゼントした。
学生運動が盛り上がっていた時代。叔父はやがて新左翼系の政治思想に傾倒していき、旧左翼だった父と決定的に対立することになった。

「なにぃ?ボクんらの作ってきたものを「すべてブチ壊す」だと!? よしそんじゃあボクは君と闘うぞ!闘ったるぞ徹底的にな!!!」(ばんばん!‥‥ちゃぶ台を叩く音)
「ああいいですよ!徹底的に闘おうじゃないですか!!! 」(ばん!)
「大声はやめて頂戴な、ご近所にまる聞こ‥‥」(母)
「おまえはだまってなさい!これは重要なことなんだ!思想の問題だ!そうだろマコトくん!!」


父と左翼より)


叔父自身はいわゆる”過激派”ではなかったようだが、叔父の親友が公安に目をつけられていて、そのうち警察が実家にも訪ねて来るようになり、とうとう叔父は行方を眩ました。後で母に聞いたら、秋田か青森かそっち方面に身を潜めていたらしい。
そんなわけで結局叔父は名古屋に帰ってきても大学に復学することなく、バイト生活をしていたが、漸く小さな会社に入った。給料は安かったと思う。
アパートに遊びに行くと、四畳半の部屋の真ん中にコタツがあり、周囲は大方本の山だった。私が絵を好きなのを知っていた叔父は、押し入れからスケッチブックを取り出して自分の絵を見せてくれた。主に青、緑系のクレパスを使った植物的なイメージの抽象画だった。
クレパスでここまで色を塗り重ねて、濃厚で不思議な色合いを出している絵は初めて見たので褒めると、「ちょっとこれは俺も気に入ってるんだ」と、叔父は珍しく少し得意そうに言った。彼はルドンが好きなようだった。
それからしばらく後、叔父もその当時の青年らしく「神田川」な日々を送ったようだが、詳しいことはよく知らない。



叔父の実家は長屋住まいだったが、母親が年老いたので近くに住んだ方がいいだろうということで、彼は実家の長屋の隣の部屋に引っ越した。その頃私は上京して大学に通っていたが、帰省するたびに遊びに行った。
本好きな叔父は床の間を潰して本棚を入れ、古道具屋で見つけてきた古風なテーブルと椅子を置き、ルドンの花の絵のポスターを額に入れて飾り、質素だがなかなかこざっぱりと暮らしていた。豆をガリガリ挽いてコーヒーを淹れ、好きな作家や好きな音楽や好きな風景や好きな食べ物やその他いろいろ雑多な話を楽しそうにしている叔父は、気ままな独身生活を満喫しているようだった。
私が酒飲みだとわかると、「最近これ飲んでるんだけど、まあまあ美味いよ」と『七笑』を一本出してきて、台所で簡単なつまみをちゃちゃっと作ってくれた。その晩、二人でその一升瓶を空けた。「俺も酒好きだけど、強いねぇサキちゃん」と叔父は言った。大学で中国文学を専攻した叔父が愛してやまないのは、もちろん酒仙、李白である。
本棚の隅に、マネかドガか忘れたが女性の肖像の絵葉書が、小さい額に入れて置いてあった。二重のひたむきな感じの目の光が印象的な若い女
「この女性の顔と雰囲気が、俺すごく好きでさ」と叔父は照れながら言った。アイドルとか女優とかそっち方面にはいかない(いけない)ところが叔父らしい。


叔父がなかなか結婚しないので母は心配し、「ちゃんと大学卒業して、もっといいところに就職していればねぇ。ほんとにどうするつもりなのかしらねぇ」と愚痴を言うようになった。そのうち、父の知り合いの高校の先生でいい人がいるのでどうかという話が持ち上がり、会うことになった。
その最初のデートの時、「行く前にうちに寄りなさい」とチェックをしておきたい母に言われて来た叔父は、一応ジャケットを着ていつもはくしゃくしゃの髪も整えてきていたが、懐具合は少々淋しかったらしい。母が二万円を叔父のポケットに突っ込み、それで安心してまあまあのレストランに行くことができたようだ。
相手の女性とは専門が同じだったこともあって会話が弾んだらしく、叔父はすっかりその気になり、話はスムーズに進んで結婚した。母は「ほんとにあんたみたいな頼りないのとよく結婚する気になってくれたものよ。感謝しなくちゃねえ」と言った。もの静かで生真面目そうな奥さんを見て私は、「あの絵の女の人と同じ目だ」と思った。


結婚すると、会社での窮屈な人間関係や飲み会などの付き合いに嫌気がさしていた叔父はさっさと仕事を辞め、大型トラックの免許を取得し、深夜トラック便の運転手として働き始めた。「こっちの方が俺に向いてる」と叔父は言った。
やがて真面目な仕事ぶりを評価され、正社員としてもっと報酬の高いデスク仕事の方に誘われたが断り、結局5年ほどでその会社を辞めた。そして叔父は専業主夫になった。
子どもも二人生まれ、叔父は主婦業と育児に専念した。もちろんその前から、家事は高校教師の奥さんと分担していたが、もともと生活を工夫して楽しむタイプだったせいか、専業の母も驚くほどの家事処理能力と料理の腕前を発揮するようになった。
全共闘世代の一見”リベラル”な男性は、口の割には案外男尊女卑の感覚の残っている人が多いように思うけれども、叔父にそれは微塵も感じられない。飄々として掃除洗濯をこなし、サンダルをつっかけて買い物に行き、缶ビールを一杯やりながら旬の食材で手際良くおかずを作る。


子育てが一段落すると、叔父は「古本屋をやる」と言い出した。前から古本屋のオヤジになるのが夢だったのだという。母は「古本屋なんて儲からないじゃないの。奥さんの収入で暮らしているのにそんな勝手なこと言って」と反対したが、奥さんは賛成してくれたらしい。父も「せっかくだから応援してやろうじゃないか」と母を説得して少し出資し、叔父は店を開いた。
当然、あまり儲からなかった。最初は拘って中国文学関係などを充実させていたが、住宅街の中にポツンとある古本屋でそんなものなかなか売れない。商店街に引っ越してからは、わりと普通の古本屋に落ち着いた。
その頃叔父はテニスに嵌っており、アルバイトに店番をさせて時々テニスに行ったりしてるのを母にばれ、「奥さんが働いているのにあんたは遊んでいて」と怒られたりしていた。
私は結婚して名古屋の外に住んでいたが、ちょくちょく叔父の店に行った。行くといつもコーヒーを淹れてくれ、ひとしきり世間話をし、古い画集などをずいぶん安く売ってくれた。たしかに叔父に商売気はなかった。



年老いた母親を自宅マンションに引き取った頃に、叔父は古本屋をたたんだ。叔父は最後まで自宅で母親の世話をした。
二人の子どものうち、長女はアメリカの大学に留学した後、東京の外資系の会社でバリキャリへの道を歩んだ。弟は父親に似ていたのかマイペース型で大学には行かず、今は実家から仕事に通っている。子どもの頃に会ったきりだが、話を聞くに普通のオタク青年である。
教師の仕事に疲れた奥さんが50代半ばで早期退職し、古本屋をやめた後は時々皿洗いや運送のバイトをしていた叔父も、昨年からは外では働いていない。まだ年金を貰う歳ではないので、奥さんの退職金と貯金でつましく暮らしているという。いつも軽自動車に乗り、ブランドものは持たず、飲みにも行かず、普段着は息子のお古のTシャツにジャージだ。八ヶ岳に持っている小さな山荘に時々奥さんと行って、畑仕事をしたりしている。


普段は毎日どんな生活なの?と訊くと、「朝は5時に起きる」と言うので驚いた。
「夜明けの瞬間を逃したくないんだよね。景色が薄闇からだんだんと明るくなっていく感じが好きだから。それを楽しみながらテラスに座って自分で淹れたコーヒー飲んで本を読んだりしてると、奥さんが起きてきて息子の弁当と朝食を作るでしょ。それから息子が起きてきて朝食食べて仕事に行くでしょ。その後、俺が飯を食って後片付けして、それから天気のいい日は自転車で古本屋巡りをするかな。昼頃帰ってきて、缶ビール飲みながら昼メシ食べるでしょ。午後は読書したり部屋の片付けしたり買い物行ったりあれこれと。そんで夕方になったら奥さんか俺が夕食作って、晩酌しながら食べて、少しテレビ見て、また本読んで9時過ぎには寝るかな」
若い頃に憧れた晴耕雨読に近い暮らしを、今やっているようだ。


「いいなあ、叔父さんは」と夫は言った。
「おまえがベストセラーでも出してバリバリ稼いでくれれば、俺も叔父さんみたいに‥‥」
「ハイそれはもう期待しないで」
それより、叔父を見習って無駄遣いを慎み、もうちょっと家事に積極的になってもらいたいものだ。
もちろん傍目には気楽そうに見える叔父の生活は、奥さんのこれまでの安定した経済力あってのものである。だから叔父は率先して主夫をやってきた。そういう生活に辿り着くまでに、たぶんいろいろな苦労を味わっているのだろうし、今だって外から見えない苦労はあるのだろうけど、そういうことをまったく表に出さない。叔父は大抵いつも機嫌がいい。


この夏、父が入院したり介護施設に入居したりのバタバタで、私と母は叔父に随分と助けられた。母も改めて弟を「働き者の癒し系」として見直したようだ。叔父にしてみれば、姉夫婦の家の近くに住んでいるし、これまでいろいろと世話になっているからということもあるのかもしれないが、それ以前に人柄的なものが大きいと思う。
歳の離れた姉二人の下で育ったことが影響しているのか、変なプライドがなく、楽天的で甘えるところは素直に甘える代わりに、回りが慌てふためいていても一歩引いた感じで落ち着いている。そして、するべきことを厭な顔もせずサッサと片付けていく。近々、奥さんの年老いたお母さんを自宅に引き取るらしい。
古い規範や慣習に縛られるのを嫌い、金や出世競争にもまるで興味がなく、自分の趣味に拘りやや理屈っぽいという、古典的文化系男子の裾野に多そうなタイプでもある。そのあたりがうまいことブレンドされている気がする。あの世代で、叔父ほどマッチョという言葉から遠い男性を私は知らない。



昼食時に缶ビールを一本空けるというささやかな楽しみを断固として守りたい叔父が、母を車に乗せて父の見舞いに行くのは、アルコールの入っていない午前中だ。午後から行くとなると、お昼のビールが飲めないからだ。食事と共に楽しむ酒がないというのは彼にとっては、朝のコーヒーや読書の時間がないのと同じくらい味気なく寂しいことらしい。
しかしその見舞いの帰り、私や夫も一緒に外で食事を、という展開になったことが数回ある。その時叔父はいつも、「ビール飲めないのが残念だなぁ。あ、サキちゃんは遠慮しないで飲んでいいよ」と私に言う。夫より私が酒飲みなのをなぜか知っている。
運転する叔父も夫も下戸の母も飲まないのに、私だけ飲むのも気が引けて「やめとくわ」と答えると、「いいよ、遠慮しないで飲みなよ。俺は飲めないけどね。もちろんもし運転しなくていいんだったら飲むけどね。そもそも酒と一緒に楽しまないで料理だけパクパク食うってのは、俺的には考えられないことだけどさ。まあ仕方ない。でもサキちゃんは飲みなよ」と熱心に勧めるのである。


この間も寿司屋に入ったら、
「寿司つまみながら飲まないってのは、ないわなぁ。俺は飲まないよ。運転しなきゃならないからね。でもサキちゃんは飲んでいいよ。遠慮しないで飲みなよ。飲みたいだろ。あの、ビール一本下さい!」
蕎麦屋に入って天ぷら蕎麦を注文すると、
「天ぷらにはビールだなぁ。あ、俺は飲まない。というか飲めない。我慢して家帰ってから飲む。でもサキちゃんは飲みな。いいよ、遠慮しないでさ。せっかくだから飲め飲め。どうせここはお母さん持ちなんだから、な(笑)」
私の顔に「ビール飲みたい!」と書いてあるのかもしれないが、一番飲みたいのはたぶん叔父なのである。そして、他人が遠慮して我慢しているんだろうなぁと思われるのを黙って見ているのも、厭な人なのである。
勧められて私はビールを飲んだ。叔父はお茶を啜りながら「いやー、ビールに天ぷら、いいよねぇ。寒くなったら熱燗もいいね」と言った。