美術館の人々、あるいは「人間の方が気持ち悪いがや!」

先週末、金沢に遊びに行ったついでに、金沢21世紀美術館で開催されていた現代美術展『ソンエリュミエール―物質、移動、時間』、『ソンエリュミエール、そして叡智』を観てきた。
ほぼ旧作の展示なので、村上隆の「シーブリーズ」を初め、個人的には既に観た作品もいくつかあった。映像、光、動き、音系の作品が比較的多い。そしてインスタレーション‥‥。
かなり乱暴に言ってしまうと、全体として私にとっては「ああ、現代アートっていかにもこういう感じなんだよなぁ」という既視感を再確認するような展覧会だった。人の少ないギャラリーで個々の作家を個展形式でじっくり観れば、また別の感慨が湧いたかもしれないが。


美術館サイトとチラシに出ている二つの展覧会の主旨は、以下の通りである(別にこの内容について書くわけじゃないので読まなくてもいいです)。

『ソンエリュミエール―物質、移動、時間』


光には闇があり、音には無音がある。それぞれは対概念ではなく、ひとつの事がもつ性質である。フランス語で「ソン(son)」は音、「リュミエール(lumière)」は光を意味する。「ソンエリュミエール」は、1952年にフランスで最初に開催されたイヴェントに由来し、以後、照明と音響効果を用いて史跡や有名建築を語る豪華なスペクタクルショーのことを指すようになった。太陽が沈んだ闇夜に人工光が輝き、音楽が流れ、名所の謂れが語られる光景は煌びやかで幻想的である。同時にその効果は表面的で場の固有性は光と音の華やかさに取って代わられ画一化されてしまう。
過剰な情報が氾濫し、莫大なエネルギーが消費される現在、私たちは機械計測的に刻まれる時間に束縛されて日々の生活を送っている。支配的制度としての時間から解放された時、私たちの知覚は変容し、見慣れた現象が新たなかたちをとって姿を現す。光の流れ、音の移動、月の満ち欠け、鉱物に流れる時間―有機的な時空間の中では、流れる時の方向は多様で、個々の経験は計り知れない多義性を帯びた旅となる。
本展覧会では、現代の美術家をそんな旅人と捉え、特に物質、移動、時間をキーワードに世界を見つめ直す。粟津潔、秋山陽、ヤン・ファーブル、ペーター・フィッシュリ ダヴィッド・ヴァイス、木村太陽、岸本清子、草間彌生、ゴードン・マッタ=クラーク、カールステン・ニコライ、ゲルハルト・リヒター、サイトウ・マコト、田嶋悦子、マグナス・ヴァリン、アンディ・ウォーホル――彼らは物質の性質と力を習得することによって、自己、イメージ、行為といった非物質的な存在に、物理的なかたちを与える。あるいはまた、物質に依ることで立ち現れる造形表現は、エネルギーの運動態として私たちの眼前にあらわれ、未知なる体験をもたらすとも言える。
ここに切り拓かれた思惟の宇宙を遊泳する旅はつかのまではかなくとも、またとない瞬間として確実に鑑賞者ひとりひとりに記憶されることだろう。

『ソンエリュミエール、そして叡智』


近代市民社会は経済発展及び科学技術により豊かさと自由を獲得してきたかにみえる。情報化社会において迅速さ快適さ手軽さが幸福であり、有益な価値であると見なされてきた。しかし同時に、その利益を追求するために人間生活はますます管理されることになった。つまり、自分が属する社会の制度と権力 に支配されているということである。2011年3月の東日本大震災と福島での原子力発電所事故は、安全と幸福と自由という社会の基盤を根底から覆した。人間の自由を実現するための民主主義社会が選びとってきた経済システムや社会システムは、今や人間社会の継続を脅かすものとなってしまった。
「ソンエリュミエール、そして叡智」では、そんな絶望の中にありながら、世の中の矛盾に正面から向き合い、立ち続けようとする人間の可能性を探る。ここに紹介される作家の作品は、人間社会を鋭い眼差しで捉え、その膿みをあぶり出す。あるいは絶望自体も取り込み、半ば自虐的ともいえる手法で、それでも生き抜こうとする現代人の姿を映し出そうとする。彼らの表現は、不自由で身動きのとれない人間社会の構造を暴く。絶望を未来への種として、苦痛と混沌の渦中にもがくはかなくも生命ある存在として人間の有り様を見つめる。


ものすごい「大きなテーマ」だ。しかしこれらの文章を読んでいて、正直なところ私はちょっと目が滑った。「もういい、こういう御説は」という気になった。
そもそも、現代アートの世界の言葉遣いを知りコンテクストに精通している人以外で、概要に書かれていたようなことが展示作品から直接感じ取れ読み取れた人は、どのくらいいるのだろう。いや、真面目な観客はこうした概要のような事前情報をちゃんと摂取した上で作品を観るのだから、その鑑賞の視線はあらかじめ方向付けられていると言えようか。



『ソンエリュミエール―物質、移動、時間』の方はちょうど最終日で、しかも休日の観光地ということもあって、美術館はかなり雑多な人々で賑わっていた。その中でたまたま近くで見たのは、「普通の人」の現代アート鑑賞の一形態である。


私たちのすぐ前に老夫婦がいて、新しい部屋に入るたびに係の人に説明を求めていた。現代アートの展覧会では、あまり見かけないタイプのお客さんだった。おそらく私たちのように他の街から観光に来て、有名な美術館だからということで見に来たのではないかと思う。
老人にとって、チラシの文字は細か過ぎて読むのに苦労する。作家解説まで含めたらかなりの量なのだ。でも、ただ作品を見ていてもよくわからない。だから言葉を求める。「これは何なのか」「何を言わんとしているのか」を聞きたくなる。当然だろう。説明を聞いて、老夫婦は半分頷き半分首を傾げていた。


「大きなテーマ」は、美術館展示において多種多様な作品をまとめるための一種の方便のようなものであって、鑑賞者はそれに拘束されることなく、「自由」に作品を体験すればいいのだという意見もあるだろう。
たしかに、件の老夫婦のようにいちいち説明を求めず、少し見ていてつまらない、何にもひっかかってこないと思えばサッサと次の部屋に移動する人もいる。以下はその「自由」な人の意見である。


「あの手この手でいろいろやってるけど、なんか重箱の隅つついてるみたいだな。もうやることないんだろな。結局、ウォーホルで終わっとるんじゃね? でなかったら、もっと「おおっ」と思わせてくれよ。‥‥と、俺は思った。俺はね」
見終わって外に出てきたとたん、「俺はね」を強調しながら夫は言った。彼は『開運!なんでも鑑定団』のファンで、テレビの美術番組はわりと好んでよく見ているが、別に素養があるわけではない。好きな画家は熊谷守一若冲。その理由を訊くと「デザインと色目がすばらしい」。現代アートについては、特別有名な作家‥‥日本人なら岡本太郎草間彌生村上隆奈良美智くらい‥‥しか知らないし興味もない(私の本すら読んでない)。
「別に、具象はわかるけど抽象はわからんとか、昔のものは良くて現代アートはつまらんとか言いたいんじゃないよ。せっかくだから面白いもんがあったらいいなと思って、そのつもりで見たよ。でも、で?それがどうしたの?としか思えんかったな、ほとんど」
身も蓋もない。


美術館にあるのは作品だが、そこには観客がいる。金沢21世紀美術館は有名な現代美術館だから、遠方からわざわざ来る熱心なアートファンも少なくない。同時に、金沢のような観光地に新しく出来たカッコいい美術館ということで、観光がてら立ち寄る人もいる。夫のように、あまり興味はないが誰かに連れられて何となく来た人もいよう。
そうした雑多な観客を見ていると、アートを取り巻く人々の縮図が見えてくるような気がする。我田引水になるがこういうものだ。

 アートワールドのセンスエリートやニューリッチが「これいいね!」と言う作品を、彼らを取り巻くアートファンたちが「なるほどいいね!」と言っている。その周りにいる人は「これが今キテるらしいからメモメモ」、そのまた外周にいる人々は「よくわからないけどなんか盛り上がってるな」。そしてもっともアートワールドから遠いところにいる人々は「アート?なにそれ食べられるの?」。もちろん外周になればなるほどその人数は多く、中心からその人々の存在は見えなくなる。周縁からは、中心で何がどう判断されているのか見えない。ただその結果だけが「今このアーティストが凄い」「このアートに要注目」という末端情報として入ってくる。
 このようにして、アートは知と欲望のヒエラルキーを生み出しました。「アートを知っている者」の欲望を皆が欲望し、「アートを欲しがる者」の欲望を皆が欲望する。”アート・ヒステリー”の連鎖の中で、「他者の欲望」がアートの信憑構造を支えているのです。


『アート・ヒステリー なんでもかんでもアートな国・ニッポン』(p.63〜64)



夫絡みで、ちょっとだけ面白いことがあった。
草間彌生の部屋『I'm Here, but Nothing』に入った時。ほぼ真っ暗の中にソファやテーブルやさまざまな家具、日用品がたくさん置いてあり、そのすべてがブラックライトに発光する大量の水玉のシールで覆われている。その網膜的「草間空間」のある種の”奇矯”さに、部屋に入ってきた時「うわ‥‥」と小さい声を上げている人もいる。
入り口に「ソファに座っても構いません」といったキャプションがあったせいで、実際に座っている観客が2、3人いた。暗闇の物体すべてが無数の水玉模様を浮き上がらせている中で、座っている人間だけがただの黒い塊として存在している。それを見て夫は、「人間の方が気持ち悪いがや!お化けみたいで」と言った。そこにいた人々が少し笑った。
この作品についてチラシでは、「ここでは上下左右といった距離感が消失し、自らの身体感覚さえも消える錯覚を覚える。「私はここに存在しているが無である」という作品タイトルは、世界における不確かな人間の存在性についての言及に他ならず(以下略)」と解説している。
その通りであるならば、ソファに座っていた人々は「私はここに存在しているが無である」と感じており、それこそどんな”奇矯”なアート作品と比べても「人間の方が気持ち悪いがや!お化けみたいで」ということなのである。


この後、しいのき迎賓館で現代工芸の展覧会を観、翌日は石川県立美術館で野々村仁清狩野探幽や古九谷の大皿を鑑賞し、夫は大満足していた。
「千円出して観た現代アートより、只で観た仁清に感動した」
そりゃ国宝や重文だもん、凄いに決まっている。でもたしかに今回は、古いのも新しいのも含めて相対的に工芸作品の方が強く心に刻まれたし、何度も見たいと思わされた。
「現代工芸も素晴らしいのあったなぁ。って別に、工芸が全部凄いなんて思わんよ。つまらんと思うのもある。でも一つの限られた枠内で、こういう工夫をしてるのかとか、デザインとか技術とか、感心させられるところがいろいろあるじゃないか。だからいいなと思う。俺はね」
それを現代アートと単純に比べるのは良くない、ジャンルが違うしコンテクストが違うと型通りに言って「普通の人」は納得するだろうか。しないだろう。だからそう言いそうになってやめたのである。