アートの幻想 --- 3. 忘却による反復

1. 資本主義カルチャーとしてのアート
2. 消費としての芸術体験

3. 忘却による反復

私が現代アートに興味を持ち続けてきた理由の一つは、それが自らを定義付けできないもの、あらゆる事象を受け入れ続けるものという点で、非常に特異だということだった。こんな妙な分野はないと思う。音楽や演劇、映画、文学でもかなり枠組みは広げられたが、現代アートほど「受容力」のあるジャンルは他に見当たらない。
アートの名の下に、絵画、彫刻といった伝統的な表現形式から身体、映像、音による表現まで、あらゆる試みが展開されている。そして芸術、アートというのは、クリエイティブなことだという認識が世の中にある。これを逆に見れば、そこでの営みのすべては、芸術、アートという「名」にあらかじめ保証されているということである。
つまり何をしようが芸術、アートだと言えば、自動的に何らかのクリエイティブなことをしてることになるのだ(それが作品として評価されるか否かはまた別の問題だが)。こんな弛緩した表現ジャンルが他にあるだろうか。
そもそも、あらかじめクリエイティブと言われているジャンルの中で何かをやることが、どうして本当にクリエイティブなことになり得るのか。真のクリエイションということがあるのなら、それはアートという「名」に保証されないところで行われるものでなくてはならないはずだ。
そこではなんらクリエイティブであることが求められてない場、誰もクリエイトしようとは思わないような場、そしてアーティストと名乗らず、アートとも意識しない、そういうところでこそ、真にクリエイティブ=能動的主体的な実践が「可能」となる。


そうなると、アウトサイダー・アートこそアートだ、彼らこそアーティストだという声が聞こえてきそうだ。美術手帳の2月号*1に、椹木野衣氏がそのようなことを書いていた。
そこであげられていた一人、ヘンリー・ジョセフ・ダーガーは、死後に膨大な創作物が発見され、近年メディアでも盛んに紹介され画集が発行され展覧会が開かれている。実は私もカタログを持っている。ダーガーは、21世紀初頭のアウトサイダー・アート界の寵児と言ってもいいくらい有名である。
いや「アウトサイダー・アート界」などというものはない。それは現代アートが勝手に見い出し、自らのインサイダーに取り込もうとした「新しいアート」だ。その「アーティスト」達は、アート活動をしているという自覚もなしにただ自分の個人的愉しみのため、あるいは何らかの表現衝動に突き動かされてそれらのものを作ったにすぎない。それがアートと呼ばれアートとして研究されることなど、彼らにとっては何の価値もないことだろう。


ダーガーは、自分が死んだら自室にある物はすべて廃棄してほしいと言い残して亡くなったことを、私は後で知った。彼はそれを残したくなかった。他人に見せるものではないと思って、そう言ったのではないかと思う。それらの存在価値を自分が生きている間だけのものと決めていたのだ。自分の途方も無い欲動を満足させるために描いたあまりにも個人的な世界を、他人には見られたくなかったのかもしれない。
にも関わらず、その遺志は結果的に無視されるかたちになり、すべての創作物が美術館に収められて「作品」として公開され、取材、研究され、さまざまな雑誌に紹介され、カタログ出版までされて全世界の知るところとなった。アート業界は、孤独で貧しい老人と異様なファンタジー世界という取り合わせのイメージを喧伝し、ダーガーは「異色のアウトサイダー・アーティスト」に祭り上げられた。
アーティストと名乗らずアートとも意識しないで行われたプライベートな創作を、むりやりアート業界の真ん中に引き出してアートだアートだと騒ぎ立て、美術資本の中でメシの種にする。これがグロテスクでなくて、何がグロテスクだろうか。



近年、アートの扱うテーマは、具体的で日常的な事象に接触していくようなものが多い。そうしたテーマの展覧会も目につく。そこでの「現実への柔軟で幅のある対応」「日常を新鮮な目で見直す」「さまざまな場所に移動していく」といったことは、かつて印象派が試みたことと非常によく似ている。
印象派は、現実を物質の固定化した世界から光の現象へと置き換え、既成の物語世界ではない市民の日常生活にモチーフを拾い、都市から自然へヨーロッパから非ヨーロッパへと視点を移動させた。その流れは後に、伝統の否定と芸術の自己否定、そして自らを生活と政治に向けて押し開いていったダダ、ロシア・アヴァンギャルドを誕生させた。しかしそれはファシズムとそれに続く二度の世界大戦の間に中断、変質を余儀無くされ、戦後アメリカの繁栄と独裁が、政治においても経済においてもアートにおいても遂行されていった。
60年代(アメリカ的日常性)から70年代(芸術の終焉)のアートの、社会的背景と連動したありさまには、印象派からダダまでの流れがそっくり反復されていた。その後、80年代のレーガンサッチャー時代と冷戦の終結による後期資本主義の完全勝利の中で、アートは個人の物語から政治的社会的な事象までを反映させつつ拡散していった。


そして今また、アートに日常性が回帰していると言われている。印象派のヨーロッパ的日常性、ポップアートアメリカ的日常性との比較でみれば、これはマルチカルチュラルに遍在する日常性ということになるのだろう。
しかし、その日常の中の私達の存在様式は、よく言われる多様などではなく、実は単一なものに覆われているのではないかという視点(それはポップアートには不完全ながらあった)、その単一性を強いる条件とは何かという問いは、なぜ浮上してこないのだろうか。
この反復は、いったい何なのか。これを「終焉の忘却による反復」と考えるならば、この先にあるものは何かということは、考えるに値する問題かもしれない。


「今を否定的に乗り越える」というモダニズムが機能しなくなり、そこで生産されたアートの概念も意味も有効性も消費しつくされ、過去、アートは何回か死刑宣告されたにも関わらず、その都度ゾンビのように生き返った。
私は長い間、それを不思議に思ってきた。そこでどうして終わらなかったのかと。しかし美術史を読めば、その次の展開はさもアートの流れの必然のごとく書かれているのだ。アートには自己延命力があるということなのだと、私は自分に都合のいい解釈をしていた。
しかし私は、重要な側面を完全に見落としていた。アートの延命力は、制度と市場の延命力だ。近代に始まった美術館制度と学校制度、マーケットやメディア、それらすべての場で生計をたてる人々がいたから、アートは終わらなかったのだ。
近代の機構がアートをゾンビに仕立てあげてきたのだ。いや近代と言うのは不適切だ。それははっきり資本主義経済の社会と言うべきだろう。資本主義社会の延命力が、アートという「特別な商品」に価値を与え続けてきたわけだ。
この、あまりにも当たり前の事実、最初に既に答の出ていた問題を、私はなぜ20年も避けて通っていたのだろうか。自分もそのただ中にいて、更にアートの世界に首まで浸かっているという個人的事情、そしてアートへの「信仰」が、私を現実を直視することから遠ざけていたのだと思う。


80年代初頭のニューペインティング現象は、沈滞化したアートマーケット活性化のためのギャラリーの企みであったと言われた。確かにそれで莫大なお金が動き、若いスターが続出した。アートは現在ますます、こうした経済の仕組みの下にある。
「野心的」な批評家そしてジャーナリズムは、常に何かをアートと呼ばねば済まない人達である。現代アートが飽和状態に達していると思えば、その外にアートを求めようとする。アートとして認識されてない分野をまるで土建屋がブルドーザーでならすがごとく開拓し、そこに「アート」という立て札を立てることで自己領域化しようとしてきた。
彼らがアートで生計を立てその中で既得権益を持つ限り、アートというジャンルは消滅しないだろう。メディアも含めたアート関係の仕事で潤おう者は、アートの現状を肯定的に語ることはできても、アートそのものを客観的に分析し尽くすことは不可能だ。なぜならそれは、自分の足下を掘り崩すことになるからだ。アートがどんなかたちになろうと、そこに必ず新たな意義と価値を見い出し可能性を語るといった言説を、絶やすわけにはいかないのだ。



アートは、常に既成のアートを剰余するという批評性において成り立つものだった。しかし現在、アートというカテゴリー、業界に向かっている限り、作品を生み出すことは、クリエイトにも「賭け」にもなりえないのではないか。新たな美的価値の生産もアートからの逸脱も、個人的な問題を社会的な問題に置き換えるにせよ、その逆にせよ、それがアートと名付けられている以上、アートの射程距離を伸ばす役割しか果たさないのではないか。そしてアートの枠組み、形式と領域は確定不能になっているのだから、そうした行為自体「アートとして」の意味をなさないのではないか。
もちろん個々を見て行けば注目すべき作品、すぐれた取り組みは幾つもあるだろう。それが本当にすぐれているなら、アートという「名」に頼らなくてもすぐれ、注目されるだろう。アートとして見てすぐれているという視点は無効である。そのアートの定義が事実上ないからだ。定義も条件も失われ「名」があるだけなのに、それでも「アートとして」という位置にあり続けようとする、その理由は何だろうか。


私はなぜ、その位置に居続けようとしてきたのだろうか。私を制作に向かわせていたもの、それを単に「作ることが楽しい」といった素朴な欲求に回収することはできない。動機としてあったのは一貫して、自己の社会的文化的存在様式を規定してくるものへの「違和の感覚」だった。違和の感覚を抱かせるマス・イメージを異化し、ずれや偏差を生み出すことは「私たちの自由」へと繋がるはずだと思った。
その思考の延長が、なぜアート活動=物象化になり、アーティストであることに帰着せねばならないのか。そこには何か、意識されない飛躍があるように思える。つまりアートに飛躍しなければ、思考の結果が自分の足下に直接返ってくるということなのだ。返ってくるのを、アートという代理物に置き換える。
アートにセラピーを求めるのならば、それでもいいだろう。でも私はそれを「見られる物」として公開していた。絶え間ない差異の創出へと駆り立てるシステムの中に差し出していた。
そこに本当の意味での「私たちの自由」があると、私は本気で信じていたのだろうか。そうではなかった。「私たちの自由」など幻想だと、私はとうに知っていた。


4に続く)

*1:この文章を書いた2003年当時のもの。