雨がシトシト降る中、三岸節子記念美術館で開催中の「生誕100年記念 丸木俊展」を観に行った(私の今住んでいる一宮市は三岸節子の出身地)。2月から5月にかけて丸木美術館で行われた企画展の一部が来たものらしい。
洋画家 丸木俊(旧名 赤松俊子、1912−2000)の生涯の作品と波乱に富んだ人生を紹介する展覧会です。丸木俊は、北海道雨竜郡秩父別町のお寺の長女として生まれ、旭川の女学校を卒業後、上京して女子美術専門学校で洋画を学びました。
卒業後は代用教員となりますが、1937年に通訳官の一家の家庭教師としてモスクワに渡り、また1940年には当時"南洋群島"と呼ばれたパラオ諸島などにも滞在して、異国の風俗を描きました。1941年に日本画家の丸木位里(いり)と結婚。1945年の原爆投下後、夫の故郷である広島に入り、のちに共同で「原爆の図」を制作しました。
夫妻は「原爆の図」をもって世界中を回り、その被害を伝えました。一方で、丸木俊は優れた描写力を生かして多くの絵本を手がけ、想像力にあふれた美しい世界は広く親しまれました。
本展では、各時代の代表作や絵本の原画に、約70年ぶりの公開となる南の島の女性たちを屏風に描いた「踊り場」や、南洋或いはモスクワ時代の雑記帳など新たな作品や資料も加えた約110点を展示し、類まれな女性洋画家の生涯と画業をご紹介します。
15部ある『原爆の図』は「第2部 火」が展示してあり、原爆関係の絵画が数点あった。『原爆の図』はテーマもさることながら日本画家だった位里との合作ということもあって、全体の中ではやはり特異な位置づけに思えた。その他では、油絵の大作より水彩の小品や鉛筆のスケッチやペン画の方が、伸び伸びした感じで私は好きだ。
展覧会のサブタイトルには「「女絵かき」がゆく―モスクワ、パラオ、そして原爆の図」とある。戦前の女性の画家は、わざわざ「女絵かき」と言われるような位置づけだったことを思わせる。今でも画壇では「女流画家」という言葉が残っていそうだが。
そう言えば三岸節子も丸木俊も共に女子美出身で、結婚相手が画家。妻が画業を継続することに理解のある同業者の男性とでなければ、女性が結婚してからも絵描きとして生きていくのは難しい時代だったのだろう。
「丸木俊って奥さんの方だったんだな。俺、位里が奥さんで俊が旦那だと思ってた」と夫が言った。確かに「丸木俊」「丸木位里」と名前が並んでいた場合、そう思い込む人は多いと思う。私も名前をセットで知った当初は勘違いしていた。
俊子という本名から子を取り、「俊」と名乗っての作家活動。「女絵かき」だからってバカにされたくない、むしろ「女」と思われなくていいといった気負いが感じられる。ネット上で女性が女性とわかるハンドルネームでは書かない(「女が書いている」という先入観で見られたくない)ケースと似ているようにも思う。
絵画が展示してある第一室から、絵本画家として活躍していた頃の原画が展示してある第二室に行き、そこで私は子どもの頃に持っていた絵本の挿絵を見つけた。
つららの下がった穴蔵で、子熊と一緒に大きな母熊に抱かれ、その乳房に手を添えている赤い長靴の女の子。絵本シリーズ「こどものとも」の中の『そりにのって』という童話だ。画像はこちらをどうぞ(展示されていた表紙絵の他、下の方にもいくつか挿絵が掲載されている)。
なぜ熊のおっぱいを人間の子が?というと、こんな話。
兄さんのそりに乗せてもらえなかった小さな女の子が、ある日やっと自分用のそりを手に入れる。そりは野を越え山を越え、どんどん遠くまで彼女を運んでいく。夜になっても帰ってこない女の子を大人たちが心配して探すと、雪に埋もれて眠っているのを発見される。そこで女の子は、「熊さんのおうちに行ったの。熊のお母さんのおっぱい、おいしかったよ」とか無邪気に言うのだ(内容ウロ覚え)。*1
どこかロシア人にも見える子どもたちのカラフルな服装。幻想的な夜空を飛んでいくそり。鉛筆と水彩で丁寧に描かれた繊細で瑞々しい絵がとても美しくお気に入りの絵本だったのだが、大人になってすっかりその存在を忘れているうちに母が古い絵本をまとめて近くの保育園に寄付してしまったので、残念ながら手元にない。
原画を見て再び手に取ってみたくなりネットの古本市場を探したが、絶版となって久しいらしくどこも扱っていないか売り切れである。amazonを見ると「こどものとも」復刻版Bセット(51号〜100号)の中の一冊として入っているが、このセットは古本でも28000円ほどするのでポチる勇気が出ない。
実は今まで、「原爆の図」の画家・丸木俊が、戦後、童話の挿絵画家として活躍していたことを私は知らなかった。*2
展示を観ていくうち、「あ、これも知ってる」という絵が何枚かあった。200作を越える挿絵を描いてきたそうなので、自分が見知っている絵に出会うのも不思議ではないのだけれども、子どもの頃に馴染んでいた絵本の原画に、40年以上経って今日ここで再会するとは思わなかったのでびっくり。
歳を取るのは厭なものだが、たまにこういう思いがけないこと(と言っても半分は自分の無知ゆえの驚き)があるので楽しい。
洋画家としては「俊」だったが、挿絵画家としては元の「俊子」の名前で活動を始めている。*3 子ども向けということで、肩の力が抜けていたのかもしれない。