ネットでバカを晒す若者の話から始まって、先週は「低学歴/高学歴」話が盛り上がっていた。バカを晒す行為を学歴の高低で語るのはどうか、そういうことは学歴の高い層の中にもあるという話もあった。つまり「うちらの世界」的なものは学歴を問わずあると。
たしかに学歴の高低と「バカ」を関連づけても、あまり面白い話にはならない。にも関わらず多くの人が学歴話で盛り上がったのは、学歴の違いによる(と思われる)文化の違いがどこかにあるからだろう。その違いや溝が具体的に見え、それについて言葉を紡ぐことができるのは、比較的学歴の高い人が多いということなのだろう。
文化間の溝は昔は貴族文化、武家文化、町人文化というように階級の違いで説明できた。そして階級がなくなりそれぞれの文化がある程度混ざり合ってきた以降の時代も、厳然としてハイブロウ、ロウブロウといった文化の溝は残った。それは都市と地方の違い、もっと言えば都会者と田舎者の違いだった。いくら学歴が高くても、越えられない壁というものがあった。
たとえば夏目漱石の『三四郎』(明治41年)には、九州から東京帝国大学に進学するため上京した小川三四郎が、自分の田舎者ぶりを痛感する場面がしばしば描かれる。山の手お嬢さんの里見美穪子*1に連れられて行った上野の展覧会で、美術の素養のある美穪子に意見を求められても、油絵と水彩画の区別がやっとつくくらいの彼には、気の効いた感想が言えない。
田舎の「うちらの世界」から脱出すべく上京した三四郎の前に立ちはだかる、東京のハイソでインテリな「うちらの世界」。本郷文化圏のハイブロウの美学的ステイタスは、地方出の秀才で芸術に縁のなかった三四郎を圧倒する。
『三四郎』の美術館の場面でいつも昔を思い出し、私はかすかに胸がイタくなる。現代アートギャラリーで矢のような早さで交わされる”アートな会話”を、一生懸命聞き取ろうと苦心していた19歳の頃(1980年前後)。私もかつて、都会者の「うちらの世界」に参入したいと思って上京した田舎者だった。その世界のルールと作法を学ぼうと必死になっていた。
そのうち、アートを含む文化系インテリの人々には、”「うちらの世界」という認識”がないらしいということがわかってきた。彼らが現代思想用語を駆使して語っている世界は、「うちら」という小さな閉じたものではなく、単に「世界」。その「世界」には、あらゆる「うちらの世界」が含まれているらしい。少なくとも文化系インテリの人々はそう思っている‥‥。
話を戻して。大正から昭和にかけて大衆文化が広がる一方で「新興芸術運動」が起こってくると、文化の溝は都市の内部で問題視されるようになる。
美術史学者の五十殿利治によれば、一般大衆と芸術との著しい乖離を憂える議論が、1927(昭和2)年の『美術新論』という雑誌で取り上げられている。以下は、プロレタリアート文学の前田河広一郎と、ダダイズム運動の詩人、辻潤の意見の対立について紹介されている箇所から。
[…]前田河広一郎は「飢えたる民衆が、笑って美術院を見に行った例が、美術院創まってありませうか?」と美術界への厳しい見方を示しただけでなく、「醒めたる民衆の大部分が、諸君を目して『ブルジョア芸術家』と侮蔑し、醒めざる民衆の大部分が諸君に無関心であり、盲目的に憎悪をもっているのは、蓋し無理もない」とにべもなく、美術家の社会的な意義を否定する。そして、「目覚めよ!アトリエのガラスを砕いて社会へ出よ!」と美術家に対して社会現実への覚醒を求めるのである。
これに対して、辻潤は正反対の立場をとる。辻は大衆の生活状態からすれば美術どころではないのが実態だし、実際問題として大衆は美術品を要求していないどころか、「所謂大衆文芸さへ要求していない」。「現代はキネマとラヂオの時代である」からだ。それゆえ、「大衆が審美的な要求」を持つまで、「芸術家は各自の信ずるところに従ってその創作に精進せよ!」と孤立をもいとわない芸術活動の自立を主張した。
論考『新興美術運動と大衆美術‥‥観衆論の視座から』(『美術のゆくえ、美術史の現在』(平凡社、1989) p.172)
前田河広一郎も辻潤も「大衆は芸術なんかに興味はない」という現状認識において一致している。芸術家が「うちらの世界」化しているのではないかという前田河広一郎の意見、影響力において「キネマとラヂオ」が美術よりはるかに勝っているという辻潤の認識は、現代にも通じるものがあるかもしれない。
しかし、「キネマとラジオ」を仮に「アニメ・マンガとネット」に置き換えて考えると、今はその中にも断絶がある。
講義で上映したアニメについて非常に洞察力を働かせた感想を書く学生が少数いる一方で、「物語の内容が理解できない」という学生が時々いる。『風の谷のナウシカ』を読みたいというので貸したら、「途中までしか読めませんでした。話がややこしくて」と返された。
断片の面白さには反応するのだが、逆に断片にしか反応できない。全体を通して物語を考察することはできない。もちろん文脈や背景から何かを読み取るということも知らないし、そういう読みを通しての理解があると知ってもあまり興味を示さない。
地方都市の郊外にある、偏差値50を切るくらいの大学での話だが、似たような話はあちこちで耳にする。ハイアート/大衆文化という昔ながらの断絶‥‥今はそれはほとんど消滅したが‥‥とも異なる、都会者/田舎者、学歴の高低だけでは測れない、文化資本の多寡としかいいようのない溝。
そして、こういうギャップを論じる者は(私を含めて)ほとんど、「うちらの世界」に届かない言葉でしか「世界」を語れない。その言葉もたぶん、別の「うちらの世界」の言葉だからだ。