『あまちゃん』で描かれているのは岩手県北三陸市という架空の街だが、ロケ地が同県の久慈市だったため、舞台は実質、久慈市ということになっているらしい。
岩手県北西部の海沿いに位置する久慈市も津波の被害を受けたものの、死者2名、行方不明者2名に留まったということで、ドラマでも今のところ皆無事なのである。えがったねぇ。
さて期待した人には悪いですが、本記事は『あまちゃん』についてではありません。
先月下旬に夫が、岩手県陸前高田市の県立高田高校に「被災地ボランティア出張授業」に行ってきたので、その話を書く。又聞きです。
陸前高田市は、岩手県の南の端にある。隣は宮城県の気仙沼市。このあたりは津波被害が甚大で、市街地が壊滅状態となった。陸前高田市の死者は1556名、行方不明者217名。人口に対する犠牲者の割合は、宮城県女川町、岩手県大槌町に続いて3番目に高い。(参照:東日本大震災における死者・行方不明者及びその率(県別および市町村別))
出張授業は昨年に続いて2回目。どういう関係で行ったのか、被災地の様子、高田高校の生徒の声などは、どうぞ1回めの記事を参照して下さい。
去年の夏、海岸沿いにあった山のような瓦礫は、今年はきれいに撤去されていたそうだ。校舎に激突した高田高校の体育館も壊れた市民文化会館も片付けられていた。もちろん街は無くなったままで、去年と変わらぬ草ぼうぼうの「荒野」が広がっていた。
これから地盤沈下した市街地全体を平均6メートルかさ上げし、10メートル高の防波堤を作り、その外にかつての松林を再現するそうだ。それに最低15年かかるという。
高田高校はすべての施設が全壊したので、北隣の大船渡市にある旧大船渡農業高校を仮校舎としており、夫らが宿泊したのも大船渡市である。周辺には土木作業など復興のさまざま仕事で滞在する人のための、プレハブの飲屋街ができている。あとは銀行、郵便局、コンビニ、薬局、コインランドリーなど。
陸前高田の「奇跡の一本松」の復元保存は、一億五千万円もの募金で賄われた。他にいくらでもお金の使い道があっただろうに‥‥と思ったことがある。だが一本松は陸前高田の新名所になっていて、その絵のついた沢山のお土産物(クリアファイルからお酒まで)が売られている。「奇跡の一本松」は復興のシンボルだけでなく、何もなくなった街に残された人の商売のアイコンとしても機能しているのだ。
夫が入った店では、店主が津波被害の話を観光客に語って聞かせるのが「売り」になっていたらしい。夫はそこで、一本松の絵がラベルに印刷されている日本酒を1本買った。
「ものすごく細かくどうやって苦労して店を立て直したのかを、ずーっと話してくれるんだ。最初は俺らも一生懸命聞いてたんだけど、全然終わらんのよ。そのまま最後まで聞いてたらもう1、2本買わなきゃいかんような雰囲気なのよ。悪いなと思ったけどちょっとしんどくなって、他のお客さんが入ってきたのを潮に店を出た」。
‥‥‥被災地の人も必死なのだと思う。
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高田高校の化学の伊勢勤子先生から、震災関係のレジュメを幾つかもらってきた。それぞれ他の媒体に寄稿された原稿のプリントらしく、津波が学校を襲った時の状況、生徒たちの様子、失われたもの、その後の経過などが、先生自身の目から詳述されている。
そのうちの一つ、『同じ被災者として生徒に寄り添う』(NPO法人キッズドアへの寄稿文より転載)の冒頭の文章。
「持ち物はすべて流されました。私に残ったものは、その時着ていた白衣とサンダル、それから化学室のカギでした。」
陸前高田市唯一の高校である県立高田高校は、岩手県内の学校では最大の被害を受けた。生徒22名、教職員1名が犠牲になり、保護者を亡くした生徒は32名(震災から2週間目の時点)。全校生徒の6割、教職員の7割が被災した。
2011年度は「震災を乗り越えようと、みんなが無我夢中」だったそうだが、2012年度に入ってから生徒たちに、心身への震災の影響が現れ始める。インフルエンザの蔓延による学級閉鎖、風用症状を訴えての早退・欠席の急増、前年度にはほとんどいなかった不登校の生徒の増加など。
被災の程度の違いや被災経験の有無でお互いが気を使ってしまい、コミュニケーションにも微妙な齟齬が生じてくる。生徒間でも先生間(新しく赴任した先生は当時の状況がわからない)でも生徒・先生間でも、震災についての話がしづらくなっている局面があるということだった。
読んでいて一番驚いたのはこんなエピソード。
昨年度(2011年度)の推薦入学において、11月上旬の大学の推薦入学試験の面接試験で震災のことをすごく聞かれて、ずっと泣いて話せなかった子が出たんです。これではまずいと思い、その後に受験する生徒には、震災のことや被害のことをしつこく聞いて、『面接会場で泣くよりも、今、泣いていけ』といって自分も泣きながら面接の練習をしました(今年度も、当然、同様に練習しました)。
その大学の面接官の無神経さに対し、おそらく先生は抗議したい気持ちもあったけれども、そうすると生徒の合否に響くかもしれないので押さえている‥‥ということではないかと想像。
無神経な側に被災者の側が合わせて精神的負担を強いられる状況は、他にも目につきにくいようなところでいろいろあるのかもしれない。
その他、印象に残った箇所を抜粋させて頂く。
支援についてはいろいろな考えがあると思います。「震災がなければ、アーチストや著名人が来たり、イベントなどなかったはず。普通の高校生活をするには、そういう人たちと関わらないほうがいいのではないか、振り回されるのではないか」「非常時を過ぎれば、自力でやっていくために、支援を受けないほうがいいのではないか」という考えもあれば、「震災で以前にはなかった問題を抱えた生徒や、時間がたってもっと大変になっている生徒もいる。生徒に必要な支援は受けた方がいい」という考えもあります。
いずれにせよ、返済不要の奨学金や、就学の援助など本当に助けられた生徒は多かったです。今後も、実は被災者の生活の状況はあまり変わらないのではないかと感じます。ですから、可能であれば、自分は奨学金などの就学援助は必要だと思います。
震災から数ヶ月たった頃、日本赤十字社のドクターから「何か困っていることはないですか?」と聞かれたことがありました。教育相談担当の先生が、「心のケアが必要な生徒はいますが、うちの学校以外にも、ひどい被災をしたり生徒が亡くなったりしているところもあるから、うちの学校だけが困っているとはいえません」と答えました。すると、ドクターは「高田高校は、岩手県内の高校で最も校舎の被害が大きく、亡くなった生徒数も一番多い。その学校が声を上げなければ、他の学校は何もいえないんですよ。高田高校から声を上げてください」といわれました。私は、たまたま、教育相談のその話を聞いていて、「生徒や学校の状況をできるだけ外に伝えていかないといけないのではないか」と考え方を変えました。
震災直後は、進学を断念しなければならないのではないかと考えた生徒が多かったが、たくさんのさまざまな支援を受けて、大方が希望を捨てずに済んだという。一方、看護師志望の生徒が増え、自衛隊、警察官、消防士など災害救助系の仕事にも人気が集まってきている。
2012年度からは、ほとんどすべての学校行事が行われるようになった。高田高校の新校舎は現在工事が始まり、2015年に完成の予定とのこと。
● 追記
夫の授業について書くのを忘れていた。
午前中一杯を使って、何組かの授業やワークショップが一斉に行われ、生徒は自由選択ということになっていた。生物専門の夫の今年のテーマは鰻。前半で講義を行い、後半で鰻を食す。
数日前に冷凍鰻30本とタレを送っておき、講義の間に調理室で御飯を炊いておいてもらい、講義後、鰻に火を通して刻む、アサツキを刻むといった作業を手分けして行い、ひつまぶしを作って生徒たち20人ほどにふるまった。3杯おかわりする生徒もいたそうだ。鰻が余ったので、御飯を追加で炊いて先生たちのお昼ご飯も作った。
”これらの予算は、支援のバックについている東京の小さな出版社が出しており、社員もボランティアスタッフとして参加している”→訂正:活動は、いいずな書店と提携し、プロジェクト賛同者からのカンパ金積立により行われている。ワークには、いいずな書店側から参加した社員(経費は書店側が負担し別会計)も入って行われた。