夫の被災地出張授業(岩手県立高田高校)

今週の前半二泊三日で、夫が岩手県陸前高田市に行ってきた。同業の予備校の先生の発案で、岩手県立高田高校で夏休みのボランティア授業をするため。東京の小さな出版社が支援のバックにいる。
その話を最初に聞いた時は、「私も行きたいな。美術のワークショップの需要はないかな」「プラン出してみれば? 採用されるかどうかは知らんけど」などという会話を夫としていたのだが、父の介護問題が浮上して私は断念した。


高田高校には普通科の他に海洋システム科(昔は水産科と言ったが最近は「漁業」より「研究」のイメージを強めるためにこういうネーミングをするらしい)があり、夫は専門が魚類なのでまあ適任だろうということで話が来たらしい。
海水魚については場所柄詳しいだろうから淡水魚の話をする」というわけで、夫は長良川の漁と生活というテーマでレクチャー。父親が岐阜県板取村の出身の関係で、彼自身も長良川には子どもの頃から親しんでおり、かつて河口堰ダム建設反対運動にも関わっていたので、それを絡めた話と思われる。
「で、残りの時間で五平餅を作って皆で食べる」。五平餅とは半搗きにして粘りを出した御飯を細長い小判型に竹串に巻き付け、胡桃などの入った味噌や醤油を付けて焼いた中部地方の郷土料理。焼きおにぎりとみたらし団子の中間みたいな感じだ(きりたんぽと似ている)。昔は主に山の中で働く人の食べ物だったが、今は「道の駅」や屋台などでおやつとして売っている。
出発の前日、夫は張り切って約30人分の五平餅のための「特製味噌」を作っていた。赤味噌(豆味噌)を味醂で少し伸ばして火にかけ、胡桃、ピーナツ、胡麻などを摺って混ぜる。こちらの豆味噌は辛くてコクがあるが甘味が足りないので黒砂糖を投入。板取村で義従兄弟が作った蜂蜜を足したら、まろやかな味になった。


全世帯の7割以上が津波に攫われたという陸前高田市を、グーグルのストリートビューで見てみた。ぽつりぽつりと鉄筋の建物が残っているのみで、泊まる予定のホテルの周辺も荒涼とした風景が広がっている。高田高校も廃墟と化し、授業は隣の市の、かなり前に廃校となっている旧大船渡農業高校の校舎で行われているとのこと。
帰ってきてから話を聞くと、名古屋空港を飛び立ったジェット機は一旦新潟方面に向かい、新潟上空から進路を変えて宮城県仙台方面に飛び、そこから花巻空港を目指した。JRの駅舎が流れ鉄道も復旧していないため、花巻空港に迎えに来たバスで夫ら一行は陸前高田市に向かった。


夫によれば、当地は瓦礫が海岸端にまとめられてものすごい規模の山になっており、見た目の印象としての復興はまだあまり進んでない模様。ストリートビューで見るのとそれほど変わらない光景だったという。違うのは、復旧作業で働きに来ている人々のための屋台村のような飲食店街が出来ていたこと。あとはドラッグストアとスーパーが開店していた。
「五平餅の評判どうだった?」「おう、みんな『うまいっすねー』って食ってたよ。余った味噌は高校の先生にあげてきた」。
以下は夫の撮った写真。



駅舎が無くなりホームだけが残る陸前高田駅。線路は撤去されて、バスのレーンになる予定だそうだ。



瓦礫の山越しに見える「奇跡の一本松」。



枯れているので下の方は樹脂で固められ、途中から藁が巻かれている。ゆくゆくはこの一帯を記念公園にするそうで、一本松は中を刳り貫き心棒を入れ全体を樹脂で固めた状態で残されるらしい。



気仙沼の元市街地に乗り上げたままの大型漁船。これもそのままにして周囲を公園にするらしい(2013.9.3追記:漁船の持ち主が現れ撤去の費用が自治体から出ることになって、撤去された)



漁船の脇に誰かが作った祭壇(?)。大黒様、狸の置物、ペットボトル、花、千羽鶴‥‥。



家の跡地に元の住人が植えた向日葵。こうした光景がいくつか見られたそうだ。



津波に押されてグラウンドの向こうから移動して校舎に激突した高田高校の体育館。



三階まで水が来ていた校舎。


2011年3月11日からの一年間の高田高校在校生たちの模様を、写真と文章で構成した小冊子を頂いてきた。その中に、生徒たちの作文から文章を抜粋したものがあった。いくつか紹介。

■ 震災後の町の光景を言葉で表すと、原爆を受けた町の写真をカラー化したようなものでした。
■ 自分が被災者の立場になるとは、今でさえ、本当に被災したのか、分からないときがあります。
津波の意識があったはずなのに実際に津波が来るまで、津波とはどういう事だか全然わかっていなかった。
■ すでに家はなくなってしまったのに、家に帰りたいと思いながら毎日を過ごしていました。
■ 全校生徒が校庭に避難した。その30分後、テニスコートの近くの林から水しぶきが上がった。夢だと思った。
■ 両親を失ったことはとてもショックな事で、気にしていないふりをしているだけで未だに引きずっています。
地震後、高田に行こうとしたら「何も無い。高田が無くなった」と道を整理中のおじさんに言われました。
■ 以前の高田があるような気がして「ゲオに行きたい」「リプルで買えば」と口にしてしまうことがあります。
■ 家の庭で揺れが止まるのを待ち、ラジオで情報を聞いている間に、来ないと思っていた家まで津波が来ました。
■ 斜面を這い上がり学校を眺めると、濁流が学校に押し寄せていた。一分遅かったら‥‥と思うとゾッとした。
■ 先生のいうことを聞かずに祖母を迎えに行ったら祖母は助かったのだろうか、と考えてしまう時があります。
■ 弟は体育館に避難して亡くなった。19日に遺体安置所で弟を見つけた。なぜ体育館に避難してしまったのか。
■ 駅前が無音になっていました。音がないということがあんなにも怖いことだとは思ってもみませんでした。
地震が起きてから人が変わった人もいた。恐くなってしまった。だが、みんな自分の意思で頑張っている。
■ 命があるだけで良いとは言うけれど、実際はそうじゃないと子供ながらにそう思う。
■ 震災から2ヵ月たった今、これから自分は、何をしたらいいのかは正直まだわかりません。
■ 家族を失った。でも僕は生き残った。独りではなく友達もいる。寒かった夜も励まし合いながら乗りきった。
■ 挨拶のように「生きてて良かった」と声をかける。揺れにも何も思わない。震災後、感覚がおかしくなった。
国道45号線のすぐ隣は海になり、その光景はとても寂しい。気持ちを立て直そうとしても悲しいです。
■ 電気や水のありがたみや物の大切さを感じる事ができ、僕は裕福な暮らしをしているんだなぁと思いました。
■ このまま高田に残り、復興の手伝いをしていきたい。自分達の町は自分達で復興させないと意味がないと思う。

(『岩手県立高田高等学校 一年の記録』より)


四百数十人のうち、先生と生徒合わせて二十数人が亡くなったという。