ラッセンは「宗教画家」であり「インサイダーアーティスト」

またラッセンかと言われそうだが、一つ前の記事「美術史は歴史修正主義のカタマリ」に、ブックマークコメントでツボにはまる補足説明が入ったので書いておきたい。

Midas ↓美術史家としての立場から補っくと「ラッセンが正統文脈の美術史見直しに入らなかった」のはその『ニューエイジ』が示すように宗教画(イコン)家だから(美術史の系統樹を考えた場合枝分かれしてる点が昔すぎるから) 2013/09/03
http://b.hatena.ne.jp/Midas/20130903#bookmark-160037550

Midas 「ラッセンはインサイダーアート。社会主義リアリズムの亜種」と書いた通り。宗教画は近代に『プロパガンダ』『アウトサイダーアート』へ分裂する。後者が稀に正統史に含まれるのは我々が人格を有すると信じてるから 2013/09/03
http://b.hatena.ne.jp/Midas/20130903#bookmark-160144514


「‥‥と書いた通り」というのはこれのこと。

Midasあえて分類するなら「インサイダーアート」(逆・アウトサイダーアート)。社会主義リアリズム絵画の亜種。見るものを不安にさせず、体制順応と労働へ誘惑する。「この財布にしたとたんモテモテ」と同じ。社会の恥部2008/04/21
http://b.hatena.ne.jp/Midas/20080421#bookmark-8306954


ラッセン=「宗教画(イコン)家」については、前に作品の印象論で書いたことがあった。

[‥‥]その「平等への欲望」と、レーガノミックスの時代の楽天的な資本主義的欲望との閉じた円環を裏から支えていたのが、ラッセンの「スピリチュアル」でヒーリングムードたっぷりな平和のイメージだった。
 では、それらがなぜ日本人のツボに嵌ったかと言えば、あのディティールが細かく色彩がファンタジックで現実離れした表層だけの虚構世界が、現代版の”極楽浄土”の図として受容されたからだと思います。だからアートとしての価値は問われなくてよかった。”極楽浄土”を描いた仏画はネットの通販でもよく売られていますが、「デオドラント文化」にとって抹香臭いのはNGです。
 狂乱のバブルとそれに続く不況期に潜在していた「踊らされてしまった」という後悔と「先が見えない」という不安のないまぜになった無意識に、ヒロ・ヤマガタラッセンは一種の宗教画=スピリチュアル・アートとしてアピールした。キリスト教信者でない限り教会に行くこともなく、家が浄土真宗だからと言って寺に参ることもない。都合の良い時だけ神頼みをし、信仰心などこれっぽっちもない日本の悩める衆生の「何かにすがりたい」「誰かに救ってもらいたい」願望にスルリと入り込んだ、苦しみのない安寧に満ちたファンタジー世界。これを飾って毎日拝めばきっと救われる。忘れたい現実を「ハッピー」な記憶に塗り替えられる。何十万もの支払いは”お布施”だったのです。


『アート・ヒステリー - なんでもかんでもアートな国ニッポン』(2012、河出書房新社)、p.186〜187


ここではラッセンヒロ・ヤマガタをまとめて論じたが、絵から受けるスピリチュアル臭で言えば圧倒的にラッセンだ。ラッセンの絵には、新興宗教のチラシのイメージ(「プロパガンダ」)がある。”ガイア”な感じもある。
雲間からまっすぐに差し込む光、それを受けた岸壁と波と木立の強い陰影、分割された空中と水中を同時に収める視点、絵の中に隠されたハートや文字。そこには自然の崇高さの中に神を見る、ヨーロッパ伝統絵画のテイストが濃厚に盛り込まれている。
昨年夏の「ラッセン展」では、確かオリーブの葉のようなものをくわえて飛ぶ小さな鳥(旧約聖書の「ノアの箱船」を思わせる)が、中央に描かれている絵を見た。人間は一切登場しないイルカをはじめとした海洋生物たちの楽園図は、そのままニューエイジの「イコン」だ。
ちなみに、17世紀のオランダで数多く描かれた風景画に、空の部分を広大に取った構図(一昔前ならそこには天使が描かれた)が多いのは、キリスト教的宗教観の反映と言われている。この時代の風景画や静物画は、一見宗教と関係ないように見えて実は深く関係しているものが多い。
ラッセンが属するマリンアートと言われるジャンルの大元も、17世紀オランダで量産された海景画だ。そこにあるのは単なる自然描写ではなく、大航海時代を背景にした、”新世界”に進出するキリスト教文化圏の眼差し。そう考えると、ラッセンのポストカードがハワイやマウイやニュージーランドなどの海辺の観光地で売られていることと、ヨーロッパに行くとどこの観光地でもマリアや天使の絵はがきを見ることとの相似性が見えてくるかもしれない。


ラッセンのようなマリンアートは近代以降、つまり聖書をモチーフとした宗教画やオーソドックスな風景画、静物画などのジャンル絵画が「正統文脈の美術史」(モダン〜コンテンポラリーアート)から閉め出されて以降、インテリアアートの中に生き延びてきた。
インテリアアートとは、平易なイメージで言えばデパートの美術品売り場で売っているような絵だ。カフェやホテルのロビーや客室に飾ってある「インテリア」としての絵画(彫刻もあるだろうが絵画が圧倒的に多い)。「正統文脈」の批判的継承を自認する方からすると、表面的にきれいなだけで古臭く俗っぽい絵ばかりが集まっているジャンル。
しかし視点を変えれば、アート、殊に絵画はもともとインテリアだった。王侯貴族がお抱え画家に描かせ、邸宅に飾り、己の趣味と権力を誇示してきたものだ。レンブラントが活躍した17世紀のオランダでは富裕層の市民もそれに倣い、絵を買って自宅に掛け(この時代には膨大な売り絵画家が登場したという)、その習慣はやがて各都市で台頭したブルジョワ階級に広がり今に至っている。
絵画が多くの人にとって主に美術館で鑑賞するものになったのはせいぜいこの300年足らず(日本では200年)のことで、絵画はその昔から‥‥少なくとも教会に替わって王侯貴族がパトロンとなって以降‥‥買って自宅の壁に掛ける物。日本でも床の間があれば軸の一つも掛けていたのと同じで、むしろ形式としてはインテリアアートこそが、古くからのアートの姿を「正統」に継承しているのだ。
インテリアショップにはよく、額装された版画や小さな油絵などが売られている。現代アートマネーゲームの投機対象として扱われているところはあるが、ギャラリーという”店舗”で売られ、買った人が自宅や会社などに飾っている以上、それはインテリアアートの一種だとも言える。


ここまで述べてきたアートは言うまでもなくすべて「インサイダーアート」、つまり作家意識をもち専門的な訓練を積んだ人が「業界」で発表しているアートである。そしてラッセンもそこに位置付けられる。
ラッセン本収録の論考『”アウトサイダーアート”としてのラッセン』で、斎藤環氏はラッセンを「アウトサイダーアーティスト」としているが、それはモダン以降のアートの「正統文脈の美術史」に登録されていないという意味での「アウトサイダー」であろう。
ラッセンその人は作家意識をもち、美術学校には行っていないが自ら専門的な訓練を積み、インテリアアートという業界で発表する「インサイダーアーティスト」である。
アウトサイダーアートは時に、この「体制」(世界)の外部をかいま見させるがゆえに「見る者を不安にさせ」るが、癒しのインテリアアートであるラッセンの絵はその反対。その意味で、「逆・アウトサイダーアート」ということなのだ。



ファインアート系および現代アート周辺に多いと思われるラッセン嫌い、ラッセン的なものへの軽蔑の根幹にあるのは、商法の問題を除くと「鈍感な俗悪趣味」(と彼らが見なすもの)への嫌悪だろう。*1
「俗悪趣味」なだけならまだいい。それがあえて取られている(とわかる)戦略であるならば。バッドテイストは時として保守的な趣味への挑発として使える。が、「鈍感な俗悪趣味」となると許容し難いとなるだろう。それが喚起するイメージは無知蒙昧、無教養、没個性、反知性、衆愚‥‥。アート系センスエリートが一番嫌う要素である。
ラッセンへの嫌悪は例えて言えば、リベラル左翼の人々が、ウヨク的なムードあるいは(ニューエイジ)ヤンキー的なものにぼんやり流されていく人々に対して抱く軽蔑・苛立ちと、どこか似ているのではないだろうか。


ラッセンを「宗教画家」、「インサイダーアーティスト」として、美術というジャンルのど真ん中に仮に置いてみると、モダン以降の「正統文脈の美術史」の”特殊性”が浮かび上がってくる。
しかしそれを”特殊”だとするなら、隠喩的な世界把握と換喩的な世界体験の間で近代的主体を手放せない、どこまでも凡庸な私(たち)*2も”特殊”だと言わねばならなくなるのではないか。
たぶんここに必要なのはまったく別の文脈だ。


●追記
以前に紹介しました↓この方もブログで興味深いラッセン論を書かれています。その中から宗教画について触れたものを。
ラッセンについて2 カジュアルアートは現代の宗教画か?トーマス・キンケードを見て

*1:ラッセン本に書いたように、自分の中にそういう要素があるのを決して認めたくなかったということもあって、私もかつてはラッセンを嫌い”軽蔑”していたが、ここまで来ると好き/嫌い、認める/認めないでは語れなくなった。

*2:こちらの記事後半の「アートの条件と隠喩/換喩」参照。