気持ちだけ山の手

東京から転勤などで名古屋に来た人は、市内の東の方に住みたがるという。地下鉄の駅でいうと覚王山、本山、自由が丘、八事、東山公園星ヶ丘、一社といったあたりだ。交通の便が良く、緑もあり、買い物にも便利で、オシャレな店も多い。通りから一歩中に入ると閑静な住宅街で、小綺麗な住宅や瀟洒なマンションが目につく。豪邸もこのあたりに集中している。名古屋はのっぺりと平坦な街だがこの地域だけは丘陵地帯なので、坂の多い街から来た東京の人には親しみやすく感じられるかもしれない。
この名古屋北東部の山の手、言わば”プチブル居住区”一帯から南西の方にどんどん下ってくると、起伏が徐々になくなると同時に町並み、家並みが変わってくる。土地が低くなればなるほど、庶民的でごちゃごちゃした下町の雰囲気に。走っている車も違えば、スーパーに買い物に来る主婦のファッションも違う。土地の高低で、わかりやすくも残酷に経済的な(おそらく文化的な面もある程度相関するだろう)階層がわかるようになっている。


私の実家は、山の手の南のはずれにある。近くに豪邸もあるが、少し下るとなんとなく下町っぽい雰囲気もあるところ。
この学区で、年明けに毎年バザーが開催される。以下は、町内の役員をやっていた関係で母が見てきた話。


バザー会場一杯に並べられるのは、贈答品である。八事方面の裕福な奥様たちが、お歳暮をはじめとした頂き物を処理しきれず、大量に持ち込んでくるのだ。高級ナントカの詰め合わせ、酒、高級ブランド衣類やブランド雑貨、ブランド食器のセットなどがずらりと並ぶ。一番多いのは食品だ。フロアはまさしくデパートの贈答品売り場の様相を呈する。
バザーの日は開場前から長蛇の列となる。皆さん、手に手に大きなスポーツバッグ、ボストンバッグなどを持って並んでいる。家族総出でそれぞれデカい袋を下げているグループもいる。下町方面から来た人々だ。下町方面の人々にとって、人から貰うこともない高級品が超安値で提供されているので、朝から駆けつけてくるのだ。
扉が開くと同時に、人々は少しでも良いものを早く手に入れようとドッと会場に傾れ込む。たくさん並んでいた贈答品はあっと言う間に売り切れる。皆、袋やバッグを満杯にし、肩に担いだり自転車の前と後ろに満載して帰っていく。


その話を聞いて夫は、「それいいな。俺も行きたい」と言った。私も、どんなものが並んでいるのかちょっと見てみたい気がした。母は即座に、「そんなことするの、やめて頂戴。貰いものがあったらあげるから」と言った。
実家はもうお歳暮を頂くこともほとんどないし、そもそもお金持ちでもないが、母には「お金持ちが放出したものに群がるのは、はしたない振る舞い」という感覚があるのだろう。”人のおこぼれ”に預かるのは貧乏人根性丸出しで、自分が卑しくなったようで厭だと。


そんな母も、役員をしていてつい迷ったことがあるそうだ。数年前だが、近所の超豪邸にお住まいのセレブ奥様からバザーの品を預かった時である。幾つもの大きな紙袋に無造作に入れられたのを好奇心に駆られて出してみると、バカラのグラスセットや高級珍味の詰め合わせなどと一緒に、手を通していないブランド衣類がごっそりあった。
さすがお金持ちは出すものが違うわと思って見ていくと、イタリア製の男物のカシミアジャケットが出てきた。母は「これ、お父さんに良さそうね‥‥」と思い一瞬欲しくなったが、”役得”で貰ってしまうのはやはりマズいのでそのまま元通りにしまい、バザー品の回収に出した。
会場に一番に駆けつけてそのカシミアジャケットを安くゲットするのは、山の手(の裾野の)奥様としての自尊心が許さなかったようだ。まあそれを着て散歩している父が件のセレブ奥様に道でばったり会ってしまったら、母としては表を顔を上げて歩けなくなるくらい恥ずかしいことだろう。


十万以上する高級カシミアのジャケットも、母は買おうと思えば買える。でも「そんな高いもの、もったいない」という金銭感覚も持っている。お金持ちの贈答品には興味津々ながら、一方でそれに群がる「庶民感覚」を「貧乏人根性」と見なし「うちはじゅうぶん足りておりますの」という顔で澄ましているのを良しとする。「上流」に憧れる「中流」のメンタリティは、気持ちだけ山の手。
‥‥私なら、高級珍味詰め合わせをくすねようかどうしようか、小一時間悩むかもしれない。