あげたりもらったり

お中元と誕生日プレゼント

「人に物をあげるのが好きか、好きでないか」でいうと、夫はかなり好きな方だ。もう25年間も四人の人にお中元を律儀に贈り続けていたり、ちょっとどこかに行くと「これ、○○君に買ってったろか」「△△さんの好きなやつがあった」と、特に期待されているわけでもないのに友達へのお土産を買うことを忘れない。
私はあまりそういう場合の気が効かない方なので、その点は夫に感心している。
夫がお中元を贈る人達は、若い頃に大変お世話になったという、ずっと年上の人達だ。これはもう、相手の方が亡くなるまで贈り続けると決めてるそうで、要はそのくらいの感謝の気持ちと義理堅さを示したいということだろう。
友人へのお土産にも、やはりどこか義理堅さを示したいというのがあるように思う。日頃よく遊んでもらったり、何かと気にかけてくれる人達だから。


夫と私の間では、最初の頃は誕生日のプレゼント交換などしていたが、今では誕生日は食事を奢るという形に落ち着いている。だいたいの物(もちろんそう高価でない小物)は既にお互いにあげてしまっていて、今更考えたりわざわざ買いに行くのも面倒なので、メシと酒で済まそうと。
別々に旅行に行った折りなどに何か買ってくることはあるが、ほとんど食べ物だ。自分も食べられるので一石二鳥。


生まれて初めて人に贈り物をした時の記憶は苦い。
小学校2年の時クラスの男子の誕生日会に呼ばれ、母がデパートで買ってきてくれた、わりと上等なクッキーの詰め合わせを持っていった。お菓子なら嫌いということはないだろうと。
しかし彼はビリビリと包み紙を破いて「クッキーかぁ」とつまらなそうに呟き、そのまま横にどけた。お母さんに「ありがとうは?」と言われ、気のない声で「ありがと」と言った。あとは他の友達にもらったミニカーや昆虫の図鑑に夢中になっていた。
あの時ほど恥ずかしかったことはない。普通なら相手の無礼な態度にムッとしてもいいのだが、その時はひたすら恥ずかしかった。
男の子の全然喜ばないものをあげてしまった、気の効かないダサい自分。お祝いのカードに絵を描き、包みに水色のリボン(男の子だから!)までかけてもらったのに。
バカバカ自分のバカ。もう早く帰りたい。


男の兄弟でもいればまだよかったのかもしれないが、当時は男の子が何が好きかなんか知らないし興味もないし、母もそこまで気が回らなかったようだ。
その後、男子の誕生会に呼ばれることもなく小学校生活は過ぎ、中学、高校とますますその手のことはなくなり、「男性にプレゼントする時は何がいいか」がわかる頃にはいい大人になっていたので、そういう失敗は一度だけで済んだ。


大人になってわざわざプレゼントを贈るような男性は、相手の好みがよくわかっている親しい友人か恋人なので、そう外すということはない。もし万一「あれれ?」と相手が思ったとしてもそれを表に出すのは子供の証拠なので、普通はにっこりして「ありがとう」と言うわけだし。
自分もそうしているので、大抵の人はそうしているものだと推測する。
どうにも自分の趣味に合わないので、押し入れの奥深くしまってあるものはやっぱりある。気のおけない人には、「くれるのは有り難いけど、これ実はあまり好きじゃないんだ」と伝えた方が、本当はいいのではないか?と思うこともある。でも家族は別として、そういうことは言いにくい。
その人は良かれと思ってくれたんだし、気持ちだけ受け取っておけばいいや。

ポトラッチと「贈与の一撃」

贈与のことを、別の言い方でポトラッチと呼ぶ。
これはマリノフスキーというフィールドワーカーが20世紀初頭、南大西洋のさまざまな島で、貨幣を介した消費経済ではなく、物品の交換という交換経済が行われていることを発見して「クラ交易」と名付けたのを、人類学者マルセル・モースが『贈与論』の中で「ポトラッチ」と言い換えたところから、有名になったという。
前、友人が「今度のうちのパーティは、ポトラッチ形式でいきます」とメールをくれて、普通に使う人はいるのだなと思った。「ポトラッチ形式で」とは、「持ち寄りパーティで」ということだ。ゲストはそれぞれ食べ物を持ち寄り、ホストは酒を用意するといった具合。
私も年末年始などは家で、5、6人のささやかなポトラッチパーティを開く。平日の昼間なら専業の奥さん達が、銘々手作りのお惣菜など持ち寄って、今日はスズキさんとこで、さ来週はヤマダさんとこで昼食会しましょ‥‥なんてのもあるかもしれない。持ち寄りパーティのためのお惣菜(傷みにくい、冷めても美味、汁気が少ないので持ち運びが安心)を紹介した料理本まである。


文化人類学では、人がどんなポトラッチをするのかについて、さまざまなフィールドワークが行われてきた(参照:ポトラッチの実体)。ポトラッチには返礼を求めない施しに近いもの、交換を前提とした信頼の確認、相手に自分の富を見せつけるための示威行為など、さまざまな種類があったようだ。
考えてみればお中元やお歳暮にしても、「示威行為」(というか見栄張りごっこ)と化している場合はあろうし、誕生日プレゼントの交換などは、友情や愛情の確認という意味合いもある。贈り物をしたら感謝の言葉や態度を期待するのは当然で、最初から何らかのお返しを前提としていることも多い。
だから、「もらったから何かお返ししないとならない、困ったな、別にあの人からもらいたくなかったんだけどな」などという悩みも生じる。「ラッキー、有り難くもらっておこう」で終わりにならないのだ。しかも相手よりちょっとだけ高価な物を贈り返して、わざわざプレッシャーを与えたり「貸し」を作ったりするような場合さえありそうだ。
「もらったら返さねば」「あげた分は取り返さねば」という交換経済の世界に生きている私達は、「贈られっぱなし」ということに馴れてない。だから「贈与の一撃」によって私達は心理的負債を負い、相手との関係が非対称であることを知らされる。


だが、「お返し」を直接しなくていいという場合もある。
先輩が後輩に奢ること。「君らも先輩になったら後輩に奢ってやってくれ」。それで良き伝統は守られる。
先生が教え子に蔵書をあげること。「これでしっかり勉強してくれたまえ」。それで知の継承は行われる。
そこに「下の者に良く思われたいだけじゃないか」「相手を支配するためではないか」という穿った見方を差し挟むことは、私はあまり好きではない。

赤いスリッパ、白いサイコロ

なんだかんだ言っても、贈り物は、やはりいいものだと思う。贈り物をしたい相手がいるということは、幸せなことだ。ちょっとした物ですごく喜んでもらえると、本当に嬉しい。
あんまり人に贈り物をしない私にも、そういう思い出はある。


もう7、8年前のことだが、歳下のある女性の誕生日に、赤いフェルトの室内履きをプレゼントした。その人は当時、終日大学のパソコンルームで仕事している人で、私も個人的に何かとお世話になっていた。
室内履きなんてただのスリッパでどうってことはないし、ブランドものでもない。それに私は小さい刺繍を施した。彼女が射手座生まれだったので、弓と矢のマークを。スリッパの甲の中に手を突っ込んで針を使うのが結構やりにくく、その刺繍はきれいに左右同じにはならなかった。でもその人は大層感激してくれて、自分も幸せな気分になった。
もらって嬉しいというのには、その品が欲しかったかどうかとは別に、「思いがけなさ」があるのだろう。彼女は、私が刺繍なんてチマチマしたことをしない人だと思っていたらしい。その場にいた人達も、同じく「意外」という反応だった。
何かあげる時、人をちょっと驚かすのは楽しいものなので、私も気持ちに余裕がある時はそういう小細工をするのである。


もらってとても嬉しかったものもあった。誕生日プレゼントでも何でもない、いきなりもらってビックリのパターン。
渡辺英司という古くからの知人の作家の個展に行った時のことだ。


展覧会会場の床に、真ん中に小さいピラミッドのような形を載せた、およそ1メートル半四方の白い厚めの板が置いてあった。
近くに寄ると、板と見えたのは膨大な数のサイコロを敷き詰め、ピラミッドはそれを一個一個積み重ねたものだった。サイコロは、1の赤い目だけ着色されており、後の5つは色なしの、目が薄く丸い凹みになっているままの状態。それで、遠目に全体が白っぽく見えたのだ。
「英司君、これって、このサイコロどうしたの?」
「これは工場で特注で作ってもらったの」
「へえー‥‥」
私はしゃがみ込んでじっくりと見た。1から6までを示す6つの面をランダムな方向に向け、隙間無く整然と並んでいる何千個もの白いサイコロ。赤い1の目の出方は偶然性によるものだ。
「面白いねー、すごく面白い」
私は彼の発想に心から感心した。
すると英司君は、ズボンのポケットから何か取り出し、
「はい」
と言って私の手に乗せた。それは二つの白いサイコロだった。
「あげる」
「えっ、くれるの?いいの?これ予備の分じゃないの?」
「いいよ、まだ余分はあるし」
英司君はニコニコして言った。
「わぁー‥‥ありがとう」


そのままでは使い道のない「未完」のサイコロである。しかしそれは、彼の作品のアイデアの基本形をなす、他にはない特別なサイコロである。
それだけでも大変嬉しいが、何かをあげるという場面では全然ないところで、いきなりひょいとポケットから出して、飴玉でもくれるようにくれたのに、ふいを突かれた。
カッコいいなあ。こういうさりげなさは、狙ってできるものではないと思った。
それにしても、二つくれたのは「大野さんのキャラは、丁か半かの博打打ちだね」という意味だったのか? もしそう訊いたら英司君は、「何でも理由をつけたがるよね、大野さんは」と笑っただろうけど。


二十年近くも前の思いがけない贈り物は、今、私の手の中で、カチカチ小さな音を立ててぶつかり合っている。