女子の芸事

ハイパーガミーの条件

今はどうだか知らないが、昭和40年代の小中学生の女子には、ピアノかエレクトーンを習っている子が多かった。女の子のいる一家に一台、ピアノかエレクトーンがあったのではないかという趣き。
どうしてそういうことになったのか考えてみると、一種のお嬢様志向があったと思われる。


小倉千加子の『結婚の条件』でも触れられているが、戦後台頭した中流家庭の母親は、娘をお嬢様に育て、いいとこに嫁がせようといろいろ頑張った。
自分は失敗したが、娘にはハイパーガミ−(上昇婚)を狙わせる。実家より少しでも物資的に恵まれた家の、しっかりした勤め人の息子に見初められ、旦那の稼ぎを補うためにあくせく働かなくてもいい幸せな結婚をして、専業の奥さんに収まりなさい。
そういう上昇婚成就のためには、ハイソなお嬢様らしくピアノかエレクトーンの一つも弾けた方が体裁が良い。
例えばお見合いのプロフィールに「趣味特技‥‥ピアノ、お菓子作り、英会話」とあれば、「上品で家庭的で知性もある」と"解釈"され、「ほほう‥‥」ということになる。一生がかかっているんだから、ただ意味もなく並べているんじゃないのである。


そのちょっと前なら、「趣味特技」の王道は純和風に「茶道、華道、日舞」だった。別に毎日茶室で茶を点て、床の間に百合や菊や楓の枝を活け、着物を着て生活していなくてもいい。
「茶道」は客人をもてなす作法が身についているという意味に、「華道」は主婦として家庭を美しく飾るセンスがあるという意味に、「日舞」は女らしい立ち振る舞いができるという意味に"解釈"される。そして「ほほう‥‥」ということになる。


それらの習い事などしてなくても、作法やセンスや立ち振る舞いは身につけられるのだろうが、わざわざ金のかかるお稽古ごとをしてますというのが、良家の子女としてのアピールポイントなのである。ちょっとピアノが弾ける(プロ並みじゃなくても"お嬢様芸"で十分)というのも、それと同様で言わば洋風のオプション。ピアノも嫁入り道具の一つであったりしたのである、一頃は。
「茶道、華道、日舞」は、今で言うと、「テーブルマナー、フラワーアレンジメント、ソシアルダンス」という感じになるだろうか。ある程度の生活レベルを保持していないと、生かせないような趣味ばかりである。セレブな主婦を目指す人は、そういうこともやっておかねばならないので大変だ。


しかし大昔(明治時代)、教養のある家庭の子女は、まず学問をせねばならないということになっていた。唄や三味線や踊りなどにうつつを抜かしているようなのは、芸者か遊女になるのが関の山だ、と悪口を言われた時代があったのである。
三味線や踊りにお洒落や化粧はつきものであり、お酒の席とも親和性が高い。つまり芸事=水商売。だから二葉亭四迷の『浮雲』に登場するお伊勢も、隣家の勉強好きの少女に刺激され、「急に三味線を擲却して、唐机の上に孔雀の羽を押立る」。
どこにでも夫婦同伴の西洋のカップル文化を見て、社交の場に連れて来た妻に全然教養がなかったらカッコがつかんと気づいた文明開化期のエリート男が、「女にも学問を」と言い始めたのかもしれない。
だが懸命に勉学に励んでも、そのご褒美として立身出世する男子のような上がりはほとんど望めず、女子の学問は、聡明で立派な婦人となって結婚して夫を支えるため。「良妻賢母」が、一般女子の上がり枠であった。


戦後のお稽古ごと流行りは、「お嬢様から良家の専業主婦へ」という、レールの敷き直しに沿ったものと見られる。
「芸事に精を出すのは芸者か遊女志願」という明治の法則を当てはめると、「様々なお稽古ごとを経て到達するセレブな主婦は水商売」という、とんでもないことになる。
しかしそこはよくしたもので、芸事でも高級な芸事は「芸術」であるという落としどころがある。楽器演奏(ウクレレとかハモニカなんかはダメ)はもとより、日舞も茶道も華道も書道も陶芸もパッチワークもソシアルダンスも「芸術」。長唄三味線だって、東京芸大音楽学部の邦楽科で教えているのである。

男の趣味、女のお稽古

さて、世の中のお稽古ごと事情はどうなっているのかと、「ケイコとマナブ」のホームページを覗いてみたら、半分以上はお稽古ごとではなく、お仕事関連のあれこれであった。
まず大きく、「資格・検定カタログ」、「お仕事カタログ」、「趣味・おケイコカタログ」に分かれている。そして全体で登録されている講座、スクールは、ビジネス、IT関連が大変多い。やはりお金をかけて学ぶのだから、職業に直結しているものを選んで役立てようという世知辛い風潮のようである。


「趣味・おケイコ」を見てみると、音楽、絵画、スポーツ、ダンス、料理、フラワー、クラフト、美容、癒し、和、外国語といったところ。驚いたのは、それぞれの内容がとても細分化されていることである。
たとえば「フラワー」を見てみると、10種類ものコースに分かれている。ドライフラワー、プレストフラワー、リースなどはわかるが、ブリザーブドフラワーってなに?トビアリー? 写真と説明がなければ全然わからない。


こういう趣味の教室に通うのは、ほぼ100パーセント若い女性だろう。
男の人は、わざわざ教室に通ってお稽古なんかしている暇はないか、群れるのが嫌いか。男には独学派が多い。教室なんかに通って知識や技術を人にゼロから教えてもらったり、仲間と和気藹々と何かやったり、みんなで帰りにお茶したりなんて横並びなことは、大人の男はあまりしたくないのだと思う。
女の趣味には創作系が多いが、男の趣味にはコレクション系が多いのも、男を教室から遠ざける一因であろう。
おたくもそうだが、何かテーマが決まるとその世界を完璧に構築することに熱中するのは、男の方だ。すべてを収集し所有し支配しそこに一人君臨するのが、男の趣味の世界。創作はそれからである。


しかし男の趣味は、時々回りの人間を巻き込む。
夫は昔、渓流釣りが趣味であった。ナントカ名人の釣り竿だの竹の魚篭だのを買い集め(それはまだいい)、大昔の漁師みたいに蓑笠まで被って釣りをし(明け方人のいないところでやっているのでそれもまあいい)、釣って来たヤマメやイワナを焼くために、居間に囲炉裏まで切ってしまった。もちろん釣った魚の写真は、額に入れて飾るのである。こちらのインテリアの趣味などお構いなしである(イワナやヤマメが食べられるので、文句は言わなかったが)。
父も様々な趣味に手を出し、母を困らせていた。最初は錦鯉。それに飽きると池を潰して温室を作り、洋蘭に凝った。
洋蘭は面倒を看るのが大変な植物である。温室の設備にそんなに投資できるほど金持ちでないので、夏の暑い昼間は屋根にヨシズを掛け、冬は夜になると毛布と発砲スチロール板で覆う。日中の水やりも細心の注意が必要である。そういう作業を家族を動員してやらせるのである(特に母)。何を置いても洋蘭第一の毎日が十数年。「私は蘭になりたい」と母はブツクサ言っていた。


仮にはた迷惑であっても、男の趣味は自己完結性が高く、ある意味で純粋である。
しかし女は、純粋に趣味やお稽古のためだけに、教室や講座に通うのではない。集団の中に入り友人や仲間を作るという「社交」が、そこでは結構重要になっている。楽しむには、「お仲間とのコミュニケーション」が必要不可欠。
以前、あるところで美術系の社会人講座をやっていて、それをつくづく感じた。小数派の男性はあまり人と喋ることもなく終わるとさっさと帰るが、女性はすぐ仲良しになって、帰りにお茶などしていたようである。
その輪に入れたのはフラワー教室を主宰している年配の男性だけであった。さすがに普段から女性に囲まれているだけあって、違和感がなかったのであろう。


女性にとっては、情報やモノ(だけ)ではなく人間関係が重要なのである。男は「情報やモノをゲット」に喜びを覚えるだろうが、女は「出会いがあった」ことに価値を置くのではないか。
でもハイパーガミー志向のためのお稽古の現場では、その出会いも限定されてきそうだ。