「わたしのきれい」とか「みんなのうれしい」とか

最近、広告のコピーなどで使われている表現で、気になっているもの。それは形容詞をそのまま名詞として使う言い方だ。たとえば、
・私のきれいを支えてくれる
・みんなのうれしいを実現します


「きれい」「うれしい」というポジティブで明るい形容詞を印象づけるために、さまざまな言葉が省略されている。正しく言うなら、「私がきれいであり続けることを支えてくれる」や「みんながうれしいと感じる状態を実現します」だが、それだと長いし硬い。
コマーシャルのコピーとしては、感覚的な掴みでわかりやすくていいのだろう。でも個人的には、好きではない表現。なんか首筋がゾワッとする。


「きれい」「うれしい」「楽しい」「悲しい」「面白い」‥‥。形容詞にはしばしばシンプルな主観が盛り込まれる。だから子どもは形容詞から覚える。ディズニーランドに行って「面白い!」。マンガを読んで「面白い!」。変な虫を見つけて「面白い!」。その場その場でパッパと主観を吐き出している。
だがそのうち、「面白さ」という言葉を覚える。そして、ディズニーランドの「面白さ」とマンガの「面白さ」と変な虫の「面白さ」とは違う、自分の感じる「面白さ」と他人の感じる「面白さ」も違うことがある、なんてことを考えるようになる。「面白さ」と「面白み」では伝わるものが微妙に違うんだよな、なんてことも考える。形容詞の語尾を変え名詞化して使いこなすとは、主観しかなかった子ども世界から、客観を交えた大人の世界に参入していくことだ。
そうした中で、「わたしのきれい」や「みんなのうれしい」に私が感じるのは、大人の世界に唐突にたどたどしい子どもっぽさを混ぜたカマトトぶった言葉遣いが、今風のキャッチーな表現として受容されていることの気色悪さである(話が長くなった)。


こういう言い方が巷で流行ったら厭だなあと思う。
「子どもの面白いを応援する」とか「あなたの辛いに寄り添いたい」とか「みんなのおいしいを発見する」とか。いくら感覚的にわかりやすくても、せいぜいCMくらいにしておいてもらいたい。*1
でもこういう表現は案外伝染力があるから、会社のプレゼンなんかで既に普通に使われているかもしれない。

*1:こういう言い方の始まりは、「元気をもらう」という表現の流行からだろうか。「元気」はかつて「元気である」や「元気な」という形容詞としてしか使われていなかったと思う。と書いていたら今、「あなたの元気を守ります」というCMのコピーがテレビから流れてきた。「あなたの一生懸命を応援します」ってのもあった気がする。