「やり方」を教えること

上のトークイベント告知記事を挙げてネットを巡回していたら、とても関連する内容の記事がブックマークを集めていた。


「好きに書きなさい」はタイミングによっては最悪。:島国大和のド畜生

読書感想文で、絵画で、自由研究で、基本的なやり方を教えず『自由にやりなさい』と命じるのは、マイナスが大きい。
 それは「ほっといても出来る奴を選ぶやり方」であって、それぞれをそれなりのスタートラインに立たせる為の教育では無いのではないか。


作文や美術(図画工作)や自由研究課題でモヤモヤした思い出のある人は多いようで、ブックマークコメントも興味深い。数年に一回くらい、こうした話題をネットで見る。2008年に非常にブクマを集めて話題になっていたのは、この記事だ。
もっと、学校でテクニックを教えてくれればよかったのに - Hatelabo::AnonymousDiary


この中の図工の問題については、拙書に書いたので少し長くなるが引用する。

 四年ほど前の話になりますが、ネットの匿名ダイアリーに『もっと、学校でテクニックを教えてくれればよかったのに』というタイトルの記事が上がったことがあります(このタイトルで検索すれば出てきます)。記事の要点をまとめると、「小学校の図工では、先生は「外に出て好きなものを見つけ、心を込めて自由に描きなさい」と言うばかりで、描き方を教えてくれず困った。好き勝手に描いていても全然上達しないし、絵ってつまらないなという感じで終わった。自由にやれと言われても、子どもには漠然とし過ぎていてとっかかりがない。指針を与え、目標を明確化し、遠近法などのテクニックを教えるべき。でなければモチベーションももてないし、自分で反省もできない」(作文の授業についても同様のことが書かれていたが省く)。


 この記事に五百以上のブックマークがつき、数多くのコメントが寄せられました。共感、支持するコメントが多かった中、「テクニックなんか自分で学ぶべき」「規範を押し付けるのはよくない」などの意見もあり、それに対して匿名ダイアリーの書き手は「子どもにそれ(自分で学ぶ)を求めるのは無理。「自分で考えろ」型教育は何も生まない。ピカソもベートーベンを型をちゃんとやっている。そういう訓練のために学校がある。型と基本を学ぶことは必要」と主張。この記事から派生して、「小学校の時の先生は、ゴールをきちんと設定してくれて良かった」という内容の記事や、「友人の小学校教師が高学年に線遠近法を教えたら、絵のコンクールで落とされたという。子どもらしく伸び伸びって感じの絵じゃないと審査員にウケないのだ」といった記事も上がり、ちょっとした盛り上がりを見せました。


[中略]


 こういう話題は実は、数年に一回くらい定期的にネットで見かけるものです。「描き方を教わらなかった」「いや教わった」と賛否両論になることから、図工、美術が教師に委ねられる部分が多いことが伺われます。それにしても「子ども中心主義」で「創造」重視の教育をしてきた結果、「描き方(規範)を教えてほしかった」という声が出るのは皮肉ですね。


 小学校のうちから下手に技法や描き方などを教えると、かえって子どもの自由を奪い個性を潰すのではないかという意見はあるでしょう。たしかに幼稚園から低学年くらいでは、規範を知らないし求めないがゆえに、大胆で自由そのもののすばらしい絵を描く子どもはいます。子どもの絵の特徴についてよく指摘されるのは、二十世紀初頭のフォービズム以降の表現主義的な絵画との類似性。表現主義に見られる主観的で誇張された形や色は、内面の表出として意図されたものであり、子どもにそんな企みはもちろんないのだけれども、大人はまるでカンディンスキーを彷彿とさせる子どもの"大胆"な絵に感動する。そこからいつのまにか「子どもの絵は自由」「子どもは天才」という観念も形作られる。
 しかし、だいたい四年生くらいから、大人の目から見ていわゆる「個性的」ではない「普通」の感じになっていくのが一般的な傾向です。何故かと言えば第一に、子どもの絵には年齢に対応した発達段階があるからです。


[中略]


 子どもの絵は一般に、「知的写実性」から「視覚的写実性」へと移行します。「知的写実性」とは、知っていることを描くというもの。例えば、空は上の方にあると「知っている」から画用紙の上部だけを青く塗る。そこに視覚的現実はない。「知っている」ことと視覚的現実の摺り合わせは行われないのです。それを経て「視覚的写実性」、つまり文字通り現実を見たままに描こうとするようになる。色や形の細かい識別能力や観察力、集中力がついてくるに従って、ほとんどの子どもが「知っている」ことだけを描いているのに満足できなくなり、「視覚的写実性」に向かっていきます。
 見た通りに、不自然に見えないように描きたい。人や物をそれらしく描ける方法を知りたい。自分の表したいように描く技術があったら、もっといろいろ挑戦できるのに。「視覚的写実性」に目覚めた子どもは、技術の習得を欲します。それをマスターし、誰にでも通じる言葉で上手く喋れるようになれたらなと思うのです。だから描き方を覚えた子どもの写実的な絵を「個性がなくなった」「つまらなくなった」と見るのは間違いです。「知的写実性」から「視覚的写実性」への移行は、世界の中心に自分がいる感覚から世界の一部として自分がいる感覚への移行であり、客観性・社会性の獲得の過程なのだから。


[…]そうしたことを経た後で、「視覚的写実性」のための技術だけでは物足りない人が出てくる。身についた技術を使って、もっと面白い絵を描きたい。あるいはそれを表向きは使わないで、気になるテーマを追求したい。独自性としての「個性」の発現は、その先にあります。
 ただし美術におけるそれは限られた人にしか現れません。何故ならば、大人の目から見ていわゆる「個性的」ではない「普通」の感じになっていく過程で、多くの子どもはかなり高度な言語コミュニケーションの発達を遂げているため、絵というイメージ表現より言葉での表現の方に重心が移っていくからです。従ってこの時点を過ぎたすべての子どもに、美術で「個性」や「創造性」を期待し続けるのは難しい。むしろ鑑賞や美術史、造形理論など、美術に関する知的訓練の方が効果的な場合があります。


[中略]


 じゃあ絵の基礎技法は何も教えなくていいのかというと、やはり教えた方がいいと私は思います。線遠近法というものの見方から始まり、構図、遠近感、立体感を出すためのコツなどの「型」を一旦覚えることで、絵画の世界に詰め込まれたさまざまな仕掛けを発見するきっかけができます。普段見ているマンガやアニメを、「型」の取捨選択と応用あるいは「型」破りという観点からも見ることができる。天才と言われるクリエイターだって、いろんなテクニックを巧みに組み合わせて絵を作っている。その根底にあるのは方法論であり、それを支える世界の見方、世界認識だ。そういう客観性へと誘っていくのは、「象徴的な父」たる学校の役割です。


 規範やルールに則った方法でいろいろなことができるし、「自分の感じたこと」をそこに込めることもできるとわかった。その後で、でも自分のやりたいことがそれとは別の方向にあるなら思い切って捨ててもいい、それは「自由」なのだということを知る。「自由」への希求は、ある種の不自由や縛りの中から生まれます。[…]


(『アート・ヒステリー』p.139〜143)


作文教育においては絵以上に、目的に応じた「型」をしっかり教える必要があると思う。なぜなら、美術は多くの人が受容者側になるので、基本的には「眼」と「知識」を養い蓄えればいいが、作文の方は、将来ビジネスでもプライベートでもある程度きちんとした文章作成をしなければならない場面がそこそこあるだろうから。
文章の基本構造や文章の組み立て方、言葉の使い方は、オーソドックスなタイプの絵と同様、「型」を通して習得される。「型」を知らなければ、それを応用することも崩すことも「型」破りの意味もわからない(大学で学生のレポートを読んでいると文章力には非常に差があって、「これはもう今からどうこうするのは無理かも‥‥」と思えるようなケースに出くわすことがある)。
国語も図工も「主人公の気持ちを想像してみる」とか「自分の気持ちを書く」とか「感じたままに表現する」とか「自由にやってみよう」ばかり言っていると一歩も前に進まないし、作文嫌い、美術に無関心の子どもしか生まないと思う。


●追記
ある描画法を教えることで、子どもの絵が画一的になるということも起こっていた。
酒井式描画指導法の問題|小学校のQ&A【OKweb】
80年代に酒井信吾氏が提唱したものだが、同じようなものに「キミ子式」(松本キミ子氏)がある。いずれも最初の輪郭に囚われて表現が萎縮するのを避けるため、内から外へ、部分から全体へと描かせていく方法を取る。現場の教員に非常に影響を与えた。これらの方式で描かれた”子どもらしい伸び伸びした感じの絵”が、コンクールで軒並み上位を占めるという現象も起きていたようだ。
結局、それを取り入れるにしても、教員が美術についての広範で専門的な知識と高度な教育理念とバランス感覚をもっていないとならないということ。小・中学校の教員にそこまで期待できるのかどうかという問題がある。