「怪物」あるいはイバラの道

早く観に行かなくてはと思っていた『めぐりあう時間たち』を、ようやく観て来た。
清田さんには、ヴァージニア・ウルフの「ダロウェイ夫人」を読んでから行くといいと言われていたのだが、読み終わる前に上映期間が終わってしまいそうなので、小説は後にして映画から(映画のヒットのせいか、後で本屋に行ったら「ダロウェイ夫人」(角川文庫)が平積みされていた。4月末に初版でもう4版。映画の影響力とは恐ろしいものである)。


まず、かなり凝った作りの映画だった。小説を読んでなくても一応わかる仕組みにはなっている。読んでいればさらに詳しく理解はできたと思う。
3つの時空の物語が交互に出て来て、その繋がりがだんだん深まっていくという構成。それぞれの物語の切り返しのショットの繋ぎがうまくて、物語同士に複雑な対応、呼応関係がある。


そういう構成というか編集の見事さに感心させられてしまったせいか、観ている間テーマがもうひとつ強く心に迫ってこなかったように感じた。
もちろん最後は感動してちょっと泣いたりもしたんだけど、その後冷静に考えて何に感動したのかと振り返ってみると、女性の性と生の困難さというテーマを感情移入しやすく描いている点であって、涙も止まるほどの衝撃にまでは至らなかった。
宮田さんがBBSで書いていらしたように、「主人公の行為は怪物行為であっても、その心性においては社会が納得する形で描かれている」のだった。 (以下ネタばれあり)


この主人公というのは、ジュリアン・ムーア演じる50年代の主婦ローラ・ブラウンで、彼女を軸とした話がもっとも内容が掴み易く、また感情移入を誘うように描かれている。
といっても、絵に描いたような幸せそうな家庭=罪のない夫と子供を自分勝手に捨てた女なので、どう贔屓目に見ても彼女の行為は許されるわけはないのだが、その行為の社会常識を外れた「異常さ」よりは、「死より生を選んだ」という選択が彼女の心情から肯定的に描かれているため、観客の気持ちはあまり引き裂かれることなく、涙にくれることができるのだった。


登場人物は、創作者(小説家、詩人)と、消費者(読者)と、媒介者(編集者)である。
創作者であるヴァージニアとリチャード(ローラが捨てた息子)には子供がなく精神と肉体と病んでおり、消費者であるローラは子持ちで、媒介者は体外受精で子供を儲けたレズビアンのクラリッサ。


三人のヒロインの中では、メリル・ストリープ演じるこの現代の編集者クラリッサが、もっとも自己のジェンダー認識に従った恵まれた生き方ができているように見えるが、私にはもっともみじめな存在に思えた。なぜなら彼女は、後に自殺してしまう詩人リチャードの面倒を看続ける事で、自分自身と向き合うの避けている情緒不安定な女性として描かれているからだ。
クラリッサはヴァージニアやローラの時代と違って、同性愛が承認されたり、女性の社会的地位が向上したから良かった、という問題ではないことは確かだ。彼女は、高い自意識を持ちながらも、真に生きることも死ぬこともできない宙ぶらりんの存在=つまり映画を見ている観客の代表なのだ。


これに対して、創作者の二人、ニコール・キッドマン演じるヴァージニアと、エド・ハリス演じるリチャードは、自己の悲惨な生と闘い抜くことができずに死を選んでしまう。この「芸術家の自殺」は痛ましいとは感じたが、(その生がいかに過酷であったとしても)私は心から感動することができなかった。


消費者であった主婦のローラは、自殺を回避し、死に等しい生も放棄し、自身にとっての真の生を取り戻そうとした。しかしその行為は、誰にも認められない「怪物的」行為であり、社会的には最低の生だった。
レズビアンの「子供」、つまり女性の生き方にリベラルな見解を持っているはずのクラリッサの娘でさえ、彼女を「怪物」呼ばわりしている。


創作者の女はリスキーな生を芸術という形に書き換え、媒介者の女は社会的ポジションと愛情を手に入れることで人生の帳尻を合わせようとしたが、いずれも「真に生きる」ことができないという感覚の中で苦しんだ。確かに女性芸術家の苦しみも、いかにもフェミニズム的な現代女性の生き方も、それなりの共感は誘うだろう。賞賛さえ得られるかもしれない。


しかし消費者の女はそうした「理解可能」な範疇から踏み出し(踏み外し)、一人で自己のむき出しの存在様式と向き合い孤独に老いた。それはもっとも苦しいイバラの道だが、それ以外の選択は彼女になかった。
真に自分の生を生きるには、あえて「怪物」になるしかないということだろうか。いや女性そのものが、もともと「怪物」だったということなのだろうか。