あなたは行きますか?

哀恥の恥

昨日、喫茶店で女性自身を読んでいて、思わず声を出して笑ってしまった。中森明夫の「中辞森」という連載コラムの「今週の新語」である。
「哀・恥丘博」。こういう下らない遊び、ほんとにうまいなあ中森明夫は。万博に関する記事はいろいろ週刊誌で読んだが、これは抜きん出て笑える内容だった。
これから哀しく恥ずかしい丘で開催される博覧会に行く予定の人は、女性自身4月12日号を是非ご覧下さい。


その中で、YOSHIKI藤井フミヤを呼ぶくらいなら、せめて坂本龍一横尾忠則くらいにしてほしかった(大阪万博小沢征爾岡本太郎だった)と書いてあったが、そこは私は別意見。
YOSHIKI藤井フミヤで十分である。
狙ったかのような安い人選は、今や斜陽の万博にぴったり。中身は安いのだが高そうなイメージ作りに汲々としているところも、いくら気取ってみても絶対に抜け切らないヤンキーフレーバーが漂っていることも、愛知、いや哀恥に似つかわしい。
YOSHIKIとフミヤが昔ヤンキーだったか否かということは、どうでもいい。イメージの問題だから。このヤンキー発生率の高い愛知県だから、選ばれたのだ。
というか、権威と金の匂いのするところには自然と寄ってくる人種なのかもしれない、あの二人は。


テレビのニュースで紹介されていた案内嬢ロボットについては、「高性能ダッチワイフ」と、これまた的確な指摘であった。あの猥褻な感じはダッチワイフに似ていたからなのかと納得した。
テレビで見た瞬間、これを子供が見ていいのか?と思ってしまった謎も解けた。
あれは、何かしらのトラウマを残すと思う。ああいう妙なものを、子供はじっくり見てはダメだ。


もちろん私は万博には行かない。
莫大な税金無駄遣いして、土建屋と一部の企業を儲けさせるためにやってる見せ物を、何でまた高い金払って。
マンモスの頭なんか見たくない。押井守の作ったコケおどしも見たくない。最新科学技術とか巨大な3D映像とか、その手のものも興味なし。
10万円(入場料、交通費別途)で、いかにつまらないかという記事を書けと言われたら行かないでもないが、そんな依頼はあるわけないし。


中森明夫の提案は、思い切って秘宝館仕立てにしたらどうか?ということであった。
そういや鳥羽の秘宝館もなくなってしまったし、いっそここでどーんと立派な哀恥秘宝館を建てて、先々の観光名所にすればいい。
県内に眠る珍品、お宝などを集めてきて展示もしてほしい。ワケのわからん映像見せられるより、お年寄りもずっと喜ぶだろう。
「高性能ダッチワイフ」の案内嬢は、そういうところに相応しい。都築響一が喜んで取材に駆けつけるはず。いや、都築響一を館長にすればいいんだ。

市民参加と明るい未来

ちょっと前、ニュースで「市民参加の手作り万博です」とか言って、市民の人の共同製作のパッチワークを紹介していた。
パッチワークは手の込んだものになるとなかなか見応えがある。
でもなんで愛知万博にパッチワークが?パッチワークって愛知の産物だったっけか?(なわけないね)と思いつつ、万博に出品するのだからかなりのものだろうと見ていたら、ほとんど市民ギャラリーでやっているグループ展クラスかそれ以下の、言っては悪いがお粗末なセンスのものだった。
テレビを見ていた夫は、
「何だこりゃ。こんなもん出していいのか、いくら愛知万博だからって。一応世界中の人が見に来るんだぞ。恥ずかしくないのか」
と憤慨していた。
いや、恥ずかしくないんだよきっと。放っておこうよ。いちいち腹立てても仕方ないし。
市民参加。手作り。これに勝てるものはない。もうどこに行っても最強の組み合わせ。


しかし愛知の住民が、自ら「いくら愛知万博だからって」なんて言うとは、自虐も板についてきたものだ。
モリゾーとキッコロのバッヂを胸につけたり、「市民参加」で楽しみたいと思っている人はどうだか知らないが、このサムいお祭り騒ぎを苦々しい思いで見ている愛知県民は、ちゃんとわかっている。
愛知は哀恥だということを。


万博とは、今やマンモスの化石みたいなものである。
博物館がもともと他所の国から奪ってきた物を見せびらかすことから始まったように、万博もその出自は傲慢で野蛮なメンタリティに裏打ちされている。そして、いくら環境に"やさしい"ナントカと謳っても、そこにもってくまでの過程は"やさしい"わけがない。
いつも、「これからの○○」を明るい未来のユートピア的イメージと共に見せる場が万博だったわけだが、そういう明るい未来がまだ無邪気に信じられた70年大阪万博で、万博の機能は終わっている。
もう無理して明るくしなくていいから、暗い未来を直視させてやってくれというリアリストはいなかったのだろうか、万博推進委員の中に。


でもまあ万博も所詮政治の道具だから、長いものに巻かれろで開催されてしまうわけである。
そこで、賛成ではないけどどうせやるんだったら少しでもマシなものを、という漸進的な態度は、結局道具にされてもいいということである。中にはおこぼれに預かったりする人もいるに違いないが、大半はそういう善意とボランティア精神を発揮する「手作り市民」が万博を支えているのだろう。


あいにく善意もボランティア精神もないので、早く終わってくんないかなあと、始まったばかりなのに指折り数えている今日この頃だ。