男子にはなれない ● 第四回 ● 幻想の男子不可侵領域

女子が輝くステージ

子供の頃私は、バレリーナに憧れていた。バレリーナは小学生女子が夢見る職業の一つ。いや職業と言うより、ファンタジーの一つ。ノートに描くマンガと言えば、バレリーナであった。

”不幸な少女”のお話や母子ものメロドラマや現実離れしたお姫様物語ばかりだった少女雑誌に、バレエマンガが次々登場したのは50年代後半。60年代の人気バレエマンガは西谷祥子の『白鳥の歌』で、70年代に入ると山岸凉子の『アラベスク』が出てきて、女子のバレエ熱はピークとなった。
バレリーナは、女の子がロマンチックな夢や憧れを託すことのできる初めての対象だった。


かつてそうした少女雑誌のグラビアを、華麗な挿絵で飾っていた高橋真琴(最近のレトロ乙女文化の盛り上がりにより復活)の得意なモチーフの一つも、バレリーナ。瞳に星の西洋バレエ少女の周りに、バラやスミレが散りばめられたその挿絵の”魔力”は底知れないものがあり、絵はがきやノートなどの真琴グッズを見ると、私と妹の目はハートになった。
伯母から誕生日にプレゼントされた白鳥のバレリーナを描いた高橋真琴のハンカチは、使わないでタンスの引き出しに大事にしまっておいた。それに、いつのまにかマジックで「ゆりこ」(妹の名前)と書かれていた時のショック。
妹はバレエを習いたかったらしく、高校では新体操部に入って部長まで務め、今は結婚して娘にバレエを習わせている。

 
バレエ学校を舞台にした連続ドラマ『赤い靴』(1972)も見ていた(映画『赤い靴』とは別物)。公演で主役をゲットするため、ライバルのトゥシューズに画鋲を入れるなんていう女同士のドロドロした戦いが描かれていて、女の世界とは恐ろしいものだと思った。
父が洋ものクラシック趣味だった私の家では、NHKの「芸術劇場」などでも時々バレエを見た。モスクワ・ボリショイ・バレエ団日本公演の『白鳥の湖』なんかを、家族揃ってウットリしながら。


白いチュチュに頭にはキラキラ光るティアラと羽をつけた『白鳥の湖』のプリマドンナ。広がった長めの白いスカートがエレガントな『ジゼル』のプリマドンナ。憧れの古典バレエのヒロインは、みんなフワッとした白いドレスを纏い優美そのものである。
そのプリマドンナには、必ずプリンシパル(主役の男)がついている。プリンシパルのリードでクルクルと回転し、軽々とリフトされるプリマの体はしなやかで、まるでそこだけ重力が働いてないかのよう。スリムな八頭身の美しい王子様(しかも外人)にエスコートされて、華麗に舞い踊り皆の注目を一身に集めるバレリーナ‥‥抵抗し難い魅力がある。


でもバレエの世界は厳しい。モスクワのバレエ学校では面接に両親を呼んで、そのどちらかが太っていたらその場で落とされるという。自分の体型管理もできないのにお子さんの管理ができますか? 遺伝で子供が将来太りやすいとも限らない。そういう”不安分子”は最初からカットされるのである。
レッスンも超厳しい。王子様が引っ張ったり持ち上げたりしているんではなく、半分はバレリーナ本人が筋力使って跳躍しているのである。当たり前だ。それに舞台映えするには、生まれ持った手脚の長さがモノを言う。憧れだけで突き進んでも門戸は開かれない世界である。


しかしプリマドンナと似たような体験をできる機会が、女子には大人になってからある。結婚式だ。「フワッとした白いドレス」「男がエスコート」「皆が注目」。なんか似てないか。
レースやチュールで飾られたウェディングドレスのスカートを短くちょん切ったら、そのままバレリーナになれそうである。頭にもキラキラしたもんつけてたりするし。そして隣には王子様。バレエのプリンシパルほどカッコよくなくても、八頭身の外人でなくても、そこは目を瞑ろう。主役は私なんだから。


結婚式は、バレリーナにはなれない女子が輝くたった一日だけのステージである。真っ白なウェディングドレス姿を憧れの眼差しで見られるというだけで、結婚が素晴らしいものに思えてくるではないか。いや結婚を素晴らしいものと信じるために、ウェディングドレスを着るのだ。
バレエの衣装にしろ結婚式の衣装にしろ、現実離れしたコスチュームに女子は反応する。コスプレによってリアルな女の姿は隠され、思う存分ロマンチックな世界に浸ることができる。

男子が輝くステージ

ところで最近、子供スケートスクールの申し込みが急増しているという記事を、こないだ女性セブンで読んだ。言うまでもなく、安藤美姫を始めとしたフィギュアスケート選手人気の影響だ。「ミキティみたいになりたい」子供と結婚式より早く娘の晴れ姿を見たい親が、スクールを繁盛させている。


フィギュア大国日本でのフィギュアスケート人気は、バレエ人気より裾野が広い。
フィギュアスケートは言わば、スピード感のあるカジュアルなバレエ。高度な技術や芸術性を競う点でも、音楽がついている点でも、女子の魅力を輝かせる点でも、バレエにひけをとらない。競技という点ではスリルが加算されるし、テレビで目にする機会も多いから、バレエより親しみやすい。


夫も安藤美姫のファンだ。もともとフィギュアスケートを見るのが好きで、あらゆる大会のテレビ放映をほぼ欠かさずチェックしてきた。どこがそんなにお気に入りかというと、
若い女のカラダがダイナミックに動いているのがいい」。
一方、男子フィギュアには目もくれない。
「なんでフィギュアに男子があるのかわからんな。男がクルクルやってるやつの、どこが面白い?そんなもん誰が喜んで見る。フィギュアは女だけにしろ」。
確かにフィギュアもバレエも、より注目を集めるのは女子の方であろう。一部の男子ファンを除いた多くの観客から見れば、男子フィギュアはサシミのツマ的存在。バレエでも男が主役と言ったら、ラベルの『ボレロ』くらいしか思いつかない。


ところが、女子と共演して女子よりも男子が輝いている舞台があった。マシュー・ボーン率いるダンスカンパニー、アドベンチャー・モーション・ピクチャーズ(略してAMP)の『白鳥の湖』である。95年のロンドン初演で大評判となり、各国で上演され様々な世界的な賞を受賞し、2003年の来日公演では激しいチケット争奪戦を巻き起こしたほどの人気だ。


一番衝撃を呼んだのは、中心を担うのが男性のダンサーだったことである。
あの優美でエレガントで高貴な、まさに女性性の象徴のような白鳥が、全員男。それも一頃流行った、むくつけき男どもが似合わないチュチュを着て、古典版の振付け通りクソ真面目に踊って笑いを取るといったものではない。意表を突くようなビジュアルで、シリアスかつ格調高くやっているのである。
この3月末、再来日の名古屋公演があり、初めてその舞台を見る機会に恵まれた。その時のステージがこれまでの公演と比べて、どのくらいのレベルだったのかは知らないし、バレエの専門知識もほとんどない。が、白鳥を演じる男性ダンサーには、圧倒的な吸引力があった。


まず衣装であるが、短いスカートみたいなチュチュなど男は穿かぬ。上半身はうっすらと白塗りの裸、下半身は白鳥の羽毛を思わせる白いフリンジに覆われた、膝下までのボリュームのあるズボンである。
古典バレエやフィギュア男子の姿に、私には常々そこはかとなく違和感を抱いてきた。上はきらびやかな紋章などついた王子様の上着でも、下は寒そうなピタピタのタイツ一丁。女子なら全体に露出度が高いのでおかしくないが、男子のこのアンバランスさは何? 股間も気になるし。AMPの衣装は、鍛え上げられた上半身に観客の目を釘付けにするので、見せ方として優れている。


白鳥だからと言って、頭にふわふわ羽などつけない。潔く丸狩りにした上で頭頂部から鼻筋にかけて、鳥の嘴を思わせる黒い毛束をピシッと鋭角的にキメている。ちょっと喩えが適当でないが、タコ八郎の髪型を極端にしたものと言えばよいか。
そして彫りの深い目周りは思い切り黒いメーク。タコ八郎ではなく、ロンドン・パンクだ。


白鳥らしさは、ダンサー達のあらゆる動きにももちろん反映される。優雅で高貴なイメージだけでなく、いかにも大型鳥類らしい雄大さや獰猛さまで見事に演じられている。
古典版『白鳥の湖』では、女性ダンサーはひたすら美しくたおやかに踊ることに命を賭けているように見えるが、それが男になると、ここまで表現の幅や奥行きが広がるのかと感心。変なポーズやガニ股走りまであるのに、それが全部ちゃんと白鳥らしい。人間が鳥に見えるという不思議な体験である。


バレリーナでもない私が心配することではないが、『白鳥の湖』という昔から女子のファンタジーの源泉であったものを、こんなふうにやられてしまってどうなのか、古典の人たちは。ちょっと困るじゃないのという感じにならないのだろうか。贅肉が削ぎ落とされ決してマッチョではないがメリハリのきいたストイックな肉体美を、女が同様にやって獲得できるとは限らないし。
観客の女性達も、イケメン揃いの男性ダンサーの力強く妖しい美しさに見とれると同時に、微かな嫉妬を覚えたのではないだろうか。女性には女性ならではの美が‥‥そういう言葉が、このステージの前では虚しく響く。

ライオンも白鳥も

さて、物語である。王室の規範に縛られて自由もなく、母親(女王)にはその苦しみをわかってもらえず、ガールフレンドにも裏切られた傷心の王子が、ワイルドビューティな白鳥に出会って強烈な一目惚れ。最初は警戒している白鳥とナイーブな王子が、互いに探り合いながらじわじわ接近していくところが鳥肌ものである(シャレじゃなくて)。
特に、王子が白鳥の首に抱きついて体を持ち上げた時の、白鳥の雄々しい姿に驚嘆した。首に男一人ぶら下げたまま、気高く優雅なポーズを保っているのである。古典版ではこんなことはできまい。白鳥(メス)がよほどたくましい人じゃない限り。それに、どうしても母と息子に見えてしまうだろう。


二人のパ・ド・ドゥは、男とオスの、いや青年同士の”愛の交歓”である。別に私はボーイズラブの愛読者でもゲイカルチャーのシンパでもないが、男子のラブシーンの一挙手一投足は、古典版の異性愛の場合よりも哀しくせつなく胸に迫ってきた。
素晴らしい音楽で物語を盛り上げているチャイコフスキーは、同性愛者だったという。AMPの舞台を見たら、泣いて喜んだかもしれない。


異性愛に関しては、王宮の舞踏会場面を始め男女のダンスシーンはふんだんにある。女性ダンサーの背丈も衣装もキャラもバラエティに富んでいて楽しく、エロティックな場面も満載。
なのにそれほどウットリしないんだね。安易に男と女でくっつきやがって、という気すらしてくる。白鳥と王子の”純愛”に比べたら、あなた達は下世話なの。動機が不純なの。そう言いたい気分。特に女に。普通の舞台じゃ華のはずのバレリーナは、ここでは美しい男の引き立て役である。


恋の病に罹った王子は、病室に軟禁状態となる。異性愛が絶対規範の世界で同性愛は忌避され、しかも相手は鳥だから狂人扱いだ。さらに、他の白鳥(オスの群れ)が王子と白鳥を襲撃。バレエなのに、まるでヒッチコックの『鳥』を彷彿とさせるような残酷なシーンである。
AMPの白鳥たちは、下層階級の象徴であろう。ニッカボッカみたいなズボンに上半身裸で丸刈りパンク・メークは、それが白鳥でなければイギリスのロウワーな不良少年だ。
その不良の一人がアッパークラスのトップの人と勝手に愛し合ってしまったので、その他大勢が裏切り者を血祭りに上げるべく蜂起したのである。階級闘争である。いや内ゲバか。
白鳥は仲間の激しい攻撃に傷ついて姿を消し、王子は絶望のあまり死ぬ。厳然としてある階層間の壁は、かくも強固。そこでの純粋な愛を描くためには、男女の恋ではもうダメ‥‥そういう計算は見えるが、古典の書き換えは成功している。


しかしこれは、階級差と同性愛の悲恋ものには留まらない話であろう。重要なのは、白鳥が王子にとって単なる恋人ではなかったことだ。
自由でワイルドな白鳥は、王子が長らく抑圧されていた男子の能動性のシンボルである。つまり”男根”の象徴。白鳥と出会ってせっかく自らの能動性に目覚めたのに、それが永久に失われたと知ったら、もう死ぬしかない。
こういう美学は、”男根”を持たない女にはない。女はたぶんそういうことで死ぬことはない。公演を見に来た観客は圧倒的に女性が多く拍手は鳴り止まなかったが、内容はどこまでも男だけの物語で女は部外者である。


これが、王女とメスの白鳥のケースだったらどうか。宝塚のように見える可能性はある。それはそれでいいが、白鳥の戦いは大奥みたいになりそうだ。そして、やはりビジュアル的なインパクトは劣るであろう、「若い女のカラダがダイナミックに動いている」のとは、別種の美を知ってしまった目には。


別種の美は、女の追随を許さないものであった。女が主役で輝くステージさえ喰ってしまう迫力があった。どうせなら、ライオンの役(『白鳥の湖』にライオンはいないが)かなんかで負けた方がましである。百獣の王の位置は男子に譲ってもまあよい。
でも白鳥だけは死守したかった。白鳥は女子にとっては”プリンセス”である。『白鳥の湖』を踊るバレリーナの気品と優雅さは、女子のジェンダーアイデンティティに子供の頃から刻み込まれているのである。
その気品と優雅に、野性味と力強さとセクシーとユーモアまで加味して、男がかっさらっていってしまった。白鳥まで”男根”にしてしまった。


男は望めば何にでもなれ、何でもできるのだ。女子だけのロマンチックな男子不可侵領域も、”男根”で蹂躙できる。そういうわけだから、女はまあ普通に女だけをやってなさい、ということか。そんなことはできない女は、拍手しながら途方に暮れている。
‥‥そして、それも今さらだったと思う。あっちにもこっちにもマジックで「おとこ」と書いてあるのに、なぜこれまで気づかなかったのか。高橋真琴だって男だったではないか。白いドレスに目が眩んでいたが、男子不可侵領域などどこにもなかったのだ。


(初出:2005年4月・晶文社ワンダーランド)