大変にブクマを集めている。アフリカへのこれまでの数々の援助資金は「一切、未来につながらず、その日の食料と指導者のポケットに消えていく」という状況について、Chikirinさん曰く、
これらの本を読んでのちきりんの解決案仮説は「この際もう一度、アフリカ大陸を西欧の植民地にしたほうがいいんじゃないの?」ってこと。香港・マカオみたいに「100年租借」で西欧諸国の植民地にして100年後に返す、っていうのが一番いい方法なんじゃないかな。西欧諸国にもメリットが必要なので、資源の出る国と出ない国をセットにしてね。
いうなれば、「次の100年間の国家運営を、先進民主国に委託する」ってことです。それくらいのことをしないと何も変わらないと思うんだよね。100年あれば3代の教育ができるから、そうすれば彼らの中から指導者がでてきたり、社会規範を構築して援助が実効性を持つ土壌も作ることができそう。
とても難しい問題だ。「再植民地化」がいいとはあまり思えないが、では「こうしたらいいのでは?」という意見も、私はもっていない。
で、これから書く話は、アフリカの飢餓や貧困をどうにかするという話では全然ないし、そもそも援助の話でさえないのだが、この記事を読んでいて、夫が昔、プライベートで少し関わったケニアの人のことをふと思い出したので書いてみる。
●
動物が大好きな夫は以前、毎年のように、同じく予備校の生物の先生と二人で、ケニアに野生動物を見に行く旅をしていた。ナイロビに着くと、日本の旅行代理店と提携している現地の会社からケニア人のガイドが来て、彼の助手の運転するジープで毎日広大な保護地区の草原を走り、ライオンやチータの狩りやキリンの群れを観察する。
最初のガイドがなかなか良かったので何度も指名しているうちに、夫はその人と親しくなった。生粋のケニア人だが、洗礼名である「ジェラルド」という英国風の名を名乗っていた。ケニアは長らくイギリスの植民地だったので、その影響があちこちにあるらしい。
ジェラルドはナイロビ大学出の30そこそこの青年で、日本に短期ホームステイで来たこともあり、日本語がわりかし話せる人だった。ケニアにも教育支援プログラムがあり、家の貧しかった彼はイギリス人からの学資援助を受けていたという。家族は僻地の村に住んでおり、自分は町に出稼ぎに来ているのだ。シーズンオフには他のバイトもいろいろしているということだった。
私はジェラルドに直接会っていないけれども、電話では一度話したことがある。フレンドリーな感じのいい人で、夫に言わせれば「すごくいいやつ」だ。
昼食をとりに入ったレストランで夫たちは、ジェラルドと助手のパトリック(こちらも洗礼名)を同じテーブルに呼んだ。ガイドや運転手は旅行者とは別のテーブルにつくものだったらしく、最初はずいぶん驚かれたらしい。植民地時代、非アフリカ人とアフリカ人とは決して同じテーブルにつかなかっただろうから、その名残も若干はあるのかもしれない。
ある時、ジェラルドは「ボスがちっとも給料を払ってくれないので、辞めて別の雇い主を探そうかと思っている」と夫にこぼした。聞くと、(よくこれまで我慢してきたなと思えるほど)労使関係においては相当いい加減な会社のようだった。
夫は「独立して自分たちで客を直接取ったら」と言ってみた。自分で起業して客商売をするという発想が全然なかったらしい彼は、「そんなことできるわけがない」という反応だった。
「ナイロビ大学まで出ている君が、ずっと雇われガイドではもったいないじゃないか」と夫は言った。そして、会社を作るんだったらこういう事が必要で、経営にはこれこれが重要といったことを(夫本人は会社に雇われている身だが)話した。
そういう話をあれこれしているうちに、ジェラルドもだんだんビジネスをしてみたいという気になってきたらしい。ジェラルドとパトリックは夫のことをミスター○○ではなく、なぜか「ボス」と呼ぶようになった。
ある日、ジェラルドから「会社作った」という手紙と共に、名刺が200枚ほど送られてきた(名刺は日本の企業にいたので見知っていたのだろう)。黒い手と白い手が握手しているイラストの横に、「Friendship with Africa Company」とあって、「Company President」の上にはなんと、夫の名前が印刷されていた。一番下に、うちの住所と電話番号、ナイロビのジェラルドの住所と電話番号が並んでいる。
「あいつら、俺をほんとにボスにしちまった」と夫は言った。うん、いや、あなたは日本支部長ということだよ。「日本の窓口になってお客紹介してくれということだな」。そうそう。それに日本で配ってもらうものには、日本人の名前があった方がいいと思ったかもしれない。
それはともかく、「会社設立おめでとう。せっかく立ち上げたんだから頑張れ。名刺配って宣伝しておく」と夫は返事を出し、お祝いにファクスを贈った。
1年ほどの間、手紙のやりとりをしていたが、いつ頃からか音信が途絶えた。「ジェラルド、どうしてるだろ」と心配していると、ある日パトリックから、ジェラルドが急病で亡くなったという手紙が来た。
夫はショックを受け、心底落胆していた。パトリックの手紙の文面からは、会社経営が今いちうまくいってなかったらしいことが伺われ、独立を勧めた手前、夫はいくらかの責任を感じているようでもあった。
ただ焚き付けただけで、ほとんど何の支援もしなかった。「日本支部長」に任命されたのに、名刺を数十枚あちこちで配っただけで、窓口として一生懸命手伝ったわけでもなかった。もちろん個人的にできることなど、大してなかったかもしれない。では、いっそ最初から何も言わない方が、まだマシだったということになるのだろうか‥‥。たぶん夫はそんなことを考えていたと思う。
それから2年くらい経った頃だろうか、パトリックから葉書が届いた。彼は、ナイロビ在住のイギリス人と二人で小さな旅行会社を経営していた。主にヨーロッパからの観光客を相手にしているようだ。ジェラルドの遺志は、彼の助手だったパトリックが継いだのだった。
夫はもう長い間ケニア旅行をしていないが、パトリックとは年に数回メールのやりとりをしており、「ボス、そろそろ日本のお客さん連れて遊びに来て下さいよ」と言われている。