※タイトルは中原昌也の『あらゆる場所に花束が…』と、フロイトのS - M論をひっつけたものです。
まーたフロイトかよ。いや、今回はほんのちょこっとしか出てきませんので、嫌がらないで読んで下さい(誰に向かって)。
前の記事に、id:simplemindさんから質問も含めて丁寧なコメントを頂きました。コメント欄に置いておくのは惜しい気がするのと、前記事で説明不足で終わっているところを今一度整理してみたいので、レスを兼ねて新たにエントリを立てることにした次第。
最初にsimplemindさんのコメント二つ。
セックスが含んでいる「暴力的なもの」とは何でしょうか。それは「野性的」「動物的」「本能的」なセックスとは、おそらく別ですよね。そして「愛と相互の了承の上に成される」セックスであっても「暴力的な何かを含んでる」のだから、「相手の意思を無視する」というようなニュアンスでもない。「相手から奪い取る」「相手を支配する」というようなニュアンスでしょうか?
一つ疑問に思ったのは、「攻撃的に攻める」という表現についてです。「攻撃的に攻めるセックス」という言葉は、「積極的/主体的に、性的技巧によって、相手に快楽を与えるセックス」という意味で使われているように思います。「よーし今日は思いっきり気持ちよくしちゃうぞー」みたいな。「奪うセックス」じゃなくて「与えるセックス」。つまり、「攻撃的な攻めるセックス」とは「暴力的なセックス」ではない……ような気がします。
セックスについて語ることは、とても難しいですね。これはセックスがタブーだからではなくて、セックスの快楽が「相互作用」だからかもしれません。セックスの快楽とは、「自分が(肉体的に)気持ちいい」という単純なものではなくて、「相手に(肉体的な)快楽を与えることで、自分も(精神的な)快楽を得る」とか、「自分が興奮しているのを見て、相手も興奮している。それを見て自分も興奮する」とか、「相手が自分の体を使って気持ち良くなっている、ということに自分も興奮する」とかとてもややこしくて、自分/相手、主体/客体、肉体/精神、現実/想像、与える/奪う等を区別して語ることがとても難しいように思われるからです。
おそらく「セックスはとろとろに溶け合うもの」という表現は、こんなふうに(肉体と想像力を駆使して)自分と相手がお互いに快楽を「与え/与えられ」ているうちに、最終的に「自分/相手」の区別が消えるさまを表わしているのではないでしょうか。
「セックスとは快楽を用いたコミュニケーションである」と定義するなら、「攻撃的なセックス」とは「主体的に相手に快楽を与えるセックス」であり、「被攻撃的なセックス」とは「客体的に相手に快楽を与えられるセックス」です。BLなどの「攻め/受け」とも合致します。
例えば、強姦という「暴力的なセックス」においては「貞操」や「自由意志」が奪われています。こういったことから、男性性=主体的=攻撃的=「奪う性」、女性性=客体的=被攻撃(受け身)的=「奪われる性」という認識も一般的なように思います。このあたりに齟齬があるように思うのですが。
一番目の「セックスについて語ることは難しいですね」以降のパラグラフはほぼ同意です。前記事にも書いたように、セックスの(特にオーガズムの)中で自他の境が消滅し、互いが互いの中に溶け合うような感覚に浸ることはあると思います。
こういう感覚をより強くもつのは女性の方じゃないかなと、私は感じています。一般に、快感を感じる身体部位が男性はペニスに集中、女性はあちこちに分散することから、女性の方がそういう感覚に身を浸しやすいのでは、と。
男の人には「賢者タイム」ってのがあるそうですね。セックスの場合だとそれは、自他が溶け合った、あるいは自分が相手の中に溶かされてなくなっていきそうな寄る辺無く不安定な状態(これらは実際に男性から聞いたこと)から、男の自我なり「主体」なりを回復する時間なのでは‥‥とも思います。
さて以下で、simplemindさんの言葉を借りながら、「セックスにつきまとうある種の暴力性」について、私の視点を語り直してみます。それでご質問へのお返事に代えることができればなと。
ステロタイプではありますが基本にあるのは、
>男性性=主体的=攻撃的=「奪う性」、女性性=客体的=被攻撃(受け身)的=「奪われる性」
という非対称性です。
これを男女の身体構造の違いからくる宿命的なもの(ちと大袈裟でんな)と私は捉えていますが、もちろんジェンダーもそこに深く関係していると思います。ジェンダーによって上のような認識が生まれたに過ぎないのか、ジェンダーの影響も強いが身体構造上そう定式化されるのは避けられない部分があるのか、そこは議論の分かれるところでしょう。私は「避けられない部分がある」派です。
「相手から奪い取るセックス」であれ「主体的に相手に快感を与えるセックス」であれ、それは主導権を握っている側がいるということですよね。平たく言えば、支配する側(主体、能動的、S)と支配される側(客体、受動的、M)がいると。それぞれは、ヘテロのセックス(挿入あり)の場合は、男と女の立場に対応することが比較的多い(行為の途中で入れ替えなどはあっても)というふうに考えています。
じゃあサディストの女性やマゾの男性の存在はどうなるんだという声がありそうですが、性的嗜好において多様なのは当たり前です。ここで言っているのは、「主体 - 能動 - S/客体 - 受動 - M」が、「男/女」という二項に代表されるということです。
男より女の快感の方が複雑で深いとか、サディストはマゾヒストの快感に「奉仕」している側である、ということは言われますが、どちらがより多くの快楽を実際に相手に与えているか、自分が貪っているかはとりあえずここでは問いません。
この非対称、支配 - 被支配関係には当然「ある種の暴力性」がつきまといます。性を巡る嗜虐的な快楽も被虐的な快楽も、そこから生まれます。相手の意思や欲求を無視してそれを楽しむことは避けるべきですが、雰囲気や性的感覚を高めるスパイスとしてなら、全然ありです(SMプレイ然り)。というか、そういった支配 - 被支配の感覚が一切含まれない、それをファンタジーとして楽しまない性的快楽ってあるのかな?と思うくらいです。
こういうことを言うと「セックスってそんなものじゃない。互いを慈しみ合うような愛情に溢れたセックスこそが‥‥」という意見が出たりしますけれども、まあそれは好きずきです。ただそういうセックスも、上記のような非対称性があるがゆえに生まれるバージョンの一つではないかと思います。
上記の公式が男女の基本的な関係として認識され、それなりに説得力をもっているのは、simplemindさんも指摘されているように強姦があるからですね。男から女へのレイプが多いのは、男が男女の身体構造の違いを利用することが容易なためです。互いに求め合うセックスでは見えにくかったり、プレイとして現れるだけの「ある種の暴力性」は、レイプではもっともネガティブかつ残酷な形で端的に「暴力」そのものとして発現します。
SMだって、SがMの求める限度を勝手に踏み越えて痛めつけ続けたら性暴力に近づきます。言葉遊びのようで恐縮ですが、プレイとレイプは紙一重です。
だからむしろ「セックスは権力関係を孕む」と言うべきかもしれません。権力は暴力と隣接しています。現実の性差別、男女の権力関係がそのままセックスの行為に持ち込まれれば、それは限りなくレイプに近づいていきます。
しかし支配 - 被支配の権力関係における非対称それ自体、そこから生まれる「ある種の暴力性」は、やはりエロスの源だと思います。(まさか曲解する人はいないと思いますが、このあたり性差別やレイプを追認する発言として捉えられると困ります)。
以上のような<男 - 能動 - S><女 - 受動 - M>の関係は、あらゆる性関係において仮想的に反復、変奏されているというのが、今の私の考えです。
フロイトはサディズムとマゾヒズムに言及する中で、「能動性と受動性との対立が性生活の普遍的な性格」と言いました。念頭に置かれていたのはたぶんヘテロ男女の性生活だと思いますが、現実/虚構を含めてあらゆる性関係、性行為において、<男><女>の関係性の"なぞり"を見いだすことができると言ってもいいんじゃないか、と思います。それが意識されているか無意識のうちにかは別として。
simplemindさんが例に出されているBLの「攻め/受け」はわかりやすい例ですね。オナニー時に「女に犯される」エロコンテンツを消費する男性もいるみたいです。また陵辱エロゲで女性の側に感情移入して見る男性も少なくないそうです。実際のセックスでは受け身が好きな女性が、ポルノを楽しむ時は相手をいたぶる男の側に立って興奮するということも、その逆もあると思います。支配する側とされる側、主人と奴隷の位相は、常に逆転する可能性があるから面白いのです。
セクシュアリティとジェンダーは複雑に絡み合っていて、その中でS - M、<男><女>の関係性を仮想モデルとした私たちの欲望が点滅している‥‥そんなふうに私は感じています。
●追記
SMは権力関係ではない - simplemindの日記で議論の続きをしています。合わせてご覧下さい。