「内心」は不自由だし、ポルノを楽しむのは「悪」だ

アンドロイドの人権と神さまとセカンド・レイプ - はてこはだいたい家にいる



内心の自由」を巡ってのコメント欄の混乱が、ブコメにも波及している。
内心の自由」とはもともと、憲法19条の「思想及び良心の自由」を下支えする概念だ。戦前の国家の思想統制に対して出てきたもので、他者の人権に抵触しない限りにおいて最大限保障されるべきことになっている。
従って「内心の自由は保障されている」と言わねばならない局面とは主として、思想及び良心の自由が国家あるいはそれに準じる権力装置によって侵害されそうになった時だろうと思う。


冒頭で引いた記事及び一連の記事の内容は、ポルノの人権侵害と「良心」を巡る議論の一つである。レイプものなど被害者が見たら傷つくであろう性的ファンタジーを、語るだけでなく、楽しんでいることへの疑義が示されている。
一連の議論を追いかけている人ならわかるはずだが、最後の一文はAntiSepticさんの「レイプされたいファンタジー」にも被害者はいるに対する応答になっている。「私は口に出さなければOKとは思っていない。そういうものを楽しむ"内心"を問題にしている」と。
これに対して「内心の自由は保障されている」と言っても反論にならない。ただ、コメント者がそう書いた気持ちはわからないでもない。


この記事は単独で成立しているわけではないが、ずっと同じテーマで書き続けられてきたものの中では、一歩踏み込んだ、主張がより反映された記事という印象を受ける。コメント欄で「良心」という言葉が使われているので、一層そう感じる。
幾つもの記事によって、外堀はほぼ埋められている状態である。そこでの文脈に則って考えていけば最終的に残された答えは一つしかないにも関わらず、断言はしていない。もとより「表現規制すべし」とも書いていない。「本当のことはあなた自身が一番よく知っているはず。だってどんな酷いポルノに耽溺しているあなたの中にも、良心のかけらがあるはずだから」というような、実に巧み且つ周到な話法を使っている。
そこで「内心の自由の保証はされているとは私は思わない」と言われれば、「ちょっと待って。内心の自由は保障されるべき」と思わず言いたくなるかもしれない。その心は「なんか一方的に決めつけているような抑圧的な物言いで嫌だ」という感情的反発かもしれない。


それにブログ主が返しているのは、「あなたは誰かの内心の自由を保証して、その結果に責任が持てる?」である。「内心の自由」は個人が個人に保障したり責任を持つものではない。憲法が個人に保障し、その結果は社会が責任を持つのだ。だがここでは「あなた」が「保証」する場合の話になっている*1
これは言い換えれば、「誰かに好きなだけ陵辱妄想を楽しんでいいと言って、その結果にあなたは責任が持てる?」である。その人の性差別や性暴力への抵抗感が薄れてしまったらどうするの? ポルノに刺激されて性犯罪を犯したら? あなたは責任が持てる? こんな問いに答えられる人はいない。



 

陵辱系ポルノの流通、消費量や内容と、現実の性犯罪件数との相関関係は、はっきりしていない。しかしさまざまなポルノに描かれる性的ファンタジーに性差別的描写があり、受け手の快楽に奉仕しているのは、はっきりしている。だからこそ、かつてラディカル・フェミニズムはポルノに反対し、そこにいかに深く性差別が刻印されているか告発し、規制を求めた。
当時は男性視線で女性を性的商品と看做すポルノばかりであったから、性差別は当然男性から女性へのものだとされたが、現在女性向けに出回っているポルノも多い。ティーン向けの漫画、レディコミ、BLの一部はポルノとして消費されている。真に受ければレイプ神話を強化しかねないものもある。別に見るからに惨い内容の暴力三昧の陵辱系に的を絞ることもない。だから批判は男女双方に及ぶ。


あなたは性的ファンタジーを消費することで、ポルノ市場を買い支えている。ポルノには性差別的(対女性、男性ともに)な、人を貶め辱めて喜ぶようなコンテンツが溢れている。
つまりあなたがプライベートな行いとしてやっていることは、人間の尊厳を貶める暴力に加担することである。 
あなたは自分の性欲を満たすために、現実に人が苦しめられている暴力をエロいものとして楽しんでいる。
それはいいことなの? 疾しい気持ちはないの? 自分の胸に聞いてみて。
かのブログに、そういう一連の問いがあるのは明らかだ。その問いはきっと、道徳的にも政治的にも正しいのだろう。PledgeCrewさんの言っていることも正論なのだろう。


従って、答えはとっくに出ている。
ポルノに描かれ、受け手に性的興奮をもたらすのは、エロティックに演出された権力関係のありさまである。男女、男男、女女、男女男、女男女‥‥といった性関係で描かれるセックスにはしばしば、人が人の身体と心理に対してほしいままに力を行使する様子が描かれてきた。
そこにあるのは性差別的表現であり、人を性的商品と看做し人間の尊厳を貶める暴力的表現である。否定してもしょうがない。これは紛れもない事実だ。そしてそう言った瞬間に、そうした表現を性欲を満たすために楽しむことは「悪」になる。性差別も性暴力もできる限り排除されるべきものなのだから、それはもうほぼ確定だ。
つまり、ポルノを楽しむということは、「悪」を楽しむことである。虚構にせよ、性差別や性暴力をエロとして楽しんでいるのだ。差別や暴力が「悪」だと知りながら。


いや。「悪」だと知っているけれども、楽しめるのだろうか。むしろ「悪」だと知っているから、楽しめるのだろうか。エロを楽しむ心=「悪」なのか(確かに戦前の思想統制は、エログロナンセンスから始まったと言う)。
いや待て待て脱線するな。
理性では、ここに描かれているのは「悪」だと判断している。だが欲望は、その「悪」を肯定している。
としたら、そういう倒錯が起こるのはいったい何故なのか。
というか、それははたして倒錯なのか。だったら本来の自然な性的ファンタジー、そして本来の自然な性欲とはどういうものなのか。


男性の性欲を駆動しているのは、支配や権力への志向だと言われる。もちろん女性の性欲の中にそうしたものがないとは言いきれないが、男性の性欲を喚起させるポルノに他者支配的なファンタジーが多いのは事実だろう。窃視も触手系も○○フェチもそうだ。
斎藤環によれば、男性のセクシュアリティは「対象の所有」に、女性のセクシュアリティは「関係性」に向かう。その傾向は男性向け、女性向けのポルノにもおそらく現れてはいるだろう。そしてそのどちらにも、さまざまな性関係における支配 - 被支配が無数に描かれている。
およそ人の性的妄想、性的ファンタジーと言われるもので、まったく性差別的でなく、尚かつ一切の暴力性や権力関係が排除されたものがあるのだろうか。たぶんないと思う。だがそれらについて、何もかもジェンダーや現実の性差別の反映だとする立場を私は取らない。
「人はどんな途方もない妄想を抱くこともできるし、それ自体を禁じることは不可能。その意味で異性愛も同性愛も小児性愛も同じ。ただし妄想には暴力が常に潜在しているという自覚なしにコンテンツを消費したり、「少女を愛でる平和な心」としてだけ語っているとしたら、鈍感と言わざるをえない」ということを、拙書『「女」が邪魔をする』の中で書いた。私に言えるのはそこまでである。


私は私の神様=自分の「良心」に聞いてみる。
ポルノを楽しむのは恥ずべきことですか? 「恥ずべきことだ」と神様は言った。
ポルノの快楽を肯定するのは「悪」ですか? 「悪だろうね」と神様。
性欲から「恥」と「悪」を取り除くにはどうしたらいいですか? 
「お前はイブがリンゴを食べたことを知らんのか」と神様は言い、それきり何を聞いても答えなかった。



ということで、前回の終わりに次に書くと予告したカミール・パーリアの『性のペルソナ』にまだ辿り着けません。次回は必ず。



●追記
コメントにも書いたように、元記事では「ポルノ(を楽しむこと)は悪」とは言っていない。「現実で性犯罪として起こっている出来事をエロエロしく描いたポルノを楽しむのはいかがなものか(それは犯罪被害者を快楽の道具にしてないか)」ということだ。レイプ、痴漢、セクハラ、小児性愛近親姦などがそれに相当する。つまり、合意が両者の間で(暗黙にでも)確認済みであることがわかる性行為を描いたポルノに限り、楽しんでもOKという話になる。では最初は本気で抵抗していたが行為の最中に欲望が喚起され最後は互いに愛し合った‥‥みたいなケースはどうなるのだろう。そこでは性犯罪は起きていない。しかし内容はいかにもレイプ神話に加担しそうであるし、性差別を無自覚に肯定している場合もあるだろう。と考えていくと、OKとNGの明確な線引きは難しくなるのではないかと思う。本記事で犯罪ポルノとか陵辱ポルノと限定せず、単にポルノと書いたのはそうした理由による。


●追記2
私がベタで「ポルノを楽しむのは悪」と思っていると読んでいる人がブコメにもコメント欄にもいて、すごく驚いている。こんなことをわざわざ解説するのも野暮だが、この記事は元エントリの趣旨に乗っかる形で書いている。乗っかったらその延長線上ではこういう話になる、それに乗っからないで「レイプレイもOK」とは言いにくい、ということだ。ただ、陵辱系ポルノを読んでほのかに暗い喜びを覚える時、私は少々疾しさのようなものを感じることがある。これが快楽の一部なのか「良心」と言われるものかよくよく考えると不明になってくるが、ここではわかりやすく「良心」にしている。

*1:「保証」と「保障」で意味が違ってくるためにすれ違っているとも言える。