誰が書いたのかわからない

3週間ほど前の話。
ジェンダー入門」の授業後講義室に残り、一人一人から回収した出席票をチマチマとチェックしては、出席簿の方に○をつけるという地味な作業をしていた。*1 あー私の名前は左紀子だよ、佐紀子じゃないんだよ、まあ書かなくていいよ講師の名前まではね‥‥とか思いつつ、ある男子学生の出席票を見た時、私の目は点になった。
「おっぱい!」と書いてあるではないか。担当教員氏名の欄に。


‥‥‥‥てめえ‥‥‥ざけんなよ‥‥‥‥


笑いたくなった人もいるでしょうが、2秒ほど血が逆流し脳が沸騰しました。
思わず顎を引いて自分の胸を見下ろす。別に胸のラインが目立つような服ではない。そもそも授業するのにそんな服など着てこない。というか、どういう服を着ていようが胸のことを他人に言われる筋合いはない。
ネット上の文章などで、女性の胸にフェティッシュに執着する男性が、「おっぱい!おっぱい!」と書いているのを見ても私はそんなに不快じゃないし、書き方によっては微笑ましいと感じることさえある。だがソレとコレとは話が別だ。
しかしこんなこと堂々と出席票に書いて出しますか? なんつうふてぇ野郎だ。くそぅ、セクハラの話をする前に学生からセクハラされてたんでは洒落にならん。


ジェンダーの授業をもって8年、ネトウヨ君はいたが、こういうかたちでからかわれたことはなかった。ただ私は見た目威厳も迫力もなく、授業の性格上、性についての話はかなりラフにしているので、「この人には冗談言っても笑って許してくれるんじゃないか」と勘違いして、甘えてきたりわざと注目させて反応を見ようとする男子学生はたまにいる。
この学生はそういう"構って君"タイプなのか。いや多分違う。毎週、性に関する結構身も蓋もない話(それまでの講義は恋愛、結婚を巡る話が中心だった)を聞かされる、それも「女」から‥‥という状況の非日常性と非対称性に抵抗してみたくて、それが幼稚なかたちで出たとか、そんな感じだろうと思った。
まあ嫌なら受講しなくなるのが普通だが、なんか「一矢報いたい」的な、女の講師だからちょっとおちょくってやれといった邪心が、ある種の男子に生まれがちだろうことは想像できる。*2


出席簿を調べてみると、今まで一度も欠席していない学生だった。とりあえず、その学生を呼び出さねばなりません。スルーしたらますますナメてかかるだろうし。
もっとも、そいつはそれきり授業に来ないつもりかもしれない。来るにせよ来ないにせよ、顔と名前が結び付いていないので、こちらが当人を確認しなければ、数十人いる男子の誰が「犯人」なのか、「犯人」がそこにいるかいないかもわからない。そんな曖昧な状態で毎週教壇に立つのは気分が悪い。
処分は、できればサクッと失格にしてやりたいとは思ったがそれも行き過ぎだろう(不正行為とは言えないし)から、その日の出席取り消しとレポート(セクハラについて調べ、自分が理解できた点と疑問点を抽出してまとめる)提出にした。本人が特定できたら、の話だが。



次の週は大学祭で休講だったので、その次の週の授業の終わりに呼び出しをかけてみた。学生たちが席を立ちぞろぞろ出ていく中、地味めで大人しい感じの男子がやってきた。一見して何となく違和感を覚えた。
「あの、呼ばれたスズキ(仮名)ですけど」
出席票を差し出してその部分を指差し、極力静かに「これはどういうことですか?」と訊く。
「へっ。何ですかこれ?!」
鳩が豆鉄砲を喰ったような顔になっている。
「何ですかって、あなたが書いたんじゃないんですか?」
学生は強く頭を振った。
「僕は書いてません」
「じゃ、いつ誰が書いたの。こないだは一人一人から直接回収したはずだけど」(私もいちいちちゃんと見ないから気づかなかったけど)
出席票を見ながら首を捻っていた彼は、突然ハッとしたように教室の入り口の方を振り返って、「もしかして」と呟いた。
「隣の席にいた人かも」
「隣の人が?」
「‥‥たぶん」
「その人、今日来てる?」
「えーと」と彼は教室を見渡した。「もう帰っちゃったみたい‥‥ですね」
「名前はわからない?」
「いや、僕もこないだ初めて会った人で」。
やれやれ。


出席票に担当教員名までは記入しない学生は時々いる。スズキ君もその欄は空白のままにしていた。講義に気を取られている間に、隣の学生が彼の目を盗んで書き込んだ。それに気づかないまま提出してしまったということらしい。
改めて見ると、本人の名前の筆跡とは微妙に違う感じで、そこだけ鉛筆の色が一段薄い。いかにも目立たないように急いで書いた印象。
「本当に、あなたが書いたんじゃないのね?」と念を押した。
「僕じゃないです」
「その人が書いたというのは確か?」
「直接見たわけじゃないので、断定までは。その可能性が高いということで」
嘘をついているようには見えない。考えてみれば、目をつけられそうなことを書いておいて授業には出、呼び出されて嘘をつき無関係な他人のせいにする、などというややこしいことを、単位の欲しい受講生があえてする理由がない。


「ということは」と、ムカツキを押さえながら私は言った。
「そいつは私への性的嫌がらせを、あなたがしたかのように見せかけて、無関係なあなたに罪をなすりつけたわけだ」
「はあ」
「許せないね。いろいろと」
「はあ」
スズキ君は自分が叱られたかのように項垂れた。
私は時間を取らせたことを謝り、来週の授業にその学生が来ていたら教えてくれと頼んだ。


私もこの稼業が長いので、学生から性的な冗談を言われたことは一度や二度ではない。美術予備校講師の時は、アトリエの壁に落書き(やたら胸を強調してある‥‥)を描かれたこともある。こないだは実技の授業中に「先生たまには褒めてよ」といきなり手首を握られた(お母さんと勘違いしてるのか。最近何故かその手の男子が増えている)。
それでもここまで不快になったことはなかった。彼らは人に「罪」を被せて逃げるようなことはしなかったから、私もその場で相手に対してリアクションできた。だがこいつはコソコソ隠れて小石を投げてきた。


見知らぬ学生を盾にして悪ふざけをし、私が内心怒っているだろうことを想像して、この学生はほくそ笑んでいるだろう。
もし私がスズキ君を呼び出さずに黙って失格にしたり、そこまで行かなくてもその出席を取り消しにしたりしてスズキ君が罰せられたとしても、知らぬ存ぜぬを決め込むことができる。
そしてスズキ君が自分を特定しない限り(それには自信があるのだろう)、目の前の男子学生全員への疑惑が完全に拭いきれないという状態に、私を宙吊りにすることもできる。
卑怯だ。出席票を見た時を上回る怒りが湧き上がってきた。



カッカしてきた頭をクールダウンさせるために、少し考えた。
私は「指導上の必要」でその学生を叱ろうとしているのか。「指導」の名目で私憤を晴らすために罰を与えたいのが本音なのか。
最初に覚えた不快感は、明らかに性差に関わっている。「講師 - 学生」という教室内の権力関係の象徴の一つである出席票に、彼は「男 - 女」という別次元の権力関係を書き込んだ。男が女を「おっぱい!」とからかっているのだから、本人が無自覚にせよそういうことになると思う。
キャンパスでのセクシュアル・ハラスメントは、講師(男・年上)から学生(女・年下)に向けてのものが多いが、それが捻れている。男子学生から女性講師へのセクハラやからかい、悪戯には、「女が上に立っている」ことへの苛立ちや違和感が根底にあるだろうと思う。
次に来たのは、「これでも大学生かよ‥‥」という味わい慣れた脱力感と失望感。次いで、「これにどう対処するのが一番妥当か」。
感情の問題が根底にあり当事者である以上、「指導」と「私憤」を自分の中できれいに切り離すのは難しかった。


翌週の授業は、前回見せたDVDの続きからだった。1限の講義はいつも何人か遅刻者がいるので、最初は前回の終わりの部分から流していた。まだ本格的に始まってないということで、教室は軽くザワザワしていた。
さりげなくスズキ君のところに行って、「今日、例の学生来てますか?」と小声で尋ねた。
「来てないみたいです」と彼は見回して答えた。そして困ったように「僕も、あんまりはっきり顔を覚えてるわけじゃないんで」と言った。まあそうだろうなぁ。
「えーと、いつでしたっけ」
「学祭の前。プリント配ってまとめをした週」
「学祭の前‥‥」
増々困った顔のスズキ君を見ていて、少し気の毒になってきた。「この人だと思う」と言ってもし間違っていたらすごく失礼なことになりかねないし、合っていたとしても相手によっては自分が逆恨みされる可能性が‥‥ということを考えているのかもしれない。
「その学生があなたのせいにしようとしたことについては、どう思ってる?」と私は訊いてみた。
「うーん。でも僕としてはもう仕方ないっていうか‥‥。だって普通、自分のにあんな暴言書くわけないじゃないですか。バレないようにやるに決まってるし」
学生がたくさんいたら一人くらいそういうのいるじゃないですか。そんなの無視すりゃいいじゃないですか。いつまでも気にすることないですよ。気にするだけ損ですよ。スズキ君の顔にはそう書いてあった。


そりゃスズキ君だってうんざりだろう。私の授業のたびに「例の学生来てる?」と訊かれ、「おっぱい!」の件を思い出さねばならない状況は。私だってうんざりなんだ。それを何週間も引きずるのは。
でも、何もリアクションできないのもストレスフルなもんですよ。私はその男子の目を見て、「恥ずかしがらせようとしてやったのか。私は不快だが恥ずかしくはないよ。恥ずかしいのはおまえの方だ」と言いたいのです。暗闇から小石を投げられっぱなしは厭なのです。


スズキ君にはとりあえず「悪いけどあとしばらく注意しててくれますか? もしわかったら教えてね」と言って、そこから離れた。
もうこれは駄目だなと思った。スズキ君の記憶が曖昧なら特定できない。時間が経てば経つほど記憶は薄れる。
DVD上映が終了し、皆いつものようにミニレポートを書き始めた。通路を歩きながら、男子学生を一人一人眺めた。100%違うとも言えないしそうだとも言えない学生たちを。


●追記
id:gasematoさん
隣の人が男性であったことは、スズキ君から確認しています。会話のすべてを再現してはいないので、そこ以外で男性とわかるように書いたつもりでしたが、それでもそういう疑問が出てくるのはなるほどと思いました。

*1:受講人数が多いのを理由に、ずっとミニレポート提出時だけしかチェックしてなかったが、最近きちんと毎回出欠を取るようにとの教務の要請が強くなり(出席簿も提出を義務づけられる)やらざるをえない状態。

*2:講義への疑問があるなら直接言うか、何度か回収するミニレポートに書けばいいのに、そういうことをする学生は滅多にいない。