書店の映画コーナーに、やたら黒澤明関係の本がたくさん並んでいるな‥‥と思ったら、今年は生誕100年目だったんですね。
去年が山中貞雄生誕100年だったから、そうか一歳下の黒澤明は今年か。なんて、BSやwowwowでは特集も組まれていたらしいけど、ずっとチェックしてなかったので、2010年もそろそろ押し詰まってこようという今頃気づく。
日本を代表する映画監督の名を一人挙げよと言われたら、黒澤明は今でもおそらく第一位だろう。日本映画の四大巨匠の中でも群を抜いた知名度だ。小津安二郎はまだしも、溝口健二、成瀬巳喜男は名前を聞いたこともないという人が結構いると思う。
もっとも、知名度があるからと言って作品が観られているとは限らない。この間、大学生と雑談中に「黒澤明知ってる?」と訊いたら、「名前だけは。映画は見たことない」と言っていた。「『七人の侍』って知らない?」「あー、タイトルはどっかで聞いた」。そんなもんだ。
何人かに訊いていけば、「誰それ?有名な人?」という学生の方が多いかもしれない。ビートルズを知らない高校生がいるのだから、黒澤明なんて知らなくて普通です、今時の若者は。
今更、黒澤明でもあるまい‥‥という感覚も、随分前からあるように思う。
黒沢清が役所広司主演のサイコサスペンス『CURE/キュア』(1997)で一躍世界に名が知られるようになった時、「海外ではクロサワと言えばもうアキラではなくキヨシだ」といった言葉が聞かれた。60年代までの日本映画黄金期に活躍した黒澤明と、映画産業が斜陽になってから登場した黒沢清。時代も作風も全然違うのだから単純に比べるのは難しいが、「巨匠」とたまたま名字が同じで名前も同じく一字ってのは、何かと引き合いに出され易くて大変だろうなぁと思った。
それから13年、黒沢清はいくつも佳作を撮り、日本の代表的な監督の一人としての地位を築いている。しかし私の仕事先の大学で黒沢清の名を知っている学生は、おそらく1、2パーセントであろう。そういう私も、全作品のうち観たのは『CURE/キュア』を入れて3本だけ。世間ではどっちかというとマニア受けする監督というふうに見られているように思う。
一方で、黒澤明の影響力の深さを思い知らされるエピソードには事欠かない。S. スピルバーグと J. ルーカスは、黒澤明のDVDをほぼコンプリートしていて、新作を撮る前はエネルギーを掻き立てるためにそれらを全部観るという。二人にとって黒澤明は「師」なのだ。
しかしですよ。黒澤作品のDVDは今30本近く出ているんじゃないだろうか。一日4本観ても一週間。疲れますよこれは。
黒澤映画はいい意味でも悪い意味でも疲れる。映画作家なら黒澤作品を何度観ても発見があるのかもしれないが、気楽な観客である私からすると、『わが青春に悔なし』『白痴』『生きる』『酔いどれ天使』『赤ひげ』などの、ドストエフスキー+ベートーベン+炎の人ゴッホみたいな、むせ返るようなヒューマニズムはちょっと苦手。どこまでも人間の<善>を信じるというか人道主義的というか、作品の根底を流れるあまりの純粋さ真っすぐさに照れ臭くなってしまう。私汚れてますごめんなさい‥‥という気になる。
名作には違いなかろうし確かに感動的ではあるのだが、2010年の今観てどうかというと微妙なところ。そんなふうに感じて「黒澤明なんてもう古いよな」と言いたい人もいると思う。
個人的に見直して飽きない作品は、『羅生門』『七人の侍』『蜘蛛巣城』。この三つはネ申だ。私が語ることなど何もない。その次が『隠し砦の三悪人』『天国と地獄』『悪い奴ほどよく眠る』。あくまで個人的には、ですけど。*1
ところで、宮崎駿作品と言えば、すぐ思い浮かぶイメージは「青空」と「飛ぶ」だろう。ほとんどの作品に描かれている、青く高い空の下で軽々と空中を浮遊、飛翔する身体感覚。宮崎作品特有の映像的快楽として味わえるのは「空を飛ぶ」こと。それが個々のテーマとは別に、アニメーター宮崎駿が一貫して拘っていたことだと思う。
黒澤映画では、「雨」と「馬」だ。数えてみたことはないが、実にしばしば雨が降る。黒澤明ほど雨を降らせる映画作家はいないんじゃないかと思う。それもシトシトではなく土砂降りの雨。主人公を打ちのめすがごとくザアザア降るわ降るわ‥‥。
そして、丘や山道を、馬が駆けてくる。地面に叩き付ける雨、泥を跳ね飛ばして疾走する駿馬。西部劇だと雨が降らないから砂塵を巻き上げて走る馬とか馬車、ということになるのだろうが、日本だからやはり泥を跳ね飛ばしてくれなくては。そういうシーンを観ているだけで、私は気分が盛り上がります。
もちろんどの作品も、メッセージは非常に明快に力強く伝わってくる。でも何度も観ているとどういうものか、いつまでも妙に心に残るのは雨と馬なのだ。不思議。
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黒澤明はとんでもない撮影裏話をたくさん持っている監督だが、特に『七人の侍』にはいろいろ面白いエピソードがある。その一つを『映画をたずねて 井上ひさし対談集』(ちくま文庫)の井上ひさし、山田洋次、黒澤明の鼎談の章から抜粋してみよう。
井上 面白かったのは、久衛右門の婆様っているでしょう。最初に生け捕りにした野武士を、鍬をもって殺してしまう。あの人、配役表でずーっと調べてもぜんぜんわからなくてね。そうしたら緑風園という老人ホームのお婆さんなんです。それで映画に出られるというので、どうせ映画に出るんならボロボロの服じゃなくてきれいな服を着たいといいはったそうですね(笑)。
黒澤 年寄りがみんなうまいんですよ。こうやるんだって説明すると、ちゃんとやるんですよ。で、みんなと一緒にわいわいやれるし、お弁当なんかもおいしいらしくて、楽しんでくれてね。
井上 あのお婆さんはどうも台詞がうまくいえないんで、広沢(栄)助監督が身の上を聞いてみると、B29の空襲で身寄りをやられた。あ、このお婆さんはそういう気持ちなんだな、と。それで野武士をやっつける本番のときの台詞は「私の家はB29でやられて」っていったんですってね。
山田 どうしても「野武士にやられた」っていわない(笑)。それで結局吹き替えちゃった。
黒澤 ええ、やっぱりムリですからね。あのお婆さんはまたほんとに、落語家に言わせると提灯ばばあの唐傘ばばあというやつでさ。皺がすごかったですよ。すぐ亡くなったんじゃないかしら、あの人は。でもほんとうにうまいんで驚いたですね。エキストラのほうが、むしろ大部屋の俳優さんなんかよかうまいですよ。自然にやりますからね。
自然も自然、そのお婆さんにとって、それは演技ではなかったのだ。
身内の者をすべて野武士に殺された婆様の役。家族を失った深い悲しみと恨みが、深い皺の一つ一つに刻み込まれているような顔。そういう顔の素人さんを老人ホームで見つけてきたわけだが、実際にこのお婆さんは身内を戦争で失った身寄りのない人だった。つまりその皺は「本物」だった。
取り押さえられた野武士を村の者達が囲む輪の中に、婆様が鍬を担いで静々と進み出る。物語と現実が一緒くたになっているお婆さんの中では、「B29から爆弾を落として自分の家族を殺した人」を懲らしめる場面である。村人もよってたかってなぶり殺す設定なわけだが、その野武士役の俳優にとっては、おそらくそのお婆さんの一撃が一番痛かっただろう。
別の本で読んだが、このお婆さんは出演料をもらうと助監督に浅草に連れていってもらい、安い銘仙の着物などを沢山買って大満足だったそうだ。
もう一つ、やはり『七人の侍』の話で、木村功演じる一番若い武士、勝四郎についての、井上ひさしの見方が面白い。
井上 ぼくは木村功さんの勝四郎ってずーっと嫌いだったんです。なんだか顔がにやけている‥‥。
山田 ハハハハ。
井上 ところが、後半になって宮口精二が単身野武士のところに行って鉄砲を奪ってくる。そうして、仮眠をとろうとしている宮口精二の傍に立って、目に涙をためて「あなたは‥‥素晴らしい人です」といったときの木村功の顔の美しさ。あれは女性にはわからない美しさです。男が男を愛するときの危険な美しさ(笑)。
黒澤 あれはいい顔してましたよ。ずいぶんやかましくいったんだ。ここはこういう顔をするんだぞって。
たしかにあそこは感動的な場面だ。やりがいのありそうな侍の仕事をやっと見つけて志村喬に付いてきた好青年の若武者が、初めての体験の連続に驚くばかりで、村の娘とイチャイチャしちゃったりして、微笑ましいと言えばまあそうだがちょっと「何やってんだおまえ」的な感じになっていたところに、ハッと目が覚めるような人生に一回か二回しかないような経験をする。
どちらかと言うと私は、久藏を演じる宮口精二の寡黙で鋭い剃刀のようなカッコ良さに目が釘付けで、木村功ってばまたなんてストレートなこと言うんだよと思っていたが、そうなのか‥‥あの顔の美しさは「女性にはわからない」のね。そうかもしれない。黒澤明の作品はやはり「男の世界」を描いて輝いているのだろうな。
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● 追記
なぜいきなり宮崎駿と比較したのかと考えていて、気づいたこと。
宮崎作品で特徴的な動線は曲線‥‥空を自由に飛び回る(カメラアングルも重力に囚われない)
黒澤作品で印象を決定づける動線は直線‥‥垂直の雨、画面を水平または斜めに横切る馬
大雑把に言うと、曲線で描かれた絵vs直線で描かれた絵という対比で宮崎駿が出てきた。私には、映画の中の運動を絵画的なイメージに還元して捉える癖があるようだ。
*1:あ、『用心棒』を忘れていた。