「ビギグギ」

三週間くらい前だったかもっと前だったか忘れたが、夫と喧嘩して殴った。
夫ではなく自分を。


夫と私が地元でつきあっている数少ない友人に、少し年上のTと同世代のMがいる。Tの店で私たちはよく顔を合わせる。TもMも独身で、年末年始に家に泊まりに来たりするくらいには親しい。
やや天然で思いついたことをそのままぶっきらぼうに口にする夫と、歯に衣着せぬ突っ込みタイプのTの間では、時々こっちがヒヤヒヤするくらいキツい冗談混じりの言葉の応酬がある。大抵は夫がやりこめられてエヘラエヘラしている。
T、Mと一緒にいる夫は私から見て、虐められるのを楽しんでいるようにさえ見える。


ある時、いつものようにTの店でMと飲むことになった。普段は時間の約束などしないが、たまたま帰郷中のKと一緒に来るというので、じゃあこっちは○時頃行くと伝えた。
夫はその日は留守番していると言っていたが、誘ったら気が変わったらしく一緒に行くことになった。
一緒に行くと言ってから、「ちょっとその前に急いで片付けたい仕事があるから待っててくれ」と自室に入ってなかなか出てこない。別に時間通りに行かねばならないことはないが、こっちから○時頃行くと言った手前、あまり遅れるのも厭だ。
ジリジリしながら「30分くらい遅れるかも」とMにメールし、もう夫なんか放っておいてさっさと一人で行こうかなと思い始めた。


その時、店に既に到着していたMから私に、「コブ無しでお願いします、とTが言ってます」というメールが来た。コブとは夫のことだ。
Tは店で夫とやりとりの最中に、たまに「おまえ、もう来なくていい」とか「帰れ」などと言う。二人の仲をよく知らない客は驚いているが、Tもそう言ったからと言って夫が帰るとは思っていないから勢いに任せて言うのだし、夫は夫でまったく平気でエヘラエヘラと笑っている。
今回も、きっと夫が私と一緒に来るだろうと見越した上でTがわざと意地悪っぽく言ったのを、Mが面白がってメールしてきたのだ。
二階から降りてきた夫に私は軽い気持ちで、「Mからメールで、Tがこう言ってるってさ」と言った。
夫は烈火のごとく怒り出した。


「これから行こうって矢先に、なんでそんなこと言われなくちゃならないんだ。そんな扱いを受ける謂れはないぞ!」 
いや向こうはいつもの冗談のつもりで‥‥と言ったがダメだった。
「何が冗談だ、笑わせるな。あのなぁ、 Tは店主だから来てほしくない客に来るなと言うのはまだわかる。腹は立つがな。でもなんでMにそれを言わせるんだ? Mもなんでそれをわざわざ伝えてくるんだ? 店の人間でもないのにそんなことを言う権利があいつにあるのか? それもおまえに「Tが言ってます」なんて間接的に言ってきやがって、どこまで人をバカにしてるんだ!」
あまりにも怒るので持て余し「私に言わないでMに言ってよ」と言うと、夫はMに電話し「バッカヤロー!おまえ何様のつもりだ!」と怒鳴って切った。ただならぬ気配を察してかけてきたTには「いい加減にしろ!」と一喝して切った。
更に「そんなことをメールで言われて、それをそのまま俺に伝えるおまえは何なんだ?」と、今度は矛先がこちらに向かってきた。


「コブとは何だ。俺がおまえのコブだとしたら、おまえはコブ付きの人間なのか。なんで他人にそんなこと言われなきゃならん? おまえもバカにされてることになるんだぞ、わかってるか?」
「コブ付き」とは子連れということで、(その場では)邪魔者という意味も含んでいるから、「コブ付きだけどいい?」などという具合に当事者が謙遜して使う言葉であり、他人が使えば失礼になる。それを「コブ無しで」と言われたのだから、夫にしてみれば、他人から見て自分はガキ扱いな上に、邪魔者扱いされているということになる。
「でも悪気ないって」
「悪気あるないの問題じゃない!」
「でもいきなり怒鳴りつけなくたっていいじゃん」
「怒鳴っていいんだ、そのくらい失礼なことだ!」
「いつもよくTに同じようなこと言われてるくせに。考え過ぎ!」
「違う!! 直接言われたら俺も言い返せる。こんなかたちで聞かされるのは全然違う!もう当分あいつらとはつき合わん!」
「もう、こんなつまんないことでカッカして何なのよ、バカ!」
「つまんないとは何だ!これで怒らないで何で怒るんだ!おまえも怒れよ!なんでおまえは怒らないんだ?! 「私の夫をコブとは失礼な」と言い返せよ!! なんでそのまま俺に言って平気な顔してんだよ!!」


夫は怒りのあまりほとんど泣きそうな顔になっていた。とても店に行くどころの話じゃない。
Mから2回ほど謝罪のメールが来た。夫の剣幕にビビって、そっちには送れなかったらしい。ともかく今こういう状況なので、悪いけど今日は行けないと伝えた。なんか泣きたくなってきた。
ひとしきり怒ってから夫は黙ってテレビをつけた。顔はテレビの方を向いているが、まだ怒りが収まっていないのがわかった。ともかくテレビでも見てるふりをしないと、また私に向かって怒鳴りそうになるし、それもいい加減疲れてきたのでそうしているのだと思う。
夫の背中を見ながら、何が間違ったんだろうと考えた。



Tがそう言ってるから伝えとく。私じゃないよ、Tが言ってるんだから。メールを送ってきたMの態度はそういうものだ。だがMがTに同調していることは、それを伝達しているという身振りでわかる。
更に、そのメールの文言全部が「冗談だよ?わかってると思うけど」という暗黙のお約束の上にある。相手がムッとしたら、「何マジになって怒ってるの?冗談に決まってるじゃん」と言える。
だがそんな約束を踏まえねばならない義理は、夫にはない。空気を読んで流さねばならない、ということはない。文言通り受け取って怒って構わない。だってそれは失礼な言い方なんだから。
なぜ私は怒らなかったのだろう。


メールが来た時、ああこの人たちまた調子に乗って‥‥とは思った。でもいちいち「失礼だよ」と返すのは、ジョークを解さない人のようで厭だった。ま、いつものことじゃないかと。
Tと夫の間の遠慮会釈のないやりとりに慣れて、ジョークと失礼なこととの境目がよくわからなくなっていたかもしれない。
黙っていればよかったが、メールの内容をわざわざ夫に伝えた。人を待たせる夫に苛ついていて、自分の苛つきを晴らすために、そこに来たMのメールを使ったわけだ。「Tがこう言ってるってさ」と、責任をTに押し付けるかたちで夫の行く気を挫こうとした。人のメールを使った嫌がらせだ。


夫の怒り方はちょっと大人げない。でも人に大人げないと言えるほど、私も大人ではない。歳は大人もいいとこだが、中身はあまり大人な方ではない。夫も基本的にそういう人だ。
ただ私は、人前でネコを被ったり相手に適当に合わせたりするのがそこそこ上手いので、相対的に夫の子供っぽさの方が目立つことになる。Tは(時にはMも)容赦なくそこに突っ込んでくる。プライベートなつきあいの中で、夫はどちらかというと道化的役割を振られている。
Tにやりこめられている夫を、Mと私がニヤニヤと共犯の笑いを共有しながら見ていることはしばしばあった。夫は言葉をオブラートに包むということをせず、時々あまりにもあけすけなので、私は他人の目を意識してそれに呆れてみせたりする。私は自分がどう見えるかを気にして、いつも空気を読んで振る舞ってきた。
今回も同じだ。内容を見ずに既にある関係性を優先している。
だんだん、自分のしているコミュニケーションの厭らしさがわかって酷い気分になってきた。


夫の背中に向かって「すみませんでした」と言った。夫は黙っていた。とりつくしまもない背中だった。
突然強い自罰感情が湧き起こっていてもたってもいられなくなり、握りこぶしで耳の上あたりを殴った。ちょっと殴ったくらいじゃあまり痛くない。というか、自分で自分の頭を力を込めて殴るのは難しい。物理的にもそうだし、無意識に手加減してしまう。
5発くらい殴ったところで、変な気配に気づいた夫に手首を掴まれた。「何やってんだ」。頭も手も痛かったし、やめるきっかけがつかめなかったので、夫が止めてくれて正直ほっとした。怒らせた相手に自傷行為を止めてもらって安堵しているとは、どれだけ甘えているんだろうか。
今、自分はさぞ醜く見えるだろうなぁとぼんやり考えた。この期に及んでも、私は自分がどう見えるかを想像している。
夫は哀れな者を見る目つきで、「いくら殴ってもそれ以上バカにはならん」と言って二階に上がっていった。



それ以降、あくびをしようとすると、右の耳の中で「ビギグギ」と音がする。
よく、あくびの前に顎の蝶番の部分が軋むような音が「ピキクキ」と聞こえることがあるが、それがずっと大きくなって「ビギグギ」と鳴っている。
最初、寝ている間に耳の中にでっかい蠅でも入って暴れているのかと思ったが、違った。耳の辺を殴ったことで軟骨がちょっとどうにかなったのかしらん。でも別に痛いわけではなく、右耳の聴覚が衰えた様子もないのでそのままにしている。


二週間くらいして、やっと夫はTとMを許したようだった。
TとMは「機嫌直してくれてよかった」ということを私に伝えてきた。そういうんじゃないだろう。機嫌とかそういう問題じゃない。夫はたぶん何かを諦めたのだ。何も言わないので想像でしかないが。20数年一緒にいるが実は私も夫のことをよく知らない。
「ビギグギ」は最近小さい音になった。