「再び大人になる」ということ

デキ婚しとけばよかった - Hatelabo::AnonymousDiary
「産んで育てられるという体制が整ってから子どもを作ろうとしても年齢的になかなかできず、つらい不妊治療をするほど欲しいかというとそうでもないが、なんとなく子どもがいたらいいだろうなと思いながら結局は手遅れになるくらいなら、デキ婚しといた方がよかったかもしれない」という記事が数日前にあった。
子どもを産み育てるハードルが上がっていると言われる社会で、こういう悩みを抱える女性は多いのかもしれない。


これに対し、デキ婚で苦労している最中の人は「計画的にした方がいい」と言うだろう。比較的若いうちに出産、育児をして良かったと思っている人は「早めに産んでおいた方がいい」と言うだろう。少し遅くに子どもを授かった人は「まだ今からでも間に合う」と言うだろう。
伝統主義者は「子どもを作らないのは家族制度の崩壊だ」と言うだろうし、フェミニストは「社会的な子育て環境を整えることが先決だ」と言う。ある人は「子どもをもって人生の喜びがわかる」と言うだろうし、ある人は「その人の幸せと子どもの有無は関係ない」と言う。


そうした諸々の意見の中でもっとも説得力のありそうなものに、「人は子どもをもつことで本当に大人になれる」という意見がある。件の記事にも、「一人の人間を産んで育てられる」ことに「立派な大人」であるという前提があった。順序は逆だが、子育てと大人になることが結び付いている点では似ている。
人は養育、教育されてやっと社会に参入する大人になるのだが、その次に、親になる(なる資格を得る)ことでさらに本当の(立派な)大人になる、という段階があるらしい。


「いや、子どもをもっていたって全然大人になりきれてない人は一杯いる」「毒親を見よ」「子どもがいるいないに関わらず、大人な人は大人、子どもな人は子ども」といった反論はあるだろう。
しかし、子どもを育てるという、多大のエネルギーと時間とお金のかかる、楽しみも多いだろうが苦労もそれ以上に多そうな試行錯誤の大事業をやり遂げていく過程で、人は子どもと共に成長し、一皮剥けて真の大人というものになっていくのだ‥‥という考えは、上記の反論の後でもなお、真実味をもった言葉として響くのではないだろうか。私は子どもをもたなかったが、そう感じる。


子どもをもった人が大人になっていく契機は、子どもの成長過程に応じていろいろあるのだろう。経験していない者が言うのもなんだけれども、その最たる段階は、子どもから離れる時ではないかと思う。
子どもはいつか親離れする。できなければ、親が自立を促さないとならない。そうやって親も子離れしていく。自分を大人にしてくれた子どもと別れる。
子離れを通して、親の立場であるその人は自分の子どもを、親子という関係性とは別のところで、一人の人間、あるいは一人の男/女として、改めて認識し直す。そして、子どもが自分から遠ざかり、自分の理解できない世界に入っていくのを見守り、見送る。
親密圏の関係性の変化、あるいはその終わりを、喜びとして甘受する器量をもつこと。それが、(子育てを通して)人が大人になるということではないだろうか。私はそんなふうに想像する。


すべての人が子どもをもてるわけではない。もちたいと欲するとも限らない。そうなると、結果的に子どもをもたなかった人は、なかなか本当には大人になれない人ということになるのだろうか。
私は長い間、そのことについて考えてきた。私は子どもをもたなかったから、どこかで真の大人になりきれない、何かが決定的に足りない大人なのではないかと、親になりそろそろ子離れも果たしつつある(早い人は孫もいたりする!)同世代と自分を比べて思ったりした。
もちろん、子ども以外のさまざまな人間関係を通して大人になる、仕事や社会との関わりを通して大人になるということは、あるだろう。しかしそれらも、子どもという極めて近い相手との関係性の変化を通して得られるものの「濃さ」には、及ばないような気がするのだ。及ばないというより、種類が違うのかもしれない。違う中で、やはり親密圏におけるその体験はなにか、人間の根源的なところに関わっているように思われる。


そんなことを考えていたある日、子どもをもつもたないに関わらず、否応なく大人へと脱皮させられる契機が人に訪れることに私は気付いた。それは、自分の親が老いて死ぬ時だ。
親はいつか死ぬ。物心つくかつかないかで親に死なれたり親と別れ別れになった人にも、親代わりの人が存在するだろうから、それも親と呼ぼう。人は遅かれ早かれ大抵、親の老いとその先にある死別を体験する。
そのことを通して、子どもの立場であるその人は自分の親を、親子という関係性とは別のところで、一人の人間、あるいは一人の男/女として、改めて認識し直す。そして、老いてボケた親が自分たちの世界とは異なる世界に入っていき、やがてはあの世に行くのを見守り、見送る。


親は二回、子どもを大人へと脱皮させる。一回めは養育を通して。二回めは老いて死ぬことで。一回めがあまりうまくいかなかった人にも、また親にならなかった人にも、二回めのチャンスはほぼ平等に訪れる。
親密圏の関係性の変化、あるいは終わりを宿命として甘受すること。そして、自分もその流れの中の小さな一単位であると悟ること。子どもから大人へと成長した後で「再び大人になる」こととは、自分を大人にしてくれたものの喪失を受け止め、その事実との折り合いをつけていくことなのだと、この歳で知った。


私は今、次第に遠ざかり行く父の小さな後ろ姿を見ている。「再び大人になる」ということはちょっと寂しい。