美大生の関心、山脈地形図、砂漠のオアシス

最近Twitter上で気になった、美大生に関する呟き。



美大生で「アート>サブカル」な人が目立つという話。ここで言われているのは、首都圏の美大を始め比較的ランクが高い美大・芸大の学生だろうか。
私が非常勤で行っている名古屋芸大は、有名美大受験を諦めたり失敗したりして来た学生が少なくないせいもあるのかどうか、相対的にあまりそうしたヒエラルキーに染まっていない気はする。この間講義の中で行った「好きなアーティスト、嫌いなアーティスト」のアンケートでも、サブカル系(マンガ家、アニメーター、イラストレーターなど)の名前が結構上がっているのを見た。
「マンガやアニメもいいよ。私も講義でアニメ見せてるし。でももうちょっとアート関係の人名上がっても良くない?(誰でも知ってるビッグネームとか、ロックウェルやミュシャとかイラスト寄りでなくて)。やっぱり答えたのがデザイン科の学生が多かったからかな」と思ったくらいだ。


マンガやアニメ、イラストは子どもの頃から親しんでいるものだから「遊び」(だから簡単、低俗?)、アートは美術として学校の教科に入っているものだから「学ぶもの」(だから難解、高尚?)という、単純な腑分けがあるのかもしれない。本当は「遊び」の中で、マンガやアニメの高度な見方を知らず知らず学んでいるのだが。
「キャラ表現以外の視覚表現>キャラ表現」という認識は、あまりアートに接し慣れていない人が「具象絵画は見ればわかるけど抽象はさっぱり」と言うのに(逆に)似ている。具象表現だって、構図や色彩やそこに描かれたものの意味、背景を、さまざまな知識や経験を動員して解読しなければならないことはある。
マンガであれアートであれカルチャーと名のつくものは、何でも”高尚な遊び”であり、同時に学びも必要と言える。


それはともかく、アートだけに関心が集中している状態、自分にも覚えはあるなぁと思った。
あるジャンルを自分の専門として選べば、当然それに没入するので、他ジャンルがあまり目に入ってこない、自分の取り組んでいるジャンルほど面白く思えないということは、一時的にはある。
特に難易度の高い美大・芸大に入った場合、"エリート意識"が余計にそうさせるかもしれない。アーティストを目指す学生にとってアートは言わば高い山であり、頑張って有名美大に入った時点で、やっとその麓の一合目の入り口まで来たぞという感覚をもつ。これからこの山を登るのだ。あたりの風景など、ゆっくり見ている余裕はない。そもそもまだ「見通し」がきかない。


4合目あたりまで辿り着いて、やっと周囲を見渡す。山の尾根が、向こうの方の山に繋がっているのを発見する。「おーい」と呼ぶと、しばらくして向こうの山から「おーい」と返ってくる。こだまじゃなくて誰かがその山に登っている。
6合目あたりで霧が晴れ、巨大な山脈の全貌が目に入ってくる。アート山に連なる音楽山、マンガ・アニメ山、デザイン山、建築山、映画山、演劇山、哲学・思想山‥‥。山々を貫通するトンネルが掘られている。ロープウェイで山から山へと移動している人もいる。やあ、こうなっていたのか。


だいたい早い人は10代後半あたりで、こういうことに気付く。遅くても20代の後半までには気付く。
登山者が登って作った道を後から登ってくる人々(作品享受者)の中にも、「山脈」を知っている人はいる。こちらの山に生えている植物の”原種”があちらの山にあるとか、このルートを辿ると向こうの山の峰に行けるとか知悉していて、山脈全体の大雑把な地形図が頭に入っている。そういう人を教養人と呼ぶ。
作り手は、教養人とはまた別の知り方の中で、山脈を発見する。自分なりの「山脈地形図」を作る。美大で学ぶことはそういうことだと思う。


‥‥‥と、ずっと思っていたが、最近の学生は違ってきたのか。アート山に登り始めたら、途中に見晴し台があっても立ち寄らず、ひたすら山道しか見ないふうになってきたのだろうか。アート山の頂上はどこよりも高い、いや山と言ったらアート山だけ、くらいに思われているのだろうか(ランクの高い美大では)。お山の大将になることが目標なのか。
途中で綺麗な鳥を見かけたのでそれを追って道を外れて、気付いたら全然違う山を登っていた、ということだってあると思うのだけども。*1


もしかしたらそういう若者の目には、「山脈」など映ってないのかもしれない。そんなものは蜃気楼に過ぎず、目の前に広がるのは砂漠なのだと。
アートはその砂漠の唯一のオアシス。登るものではなく癒されるもの。マンガやその他のサブカルに集う若者にはそこがオアシス。ここで何でも調達できる。他のオアシスまでは遠い。あっちの水は苦いぞ。こっちの水は甘いぞ‥‥‥。
そういうのを「島宇宙」と言うのだった。

*1:私は大昔、音楽山に登って途中で下山した。次にアート山に登ってもう山に骨を埋めようかと思ったがやっぱり下山した。今登っているのは何山だかわからない。たぶん”自分の山”だ(と思うことにしている)。