とうとう「セカチュー」を読む

「僕」という殺し文句

実はこの一日半の間、暇を縫っては本屋に行ってセカチューを立ち読みし、さっき遂に読破した(ガッツポーズ)。
何をやってんだと言われるかもしれないが、やはり読まずにあれこれ言うのは良くないと反省したのである。ものすごいスピードで読んだためか涙は一滴も出なかったが、なぜある種の女の子がこれに泣けるのか、少しわかったような気がした。


それは、一人称のせいである。この小説は、「僕」という主人公の一人語りになっている(そんなことさえ知らなかったのである)。


「僕」は、ある時はナイーブに、ある時はちょっとひねくれて、ある時は感情の高ぶりを押さえ、ある時は押さえ切れず、ある時はせつせつと、そしてしみじみと、彼女への想いを語る。
この語りに一旦乗っかってしまい、相手の女の子に自己を投入できたらイチコロだ。こういうシャイでひたむきなタイプの男の子を、嫌いになれる10代の女の子は少ないだろう。


上の世代の女から見ると、「僕」は「濡れた小犬」系の男である。「濡れた小犬」とは、捨てられて雨に打たれて、追い払ってもどこまでもついて来て、濡れた目で女を見上げるカワイイ犬のことである。
だからといって、この小説は、男を「小犬」と看做してみたい大人の女には受けない。あまりにも御都合主義だから。


小犬は大抵小犬の皮を被った狼だったりするが、「僕」は警戒する彼女に対して「アキのいやなことは絶対しない」と言ってしまうような、けなげな男の子だ。彼は「あなたを全力でお守りしますから」の皇太子とタメ張れるくらい、紳士である。「僕」は皇太子だったか。それで、昨今の皇太子人気とセカチューブームが結びつく。
もっとも片方はその後セックスして子供作ってんだけど(結婚したからです)、セカチューではキス止まり(高校生だから?というより、彼女が病気になったから)。


「僕」は奥手の純情少年のようなのだが、彼女に下心がないわけではない。友達に、二人っきりになってやっちまえよ、とそそのかされて、ついその気になったりしているところが、「リアル」っぽかったりする。
女の子は、欲しくてしょうがない自分(の体)を前にして、やせ我慢している男を見るのが好きだ。 清廉潔白ではなく適度にナマナマしいところが、重要なポイントなのだ。


いずれにしても、この「僕語り」に女の子が引き込まれてしまうとしたら、普段つきあっていてあんまりよくわからない「男の子の気持ち」が、女の子にとってちょうどいいツボにハマるように、「丁寧」に描かれているからである。

死んだ後も聞きたい「独白」

「僕語り」を駆使して、セックスも描きつつこれまで成功を収めてきた作家は、言うまでもなく村上春樹である。『ノルウェイの森』のヒットとも比較されるセカチューだが、村上春樹ほど「僕」の地位を高めた小説家はいないだろう。


ただ、春樹の小説の「僕」は、さすがにもう少しヒネくれたキャラクターとして描かれている。あまりにも直球な片山ナントカ氏と比べ、そこが春樹の老練なところであるが、春樹の「僕」からビール飲んだりスパゲッティ茹でたりしている余裕を引いて追い詰めると、セカチューの「僕」になる、という構図は読めたような気がする。
そして未だに春樹の「僕」ファンの中年女はいざ知らず、そういうどうでもいいことをやってややこしいカッコをつける男は、今どきの10〜20代の女には好まれないということを、このセカチューブームが証明した。
だらだらスパゲッティなど茹でて、時間稼ぎをしている暇はないのである。
そんな暇があったら、愛をさけんでみろってなものである。


小説を読んで心から感動したかどうかは、そう問題ではない。
この口にするのもこっぱずかしいタイトルの本の「僕」に、少なくない数の女の子が雪崩式に反応した。そういう身も蓋もないところまで若い女の多くがきているのだということを、「僕語り」の元祖村上春樹は一度よく考えてみた方がいいと思う。


「僕」みたいな、純な心情を恋人に持ち続ける男の子がいるのは否定しない。日本のどこかに、そういう奇特な男子も生息しているだろう。
しかしこの小説の更に巧妙なところは、生きてる間に確かめられる男の気持ちだけでなく、(自分が)死んでからの男の気持ちまで、「独白」されていることだ。


自分の知らないところで、相手の男が何をして何を考えているか、とても気になってしまうという女の子は多い。たとえ喧嘩別れした後でも、ひそかに自分のことを想っていてほしい。別れたとたん、別の女とくっついてたんじゃ立つ瀬がない。死んだ後でも同様だ。
しかし、男の本当の気持ちを確かめることはできない。無理に口を開かせても、男は女に「真実」は語らない。どんなに確かめてみたいだろうか、女の子は。
その欲求に、この小説は律儀に応えているのである。


最後には、なんとか彼女の死を乗り越えねばならないという予感に満ちた、「僕」のせつない心情まで描写されている。あんなにセックスしたかったのに死んじまってー、みたいなニュアンスは微塵もない美しいラスト。カユイところに手の届くようなこのサービス。
セカチューは、いつまでも愛されたい女の子の(精神的)オナニー小説である。


ということで、読む前と読んだ後とでさほど変わらない結論が出てしまった。
問題は、これに泣いた二十代の男である(十代ではない)。若い男のことはよくわからないので、誰か分析してほしい。