ハウルの城の革命家

「見られること」を求める恋愛

革命的非モテ同盟」を標榜する古澤克大氏は、自身のブログで、非モテの脱非モテ(自意識の変革)を個人しか救済しえないとして放棄し、すべての非モテを救うためには「恋愛の否定」しかないと主張している。
曰く、恋愛至上主義がモテるかモテないかの階層化と差別化を強化するスクールカーストを助長しており、非モテはその最底辺で差別抑圧に苦しめられてきたと。


こうした見方に対し、二つの疑問がしばしば提出される。
一つは、現在恋愛至上主義がそんなに蔓延しているのか?という点。もう一つは、非モテ自身が恋愛至上主義を内面化しているのではないか?という点である。
この二つは実は切り分けることが難しい。私が見たところ、蔓延しているのは純然たる恋愛至上主義というより、まず「恋愛には金がかかる」という身も蓋もない認識である。
恋愛と金は無関係のものだとするところに依って立つのが恋愛至上主義だが、それとは別に、恋愛と金を大いに関係あるものと看做す認識。私はそれを恋愛市場主義と呼ぶ。本田透の言うところの「恋愛資本主義」とは違う。恋愛関連産業の消費が恋愛に不可欠とする考え方である。


たとえば恋人と家で金のかからないセックスだけしていれば経済的でいい、と考える人はあまりいない。
一緒に外食を楽しみ、買い物を楽しみ、映画やコンサートを楽しみ、遊園地の観覧車で夜景を楽しみ、旅行を楽しみ、それらをより楽しむために女性は美容やおしゃれに投資するだろうし、男性はおしゃれもさることながら、女性に奢ることで金銭的負担をしようとする。恋人を作ると、実際金がかかってしょうがない。
そんなことしないで、スーパーで食材買ってきて調理して一緒に家で食べて、腹ごなしに二人で家の近所でも散歩して、DVD借りてきて家で見て、夜景はパチンコ店のネオンで我慢して、旅行たってどうせ食べてセックスするだけなんだから家でしましょう。ということになれば、かなりのお金が節約できる。
貧乏な人はそうしているはずだ。そんなんじゃあ恋愛らしくないとは、誰も言わないだろう。


ところが多くの人は、「相手と恋愛関係にある」だけでは満足できず、「第三者から見られる」ことを欲するのである。
男性はきれいな女性を連れて街を歩きたいものだし(おお、みんなが羨ましそうに見ているな)、女性は小洒落たレストランで男性にエスコートされてみたい(私達お似合いでしょ)。
三者の視線あっての恋愛。これは都市の若い恋人達にとって、無意識のうちに組み込まれているイメージではないだろうか。
他人からの「あの程度の男があんな美人を」「仲良さそうでいいなあ」「あの二人もうデキてるのかな」といった視線、「お二人様、奥のテーブル席です」という言葉、「カップルの場合女性半額」という表示、そういうものによって改めて確かめられる、自分達=恋人同士。恋人同士らしい姿を人目に晒すことによって、恋愛している実感を高めていくのである(でなければ、なんで電車の中でいちゃつくカップルがいるのだ。あれは二人だけの世界に入って周囲が見えないのではない。自分達の幸せを見せびらかしたいのである。第三者に)。


都市では、恋人達は誰の目も届かないところに引きこもっているわけにはいかない(ワケありカップル以外は)。
しかし街に出るには、人目を気遣ってそれなりの体裁を整える必要があり、出てきた後はどうしても金を使う。二人で楽しむためだからそれは必要経費だとも考えられるが、見栄を張っている部分も当然ある。見栄を張ると一時的に気持ちがいいように人間はできているし、見栄を張れば張っただけ相手に期待することにもなる。


恋人達に金を使わせようとするすべての商売は、そこにつけこんでくる。そしてつけこむのに利用されるのが、恋愛の美しいイメージ、恋愛至上主義で醸成されたさまざまなイメージである。
そこに共通しているのは、
「恋愛こそ人生のエッセンスであり、その果実を存分に味わわないのは、人生まるまる損をしているようなもの」
恋愛したい、恋人を作りたいと思っている若い人の鼻先に、そうした魅惑的なイメージをぶらさげて走らせるわけである。
私もそうであった。
恋人同士で楽しそうにしている人を、羨望と嫉妬の眼差しで見ていた。実際恋人ができてみるとそう楽しいことばかりでもないとわかったが、恋人と別れしばらくたって新たに惹かれる人ができると、
「恋愛こそ人生のエッセンスであり、その果実を存分に味わわないのは、人生まるまる損をしているようなもの」
という思いが膨れ上がった。急に化粧品のラインナップを揃えてみたりもした。最初のうちは誰でも多かれ少なかれそういうことをする。


こうした中で、モテないことによって差別されてきたという思いの強い非モテの人が、恋愛のイメージに他の人々より囚われたとしても不思議ではない。
そして、恋愛が決して自分の手には入らないという確信に至った時、それを批判し否定したいと思うのも無理はない。
内なる恋愛至上主義に押しつぶされてしまわないためには、ある種の極論を構築しそこで論理的整合性を図り自己防衛する必要がある。そうしなければ、モテたいのにモテなかった、モテないゆえに惨めな思いを味わってきた自分と、この先もずっと向き合い続けなければならない。
だから古澤氏の論理は、「すべての非モテを救うため」であると同時に「護身」のためでもあろうと思う。「護身」のためにミソジニーアナクロニズムに走ることを良しとしない「革命家」古澤氏は、恋愛を論理によって相対化し否定する。
ちなみに非モテを名乗る女性は、あまりそういうことをしないように見受けられる。見えないところにいる非モテ女性は、リスカや過食など自分の身体に向かってしまうのかもしれない。

コミュニケーションと恋愛の不可能性

古澤氏も指摘するように、恋愛で重要なのは、コミュニケーション能力と言われる。
多少不細工でも話上手、褒め上手ならモテるという、男性向けの恋愛指南はよく目にする。女性の場合はどうしても外見重視に傾きがちであるが、男性は会話力や空気読み能力があればそこそこモテることが多いのは、私の周囲の男性を見ていてもわかる。
しかし恋愛が基本的にある種の幻想、フィクションであることを免れ得ないように、100%のコミュニケーションというものもやはりあり得ない。
100%のコミュニケーションがない以上、すべての恋愛は脳内恋愛に過ぎない。
つまり恋愛の不可能性とは、コミュニケーションの不可能性である。
コミュニケーションを否定せよ。
これが、「革非同」の古澤氏の論理である。非モテの人は非コミュであることが多いらしいので、こういう意見も必然的に出てくるのだろう。


古澤氏は、コミュニケーション能力を「適宜適切な役割を選択し、それを演じられるかという能力」と定義づけている。つまり相手の求めるところを察知し、それに合うように振る舞うということだ。
これはしかし、「モテ・コミュニケーション能力」と言うべきではないだろうか。古澤氏の主張する「コミュニケーションの否定」とは、「相手に迎合するような会話や振る舞いの拒否」ではないだろうか。
古澤氏の言っているコミュニケーション能力は、「相手の話を理解し、同時に自分の考えも伝えるコミュニケーション能力」の、一部に過ぎないように思われる。


そもそもコミュニケーション全般を否定しまえば、人は通常の社会生活を営めなくなるし、いかなる人との対話も成立しなくなる。
しかも、コミュニケーションを否定している当の古澤氏は、ネット上の発言を見る限り、どう見てもコミュニケーション能力が高い。異論や批判を述べる者に対して熱心に反論し、キレたり罵倒したりという場面を見たことがないし、矛盾を指摘されればそれを認めている。私などより、よほど高度なコミュニケーション能力を持っていそうである。
「コミュニケーションは、不可能である。よって、それを条件とする恋愛も不可能である」というのが古澤氏の主張だ。
しかしそのコミュニケーションをモテのためのものに限らないとすると、むしろ逆になる。コミュニケーションの不可能性ゆえに、恋愛が成立するのである。十全なコミュニケーションと恋愛は両立しない。


知り合ったばかりの時は相手の気を惹きたい気持ちがあるので、私もモテ・コミュニケーションをしたことはある。
しかしやがてそれでは満足できず、モテ・コミュの範囲を超え、コミュニケーションにトライしていく。あらゆることについて、一晩中議論していても苦にならない。むしろ楽しい。相手も熱心だし楽しそう。
ところが別れる時になって言われるのである。もっといろいろ曖昧にしておいてくれた方がよかった。もうちょっと隙間を残しておいてほしかったと。
自分が隙間だらけの人間だと思っていたので、不可解だった。そして、相手の言っている「隙間」とは、相手から見た私の望ましいイメージ、つまり幻想だったと気づいた。
コミュニケーションによって相手の情報が多くなれば多くなるほど、相手のことがわかってくればくるほど、熱は醒めるのだろう。恋愛は「美しい誤解」だから。
昔、男友達が失恋した私に言ったことがある。
「普通の男は女にあまり理屈並べられると引いちゃうんだよ」
「そうなの?」
「大野さんは見かけと落差があるからよけい」
「落差?」
「最初のイメージをあまり急激に壊されたくないってこと」
「なんで?」
「ほら、その真剣な顔で説明を求め過ぎるのがいけない」
げ。


恋愛のきっかけを作るのは、モテ・コミュニケーションかもしれない。
しかし恋愛を不可能にするのは、コミュニケーションである。
さまざまなことを言語化し、意見を闘わせ、自分も相手も切り刻んでいくような、徹底したコミュニケーションが、恋愛を殺す。相手を知りたい、自分を知ってほしいという欲求から自由になるのは無理なので、これは避けられないことである。
だから恋愛は、始まった時からゆっくりと終わりに向かっている。恋愛感情を高めに維持するには、相手と付き合わないことである。


そうすると、異性と付き合わない非モテの人は、ずっと純粋な恋愛感情を保ち続ける人ということになるのだろうか。本田透はそれを二次元で実践しているのかもしれない。
古澤氏は二次元での解決は不完全だとして、その言説から見る限り三次元では完全な諦観に達している。私はその諦観に疑問を持っている。それが事実なら、恋愛と古澤氏は完全に切り離されており、もう恋愛している人に憎しみなど抱くこともなく、淡々と過ごしていけるのではないかと思うからだ。
そしてまた、性愛欲求を持っている人がそれを捨て去ることは無理だとも思う。
相手が承認してくれるから好きになるとは限らない。好かれなくても相手を好きになってしまい、承認されないことに苦しむのである。むしろその感情の昇華が「革命」に向かうのではないだろうか。芸術については、しばしばそういうことが言われる。


「恋愛をすることはできない。なぜならコミュニケーションは不可能だからだ。人は脳内の他者に語りかけているだけである。であれば人を物と看做すこともできる。従って革命は暴力革命しかない」
理屈を積み上げていけばそうなるのかもしれない
「人は恋愛をする。なぜならコミュニケーションは不可能だからだ」
と問題を立てたら、革命の論理は足下から崩れるだろう。


古澤氏の論理の荒唐無稽さは、たぶん氏にとっての現実の理不尽さに対応している。
現実が非モテにとって暴力であるがゆえに、氏の論理は暴力革命に行き着く。それでネタ扱いされたり批判されたりしている。
恋愛できないくらい大したことじゃないのに。非モテという自己規定に縛られているのでは。恋愛否定しながら恋愛至上主義に囚われているのでは。だいたい恋愛なんてもともと不平等で理不尽なものじゃないか。それを否定しても始まらない、と。
実際、何も始まらないのである。だから理不尽な暴力しか残らないわけである。


私には、古澤氏の論理がハウルの城のように見える。
確かにそれは、一まとまりのものとして成り立っている。動機と論旨は互いを支え合い全体を維持している。
だが一歩足を踏み入れると、そこは外部の理屈や常識が通じない迷宮である。この話にソフィーは出てこない。
ハウルは暴走する城と共に自爆するのだろうか? カップルだらけのディズニーランドとか、デートスポットのお台場とかで? 
荒唐無稽だろうと理不尽だろうと、革命家はあくまでカッコよくあるべきだし、誰に何と言われようと英雄的な存在でなければならないし、「非道徳的であるが倫理的である──つまり現にある明白な倫理規範に、より高い人生の倫理、歴史の必然性などの名において違反する(あるいはむしろその妥当性を中断する)」(『快楽の転移』でジジェクは「英雄」についてそう記述している)ことを運命づけられている存在だから、「それ」は想定されているのだろう(私はすべての言説をベタにしか受け取らない)。



●追記/ブクマコメントに反応(タグは見づらいので省略、*の後が私のコメント)
furukatsu  難しい、非常に難しい。 *どこがそう思われたのか聞いてみたい。
keijis  「恋愛至上主義に囚われているのでは」という指摘をよく見るが、果たしてそれがどれだけ意味のある事なのか。囚われていない=関心が無い、言及する=囚われているという事くらい、わかって自覚的にやってるのでは。 *非モテに説教する人がもし恋愛至上主義に「関心が無い」なら、なぜほっとけないのだろうか、というのは興味深い。
kusamisusa  だって、嫉妬が欲望を形作るし、性的関係は存在しないし、主体は他者の副産物なんですもの。(とかいうと一瞬で話が終わってしまうので良くないですよ *‥‥と思って引き延ばしてみました。
sharia  け、結論がよくわからないのですが・・・。 *特に結論はないです。最後の「それ」は前の段の終わりを受けています。
hasenka  何やらドンキホーテのよう*むー。そんな失礼な書き方はしてないつもり。
kennak  周りに合わせて自分を主張するのがオトナ *?
kanose  なんで大野さんはそんなに古澤さんが気になるか興味ある *暴力による実力行使しかないと言明しているから。実行できるのはおそらくテロのみ。よほどの覚悟がないと言えない。
crowserpent  「交換可能な恋愛という形式」の一つの描像。…だとしてもやはり「貧しい恋愛観だなぁ」という印象は否めない。参照:http://d.hatena.ne.jp/zozo_mix/20050514 *「貧しい恋愛観」が古澤氏のを指しているのか私のかわからないが、ここではひっくり返しているだけなので紙一重かもしれない。
Masao_hate 「モテ・コミュニケーション」と「コミュニケーション」は違うと、最近僕もよく思います。 *なぜコミュ能力=モテ・コミュ能力(相手は男女問わず)と了解されているように見えるんだろう。
Imamu  「恋愛至上主義(恋愛と金)」←「第三者の視線あっての恋愛」/「恋愛のきっかけを作るのは、モテ・コミュニケーションかも〜しかし恋愛を不可能にするのは、コミュニケーション」 *and「革命家の言説は実行によってしか証明されない」。
PuHa  「第三者の視線あっての恋愛。」 *他者の欲望を欲望するものなので。‥‥でもそこに反応するのか。別にいいけど。
watapoco  これにはちょっと同意できないなー。外でデートしている人たちに見せびらかしたい気持ちはあるかもしれないけど、見せびらかすためのデートなんてあるのだろうか。 *「見せびらかすため」にデートするとは書いてないけども。で、やっぱりそこに反応するのか‥‥いいけど。
otsune  それは「自宅族」として既に手垢がついた概念なので大野さんの認識不足>都市では、恋人達は誰の目も届かないところに引きこもっているわけにはいかない *「自宅族」であるか否かに関わらず、現象としても欲望の観点からも言えることでは。しかしピンポイントで反応する人が多いな。
mind 「隙間」相手から見た私の望ましいイメージ/幻想だ。communicationによって相手の情報が多くなるほど熱は醒める。恋愛は「美しい誤解」ーー自分の中の動物の仕組みを分かってしまうと、自律的選択問題に引き直せる。 *そんなに簡単にいけばいいのですが。「動物の仕組み」ではないと思う。


●追記2/「ブクマコメントに反応」にブクマがついた(もう‥‥コメント欄に書けばいいのに。隔靴掻痒)
kusamisusa  ブクマコメントにレス。 スルー力(りょく)なんていらない! *えと、どのブクマコメント?というかこれは追記の説明か。で、スルー力はもともとないのですが、なさ過ぎると結構大変ですね。
kanose  "暴力による実力行使しかないと言明しているから。実行できるのはおそらくテロのみ" 具体的なテロの方法が説明されてない限り、アジでしかないと思ってた。実際に言ったら警察呼び込むだろうけど… *革命家の言説は実行によってしか証明されない(でも自爆テロはやめてほしい。古澤さんは簡単に死んじゃいけないし)。