恋愛について語ること

前回は他人(スタンダールさん)の尻馬に乗って当たり前のことを勿体つけて書いて終わりにしたが、私は"恋愛そのもの"を否定してはいない。そんなことはできない。
かといって肯定もしていない。
繰り返し述べているように、恋愛は「いいもの」でも「悪いもの」でもなく、いい時もあれば悪い時もある、そしてする人もしない人もいる、そういうものだと思う。


ウェブには、恋愛についての言葉が溢れている。
モテ自慢からモテない自虐、泥沼話にセックス話に失恋話、恋愛賛美、恋愛指南、哲学的考察‥‥。こちらのような内省的文章もあれば、ゴミもある。
こうした中で、「恋愛は語り得ぬもの。語り得ぬものについては沈黙すべきである」という古典的スタンスもある。たとえば「真の恋愛」とは生きることそのものであると。
「恋愛の価値打倒」を叫ぶ「革命家」でさえ、愛といった脳の産み出した概念は語り得ぬことである(テキスト註より)と言う。
私もこうした意見に同意しないではない。


しかし、「語り得ぬ」ものの位置に置くことで、恋愛はますます特権的な位置を確保するのではないだろうか。
恋愛の「語り得ぬ」魅力は、ますます人を捉えることになるのではないだろうか。
そして、恋愛をしそれを「語り得ぬ」とする人と、恋愛をしないから「語り得ぬ」人との差は、ますます絶対化されるのではないか。


恋愛についての言葉は、恋愛を体験した人のものだけではないと思う。それを体験しているから語れることがあるならば、体験してないから語れることもあるはずだから。
たとえば、結婚した人は結婚した人生について語れるが、結婚しなかった人生については語れない。結婚を選択しなかった人から見た結婚とは何か。そこには、結婚した人には見えない結婚についての考察があるだろう。これはさまざまなことに当てはまる。
私は、人の体験談を聞くのが好きだ。どんなことでも未体験なことにはそれなりに興味がある。
しかし「やればわかる」「大人になればわかる」「恋愛してみなきゃわからない」「子どもを持たない人にはわからない」「戦争体験してないからわからない」、そうした体験至上主義の押しつけは拒みたい。そこに体験の有無によって上下関係を作り、優位に立とうとする発話者の驕りを感じるからだ。


恋愛を求める人の言葉、恋愛中の人の言葉、失恋した人の言葉、恋愛を諦めた人の言葉、恋愛を忌避する人の言葉、恋愛を相対化する人の言葉、恋愛を語る言葉についての言葉‥‥すべての恋愛についての言葉は、等価である。
「恋愛なんかどうでもいい」という言葉すら、恋愛についての一つの姿勢を示している。
その言葉の価値は「恋愛してみなきゃわからない」という言葉の価値と何ら変わりがない。
「恋愛は素晴らしい」という価値観が圧倒的優位にあり、肯定的言説やイメージが溢れている時、それらを一切無視し、ないものとしてやり過ごすことは一つの姿勢としてありうる。
そもそも無関心だから語る気が起きないという態度もありうるし、逆に自分の恋愛体験を言語化したくないという態度もあるだろう(例えば私は本名でブログを書いており、個人情報はウェブ上に結構あるので、自分の過去の恋愛について具体的には語りにくい)。
恋愛についての個別の「語りにくさ」「語りたくなさ」は、確かにある。


しかし、恋愛を「語り得ぬ」ものとするべきではない。
その後にくるのは、体験の特権化である。体験の特権化は、不毛な上下関係を作り出す。
恋愛について語ることは、恋愛の肯定、恋愛の神秘化、恋愛の価値のつり上げになるとは限らない。でなければ、恋愛に失敗し続けることで「恋愛とは幻想である」という命題に辿り着いた、スタンダールのあのペシミスティックな恋愛論は読み継がれない。


だから恋愛をしてようがしてまいが、恋愛についてズケズケ語ればいいと思う。
恋愛に憧れがあろうがなかろうが、グサグサ語ればいい。その言葉はすべて等価である。
あらゆる角度から、あらゆるスタンスで、あらゆる感情を込めて、語り倒せ。ここには言葉しかないのだから。