正しいことと重要なこと

「抑圧」を巡って

メディアにおける男性と女性の扱われ方について、異なる観点からの記事を読んだ。
一つは、イケメンは女性に優しい。(非モテにまつわる抑圧の話)、もう一つはそれにあえて異論を唱える形での女性専用車両に乗れない”恋愛強者”たち(次の記事でコメント欄白熱中)。どちらも読ませる文章であり注目記事なので、未読の方は是非目を通されますよう。


「イケメンは女性に優しい。」の方は、メディアにおいての男女の扱われ方の差異に注目し、そこで抑圧されているのは男性ではないかと問うものである(以下要約)。


メディアにおいて女性は「商品」であると同時に「お客様」でもあるので、大切に扱われている。
様々な女性のタイプが欲望される女性像として喧伝され、ブスでさえ一つの価値を与えられており、ファッション誌を見ても女性のイメージは「若く美しい」だけに留まらない「イイ女」の豊富なバリエーションを獲得している。
それに比べて男性は女性を「おもてなしする」側としての役割を振られており、男性ファッション誌にあるのも女性にとって都合の「イイ男」のイメージばかりである。若い女性は強者であるというメディア情報の中で、男性は常に女性に対し能動的に振る舞うことを期待される。
女性の選択肢はたくさん用意されているのに、男性にはそれがない。そうした男性の過酷な立場はインビジブルなものになっている。


女性専用車両に乗れない"恋愛強者"たち」の方は、上記の見方はあることを認めた上で、女性からの視点を示している(以下要約。後半の女性専用車両を巡る問題については、論点明確化のため省略させて頂きます)。


女性が男性よりも外見を重視される以上、メディアでのブスの扱いに差別的要素がないとは言えない。
また女性が売り手市場なのは若い女性に限ってのことであり、おばさんはインビジブルである。
例えばおばさんやブスと結婚する男は陰で笑われても、若い女や美人と結婚するキモメンは笑われることがない。中年男性が若い女性と結婚しても好意的に捉えられるが、その逆は嘲笑の対象となりがちである。
メディアでは女性が恋愛強者となっているように見えるが、それは男性が若い女性を求めるという現実を反映しているに過ぎない。一方で保守化したおばさんが恋愛強者の若い女性叩きに回り、それによって女性による女性への抑圧も生じている。
非モテ男性はそうしたメディア情報から歪んだ女性像を受け取っているかもしれないが、「強者であること」と「強者と見なされること」とは違うのだ。


後者の記事の大半は、過去、フェミニズムおよびジェンダー論が多岐に渡って行ってきた分析であり、前者の記事に対して出るべくして出てきているものであると思う。私はある大学で「ジェンダー入門」の授業をもっているので、当然のことながらこういった根強い女性への抑圧構造の話は、基本的認識レベルの問題として、している。
難しいのはこれがジェンダー規範であると同時に、ヘテロ男性の性本能(「本音」とも言われる)とも関わっていることだ。
男性が若く美しい女性を求めるのは、性本能という観点からすれば一般的なことと言ってもいいだろう。これを立証する情報は枚挙にいとまがない。
しかし人は単に本能だけに生きるものではないし、欲望のあり方は多様なので、おばさんやブスにもそれなりの需要がある、もとい恋愛のかたちはあるということだ。


従って問題なのは、すべての男は若く美しい女性だけを欲しており、そうでない男は異常であるかのような言説を流したりイメージ作りをすることによって、恋愛、結婚方面の話でおばさんやブスを嘲笑する(主として)男性向けのメディアである。
そういう言説やイメージは確かに男性の「本音」を言い当てている部分もあるので、同調する者も少なくない。彼らの声は漠然と支配的な「空気」を醸成し、それが女性を抑圧している。


この抑圧に対して、おばさんやブスは「でも私は違う」とか「そうでない人もいる」といった反論しかできない。なぜなら、全体的な傾向としてはやはり「本音」派の男が多いだろうと思われるからだ。
またそういう恋愛体験を口にしようものなら、「おばさんのくせに」「ブスのくせに」という冷笑や蔑みが返ってくるような気がして言えないということもある。そんなことにこだわらない人に囲まれていればいいが、「おばさんなんか」と思ってそうな男性が周囲に多ければ、口にしづらい。
かくして抑圧的な構造は、「今や恋愛は多様な選択が可能になった」という言説の陰に隠されて温存される。

内外の「敵」

では、私はこちらの考えを全面支持かというと、実は「男は抑圧されている」論の方も授業で話している。正確には、「男性と同じく、女性の中にも男性への偏見と幻想があり、それによって現実を直視することが難しくなり男性との間に齟齬が生じている」論。
ジェンダー入門」の授業であれば「女は抑圧されている(されてきた)」論をやるのが一般的かもしれないが、実際に女性向けメディア情報に乗せられている女子や、そういう女子の声が大きい御陰でモヤモヤを抱えている女子や、女子力の強い女子に疲れ切っている男子を見てくると、二つの見解を同時に提出せざるを得ない。


男子学生が就職し仕事に「生き甲斐」を見出せれば、また違ってくる面もあるだろう。しかしその点でも若い男性の一部は、女性と同様苦しい立場に立たされている。
だからと言って、恋愛強者として持ち上げられることによって男性への甘えが許されると思い込んでいるような若い女性を、一方的に断罪して済む話でもない。単に自分の不徳によってそうなっているだけではないと思われるからだ。
彼女達が拠り所とする若さと美の価値を過剰につり上げているのは、それで潤う各種の産業である。服も買わず化粧もしないという女性像は、消費の現場では決して流行ることがない。
そうした情報と消費の戦略による圧力から、若い女性が完全に自由でいることは、よほど自立した強靭な内面か完全な"解脱"がない限り難しいだろう。


圧力を圧力とは思わず易々と受け入れられる女性は、自分に金と手間暇をかけた分の見返りを男性にも期待する。だから求められる男性像も、現実離れしたものになってくる。
都市部では適齢期と言われる男性の年収平均は400万円代であるが、未婚の女性が男性に求めているのは平均600万。
収入だけではない。男性も「見られる存在」として女性の審判を仰ぎ、同時に能動的に振る舞わねばならない。今や男に生まれただけで、そういうストレスに晒される時代となった。


ジェンダーを巡って「女は抑圧されている」は全体的な現実認識としては、正しさを確保していると思う。
「男は抑圧されている」は、その現実の断面の分析として重要である。
双方の論者が既に述べているように、この二つは視点の違いでありどちらかを選択すべきものではない。
男女共に、位相は違えど「異性から強者と見なされることで」違和感や理不尽な思いを味わっている人々がいる。実際は強者ではない(その自覚は持てない)にも関わらず。これは過去のフェミニズムが、いや人々が予想しえなかった事態だ。


この観点から、「これは男/女と言うより、モテ/非モテで語れる話ではないか」あるいは「社会規範/弱者と見るべきではないか」という意見も見られる(こちらこちらを参照)。
ジェンダー規範を利用してうまくやっていける側は「正義」、やれない人が「弱者」。弱者はもう開き直ってしまえばいいと。
この二分法が妥当なのかどうかわからない(少し粗暴な気がする)し、弱者として開き直れというのは弱者の感じているしんどさに対して楽観的で、「社会規範」を「正義」と前提している点でどうかとは思うが、そこを除けばジェンダーを巡る状況についての整理の仕方として頷けるところもある。
規範に乗った方が楽だ。規範は性本能に基づいているのだ。それに従うのが自然だ。こういう論理をここでは「社会規範(正義)」と呼んでいる。社会規範は一応「男女平等」となっているのでむしろジェンダー規範というべきだと思うが、要は規範に違和を覚える者に対する「本音」派の論理である。
ではいったい誰が得をしているのだろうか。


男性に「男らしくあれ」と強制して得をするのは、男性中心社会で既得権益を得てきた保守派の男性である。女が強くなるとロクなことがない。男は女を守り一家を構えて一人前。最近この手の声が勢いを増している。
「女であることを謳歌せよ」と女性を煽っているのは、女性向け消費産業である。今や女性は何でも手に入れることができる。あれとこれとそれを買えばあなたはもっと恋に前向きになれる。こんなことをもう20年以上手を替え品を替えやっている。


非常に大雑把な括りだが、前者を政治方面の言説、後者を経済方面の言説とすれば、政治・経済でイニシアティブを取れる者達が自らの利権のためにタッグを組んで、自分達にとって住み良い社会を作っていることになる。
私達は好むと好まざるとに関わらず、その社会に生かされている。飼い殺し状態だと思っている人もいるかもしれない。
恋愛や結婚において「弱者」でもいいではないかと言って強く生きられる環境にある人はいいが、周囲のプレッシャーに負けてしまう人もいるだろう。そういう人に対しては、こうした社会に生きているのだから、自分で解決していくしか仕方ないのだと言われる。言われてみればそうかもしれないと思わざるを得ない部分がある。


「異性から強者と見なされること」で違和感や理不尽な思いを味わっている男女の共通の「敵」、内外の「敵」は、とてつもなく大きい。