昨年「非モテ論壇」界隈で散見された恋愛至上主義批判。私も当ブログで少し触れてみたが、どうも抽象論に終始しがちな感じであった。恋愛至上主義(恋愛を人生最高のものとする価値観)なんて今時どこにあるの?という疑問も見られた。
恋愛至上主義はかつて恋愛結婚を生み出したが、やがて恋愛結婚にも「金と顔の交換」といった功利的な面が現れ、世の中は恋愛資本主義に覆われたと。
こうした現実と恋愛至上主義の延命とは、実は補完関係にあるのではないか。
バブル以降の恋愛資本主義跋扈の反動として90年代には「真剣で純粋な恋愛」をテーマとしたテレビドラマがいくつかヒットし、2004年の純愛ブームにまで引き継がれたし、真の恋愛=純愛は二次元にしかないとする人も現れた。
「恋愛を人生最高のものとする」のは、恋愛に熱中している人に特有の一過性の感覚かもしれないが、「恋愛を人生に不可欠のものとする」考え方は、多くの人に漠然と共有されている。「大人になって恋愛の一つもしてない人は、"人として"どこか未熟」「"人として"なにか大切なものに触れていない」という見方も世間一般には根強くある。恋愛至上主義なるものは、現在そうしたかたちで生き残っているように思われる。
功利至上主義も仕事至上主義も娯楽至上主義も家族至上主義も選べず、それ以外のどんな共同幻想もないと思った時に、最後に「理想」として見出される「たった一人の相手との十全な相互承認関係」。恋愛から恋愛資本主義を抜いた至上主義的な恋愛は、限りなく純愛の様相に近い。
そもそも日本の恋愛至上主義とは、純愛賛美から始まっている。そこで、現在の恋愛至上主義を別の角度から考えるため、恋愛から打算や見栄など「不純物」を取り除いたところの純愛がどういうものだったのか、どんなふうに受容されてきたかを具体的に考察してみようと思い立った。
‥‥とか言ってみたが、今思い立ったというのは嘘です。一年前、本に収録するための原稿として書いたのだが大変長くなり、「これを全部読み通すのはしんどい」ということで悪魔のような編集者に六割方バッサリと没にされた。そのお蔵入りになっていた分を、ここで出してしまおうという企画。
近年有名になった純愛もの‥‥「失楽園」(作家が言うには「純愛」)、「愛と死をみつめて」(リバイバル)、「冬のソナタ」、「世界の中心で愛をさけぶ」、「今会いにゆきます」、「電車男」の分析は本に入っているので省略し、明治から90年代までメディアに現れ大衆に支持された有名な純愛ものを、当時の恋愛観とともに振り返ってみる。
純愛ものは若者が主人公なので、言わば「理想」として描かれた若者の恋愛の歴史。色恋ものとか不倫ものとかの大人のドロドロ恋愛はほとんど出てきません。
尚、拙書では純愛の定義を「任侠」としている。共通点は「現実社会の価値観から外れ、ロマンチックで、ベタマジで、思い込んだら命がけ」。
一週間に二回くらいのペースでアップしていく予定。