八十年代のテレビでは、恋愛ドラマが復活する。その最初の話題作は八十三年放映の『金曜日の妻たちへ』(古谷一行、いしだあゆみ、竜雷太、小川知子、泉谷しげる、佐藤友美、石田えり)。
東急田園都市線沿線のニュータウンを舞台に、三つの核家族の交流と夫婦関係、不倫を描いた、大人がくっついたり離れたりする集団恋愛劇である。
古谷・いしだ夫婦、竜・小川夫婦、泉谷・佐藤夫婦は互いに気心のしれた友人同士。何かと集まっては、テラスで和気藹々とお茶したりしている。うるさい姑もおらず、家はおしゃれな庭付き一戸建て。夫はちゃぶ台をひっくりかえすタイプではなく、妻は常にハイセンスなファッション。団塊の世代の理想の家庭生活が描かれていた。
しかし竜が若い女石田と不倫してしまったので、妻の小川は何かと優しい古谷になびいてしまい、優柔不断な古谷は陥落、小川といしだとの間にただならぬ緊張関係が生まれる。最終的に小川は古谷と別れ竜とも離婚するが、三家族の友情は壊れることなく、最後はなんとなくハッピーエンドで終わる。
このドラマの最大の効果は、不倫の後ろ暗いジメジメしたイメージを塗り替え、流行の先端として世間に認知させたことである。不倫願望を現す「金妻シンドローム」という言葉も生み、パート3まで作られた。
「金妻」以降、八十六年の『男女七人夏物語』を始めとして、男女関係が複雑な集団恋愛劇が、恋愛ドラマの中心となる。
七十年代までの純愛映画は、恋仲になった歳若い二人を中心に描かれていた。恋愛ものでもせいぜい三角関係まで。複数のカップルが入り乱れるという展開はなかった。
二人の関係だけに焦点が絞られる物語は、緊張感が高まりやすい。それが"道ならぬ恋"であればなおさらだ。弱い立場の二人の上に障害や邪魔者が存在しており、主人公達は上に向かって闘いを試み、失敗すれば下に落ちていくしかない。そこにあったのは、「垂直の動き」であった。
それが「金妻」や「男女七人」では、「水平の動き」に変わる。
登場人物は仲良し集団、あらかじめ横並びである。そこで複数の横移動が起こり、こっちと別れてあっちとくっつくけど、元彼の動きも気になり‥‥みたいな横同士の人間関係が絡まっていく。ちょっかいを出す者、相談役、万年振られ役なども活躍して、純愛ドラマのような一点集中の緊張感は拡散されるわけである。
また、モノが溢れた八十年代に、貧しくても愛を貫きながら生きるというような純愛の精神は、完全に時代遅れだった。
恋の背景に、「貧乏」があってはダメである。物質的にはまあまあ満たされているけど、幸せっていったい何?なんか胸の奥がモヤモヤするの‥‥そういう欲求不満なムードが必要である。特に人妻には。
集団恋愛劇のヒットは、八十年代後半に中身のスカスカな恋愛ドラマの量産を招いた。それが廃れる九十年までが、「純愛暗黒時代」となる。
古典的任侠映画が七十年代前半で廃れたように、純愛小説も純愛映画も、八十年代には過去の遺物と化していた。
*
八十年代後半、若手人気俳優の登用と現代風俗の描写によって、十代〜三十代の幅広い女性視聴者を掴んでいたのは、フジやTBSの夜一時間枠の連続恋愛ドラマである。
そこで描かれたのは、溢れるモノに彩られた多角的恋愛模様であり、ドラマそれ自体が、恋愛消費文化を体現していた。
中心は、「W浅野」(浅野温子+浅野ゆう子)が活躍したフジテレビ系の「トレンディドラマ」と言われたもの。トレンディという言葉も死語になって久しいが、オシャレな都心のオシャレなマンションに住み、職業はスタイリスト‥‥みたいな主人公が、ドタバタの恋愛ゲームを繰り広げるラブコメディをそう呼んでいた。
代表的なのが、『抱きしめたい!』(浅野温子、浅野ゆう子、石田純一、本木雅弘、岩城滉一)、『ハートに火をつけて』(浅野ゆう子、柳葉敏郎、かとうかずこ、鈴木保奈美、風間トオル)あたり。
その他、『君の瞳に恋してる!』『愛し合ってるかい!』『世界で一番君が好き!』『恋のパラダイス』『いつも誰かに恋してるッ』『キモチいい恋したい!』など。
しかし"!"が多い。何をはしゃいでるんだというか。いかにもバブル期の舞い上がった、しかしどこか無理矢理明るく振る舞っているような嘘寒い雰囲気の漂っているのが、タイトルからも推察できよう。
こうした、八十年代半ばから九十年までの間に放映された人気若手俳優による恋愛ドラマは、ミソも糞もまとめてトレンディドラマと総称されていたようである。それらドラマの特徴をまとめてみると、
1. 登場人物は若い美男美女ばかりで、主にファッション、マスコミやテレビ関係のカタカナ職業か、医師、ショップオーナーなど小金持ち。
2. 主な舞台は代官山などの「トレンディスポット」で、主人公は常に先端ファッションに身を包み、誰が家賃を払っているんだと思われるような豪華マンションに住み、しょっちゅう流行りのカフェテリアやレストランやバーに出没するといった、派手でうわついた生活をしている。
3. 男女の相関関係が複雑で、片思い、三角関係、恋人未満、元カレ、元カノなどが入り乱れ、くっついた離れたを繰り返し、しかしドロ沼や修羅場劇はなくコメディタッチ。
4. 俳優は「旬の若手」であれば演技力は問われず、人気が出ればトレンディ俳優として使い回しされ、どのドラマも同じような顔ぶれのキャスティングが多い。
恋愛ドラマというより、都市の先端ライフスタイルを見せびらかすカタログ雑誌的内容である。
いつもチリひとつないオシャレな室内、とっかえひっかえの最新ファッション、ピカピカの輸入車、「ウォーターフロント」のデートスポット。ドラマを見ているというより、書き割りとモノを見ているに近い。
しかしそうしたことは既に八十年に、田中康夫が小説『何となくクリスタル』で確信犯的にやっていた。
あそこから詳細データと確信犯の「悪意」を抜いて百倍薄めて甘くしたら、トレンディドラマの一丁上がり。こんなユルいものが人気を博した八十年代後半は、特別にロクでもない時代であったということが改めてよくわかる。
とはいえ、私もツッコミを入れながら面白がっていろいろ見ていた。一番印象に残っているのは、トレンディドラマの本格的な第一作と言われた『抱きしめたい!』。
このドラマは浅野ゆう子と浅野温子が、妙にハイテンションなセリフまわしで「女の本音」をぶつけ合うのと、男がイヤミなほどカッコつけててだらしないのが特徴であった。そしてこれで、スカした小金持ちタイプが当たり役となった石田純一は、トレンディドラマの常連になった。
*
トレンディドラマの背景は言うまでもなく、八十年代半ばからのバブル経済である。
バブルの頃は、みんなが一時の金持ち感を味わった時代、日本人の消費活動がピークに達した時代と言われる。
普通のOLが年に何回も海外旅行に行ったり、高価なインポートものや絵画を買い漁ったり、毎晩のようにグルメ三昧していた時代と言われる。
そこまでできないOLでも、ちょっと上司にねだればプラダのバッグや高級レストランのフルコースに、ほいほいありつけた時代と言われる。
「‥‥時代と言われる」ばかりで書いているのは、しがない予備校非常勤講師(美大系実技)だった私は当時、なんらバブルの恩恵を受けたような気がしないためである。まるでよそ事であった。
たしかに、いろいろ思い出してみると当時の予備校業界も景気が良かったし、身なりや車が派手な講師も多かった。
だが、そういう人々は「濡れ手に粟」の勢いで儲かっていた大手予備校の一般大学受験コースの一部人気専任講師であって、マイナーな美大系実技の非常勤など、彼らとは年収が月とスッポン。周囲にいるのも、なかなか売れないアーティスト稼業の傍ら講師をやっている人か、貧乏な大学院生講師ばかりである。
だいたい仕事柄、服が汚れるのでブランドものなど必要ないし。というか、その前に買えないんだが。
そんな中で、講師よりいい服着てくるような予備校生も少なくなかったが、その手の予備校生にはバブル景気のお陰で小金持ってる親がバックについてるので、滑り止めの私立など何校もばんばん受けさせていた。一応押さえは万全にしておけという口実のもとに。
そういうことはもちろん、男と女のことにも影響を及ぼすのであって、この大学一本、いやこの人一筋浮気はしません、みたいなのはダサいんじゃないかという空気をメディアが振りまいていた。
「純粋でひたすらな愛」をなりふり構わず貫くような姿勢は、ドロ臭くカッコ悪い。だいたいそんなことしてたら、ファッションやライフスタイルに気を回す暇がなくなる。
本命は一人だがキープはいろいろ押さえておいて、用途に応じて使い分ける(メッシーとかアッシーとか、今となってはトホホな言葉もあった)のが、今風の女ということになっていた。
もちろん小金と車のない男は社会人、大学生に限らずモテなくて当たり前の雰囲気。デートはイベント性が重視され、クリスマス・イブの高級ホテルは若いカップルで満員。男にちやほやされるのに飽きた「オヤジギャル」は、オヤジを真似て競馬場や赤提灯に繰り出し、マンションなんかも買ってしまうのであった。
そのようなことはリアリティがない、関係ないと思っていた人は、その当時もたくさんいたはずだが、世間のムードというものは人を浸食する。
とりあえずみてくれにこだわり、消費活動に邁進し、恋愛を金にまみれたレジャーにできる余裕がなければ人生何も楽しめないような気分が、メディアを始めとして社会全体にうっすら漂っていたのである。
こうした日本の八十年代末の様相は、フランスは十八世紀ロココの時代になぞらえることができる。
ロココは貴族の文化が軽薄、華美、退廃の極地に達した時代であり、宮廷の男女はモーツァルトのピアノ演奏など楽しみながら、恋のゲームと消費に明け暮れ、一時の虚しい享楽に耽っていた。その結果、怒った民衆が蜂起して革命が勃発し、貴族のバブル景気ははじけたのである。
日本のバブルは、革命によってではなく経済方面で破綻したのだったが、フランス革命ほどでなくても、それが人心に与えた影響は計り知れない。「奢れる者は久しからず。やっぱり真面目にコツコツと」という反省ムードが、一時的にではあったが当時の日本社会を覆ったのであった。
*
それからずいぶん時間の経った二〇〇〇年、『抱きしめたい!世紀末スペシャル』というドラマが放映された。予告を新聞で見た時は、「何を今頃」と思わず呟いたものだ。
惹句は「あれから九年、浅野温子&浅野ゆう子の、"W浅野"の掛け合い漫才は相変わらずパワフルで爆笑必死」。九年というのは、八十八年当時のドラマの最後で三年後を描いているからである。
昔、「W浅野」を真似てブイブイ言わせていた元OLのおばさんが、暇つぶしに当時を懐かしんで見る以外、何の価値もないドラマだった。ちょっと見出してあまりにもお粗末な内容に引き、他の番組とザッピングしていて詳しいストーリーは覚えてないが、「W浅野」はあの頃から進化してないかのような相変わらずのオーバー・アクション。年とった分だけ痛々しい。
しかも最後の場面が浜辺である。
浅野温子と浅野ゆう子がキャッキャと"少女"のように砂浜で戯れる(もちろん靴なんか脱いじゃう)中で、それをニヤニヤしながら見守る石田純一。御丁寧に、海に向かって石なんかも投げてた(!)。
何とも言えないたまらん感じ。八十八年当時より、恥ずかしさの水位が確実に上がっている。
いくら当時ヒットしたからとは言え、封印された過去を呼び出すものではない。「恋のゲーム」と消費に明け暮れていたバブリーな頃と変わらないテンションの、四十歳のおちゃめな「W浅野」など、誰も見たくない。女優にも酷だ。
そこには、トレンディドラマというものがもともと孕んでいた「無理」が、最もみっともないかたちで露出していた。
そういう「無理」な気分は、九十年の『恋のパラダイス』(浅野ゆう子、石田純一、陣内孝則、鈴木保奈美、菊池桃子、本木雅弘)で、既に表面化してはいた。イージーなタイトルからして、「もうどうでもいい」感が漂っている。
その「恋パラ」と同年の九十年に放映されたのが、TBSの『想い出にかわるまで』(今井美樹、石田純一、松下由樹、大沢樹生、財津和夫)である。
OL今井美樹の婚約者が一流商社マンの「三高男」石田純一で、最初のシチュエーションこそ「トレンディ」風であるが、内容はドロドロ系。
結婚に踏み出せない心配性の今井美樹が、品行方正な婚約者石田純一と、偶然出会った財津和夫演じる水中カメラマンの間で揺れ動いている間に、姉を羨む妹の松下由樹が石田を籠絡してしまい、姉妹関係が決裂。
家にいられなくなった今井は、ひとり貧乏なアパート暮らしを始めるという、骨肉の争いあり修羅場あり石田純一の泣くシーンありのシリアスな展開である。脚本はドロドロ系の得意な内館牧子。
後半は、ヒロインが自分の生き方について激しく悩み苦しむ姿を中心に描かれており、いわゆるお気楽なハッピーエンドとはならない。石田純一は"責任"をとって松下由樹と結婚し、今井美樹は新しい仕事で自立するが誰とも結ばれない。
女が結婚や恋愛に対してクソ真面目に対処した結果、世間一般的な幸せの枠からはみ出して人生の辛酸を味わい、最後に「本当の自分」を見つけた、という恋愛もの+自分探しものの先駆けである。
表層的なだけのカラフルなラブコメに誰もが飽きて、視聴率も落ちてきた頃だったので、このドラマは新鮮に受け止められた。"トレンディ"な場所にも男にも飽きたんで、地に足のついたリアルな恋愛ものが見たい。そういう心理にアピールしたのであった。(続く)