「トレンド(先端)」という言葉が流行語となった八十年代後半は、一方で、価値観の多様化とか相対化などという言葉も、メディアで飛び交った時代である。
あれもあり、これもあり、それもあり。つまり何でもありだが、コレ!と言える「軸」や価値基準は曖昧。そんなもの別になくていいんじゃないの?無理して決めなくても「トレンド」をネタとして楽しんでれば。そんなお気楽で斜に構えた雰囲気が横溢した時代でもあった。
そういう茫漠とした状況に耐えられなくなった時、人はどこに向かおうとするのか。「なにか確固たるもの」、つまりベタなものである。
「確固たるもの」はそのへんには転がっていないので、過去に遡ることになる。「日本人」「伝統」「家族」。コンサバな人はそっち方面に落ち着いた。「からだ」「食」「自然」。エコ体質な人は、そちらに傾倒した。
しかしそんなものにアイデンティティを見いだせない人は、どうしたらいいのか。「メッシーやアッシーやイブの高級ホテルでのセックス」に飽き飽きした一般女子(実際にしてたかどうかは関係ない)は?
そこに用意されたのが、しばらく忘れていた「純愛」という一見古風な、しかし新鮮な受け皿である。あなたに本当に必要なのはコレですよ、と。
そういう傾向を先取りしていた『ノルウェイの森』といった小説や、松任谷由実をはじめとするJポップスにやや遅れてテレビドラマの純愛ブームを決定的なものにしたのが、九十一年の「フジの純愛三部作」––––『東京ラブストーリー』、『素敵な片思い』、『101回目のプロポーズ』である。
そこでは、風俗描写が前面に出ていた八十年代のトレンディドラマと異なり、男女の恋愛感情の推移がストーリーの中心に据えられていた。
中身を見れば、特別「純愛」と謳わなくても「恋愛」で十分に通用する内容ではある。しかし、地獄の沙汰も金次第のバブル期に、堕落に堕落を重ねて地に堕ちた現実社会の恋愛の様相(表層)を鑑みて、あえて「純愛ドラマ」と括ることに意義があったのだ。
レジャー恋愛やビジネス恋愛から「真実の愛」を救出するには、純愛しかない。そうでもしないと月曜夜九時の恋愛ドラマの視聴率は、ジリ貧の一途。
「フジの純愛三部作」を仕掛けたプロデューサー、大多亮によれば、たまたま運動会の駆けっこでビリの子供が必死に走っているのを目撃して、「もしかして一番欠けていたものは、結果はビリでも最後まで走り抜くという、あの一途さと言うか、一生懸命さじゃないかなと」と思ったということである。
「勇気みたいなものを描かないとだめだと思いました」「一番の問題は精神性です」(「赤名リカ、星野達郎こそ、脱トレンディーの象徴だ」ロングインタビューより・CREA 一九九一年十一月号。※赤名リカは『東京ラブストーリー』の、星野達郎は『101回目のプロポーズ』の主人公)。
「駆けっこのビリの子供」を見て純愛ドラマを思いつくとは、あまりにもイージーな発想のようにも思えるが、テレビドラマはメッセージがシンプルでなければ受容されないので、まあそんなものかもしれない。
こうして「純愛三部作」では、普段勇気のない人間が「結果はビリ」と予測できてもあえて貫く一途さ、それが純愛を支える「精神性」であると定義された。
それまでのドラマにそういう愛は描かれなかった。トレンディドラマは、好きだけど会えば喧嘩ばかりしてしまう二人が、周囲を巻き込んだドタバタと駆け引きの末にめでたく結ばれるような喜劇が主流であった。
「私だって幸せになりたい。誰かにドキドキとときめいていたい」。『恋のパラダイス』のヒロイン、津波のセリフである。だがそんな願望ばかり並べてる間に、ビリでもいいから最後まで走りなさい、ということになった。
さて、「純愛三部作」と言っても、爆発的な人気を得たのは『東京ラブストーリー』(九十一年一月〜三月)と『101回目のプロポーズ』(同年七月〜九月)の二本である。
『素敵な片思い』(中山美穂、柳葉敏郎)は、平凡なOLを主人公としてすれ違いの恋が成就するまでを描いたもので、特に注目を集めたわけではない。様々な雑誌媒体で取り上げられ、主人公のセリフが流行語となり、社会現象にまでなったのは前の二作であろう。
その現象に輪をかけたのが、ドラマに使われたテーマ曲である。
九十一年オリコン・シングル・レコードチャートでは、一位をChage&Askaの歌う『Say Yes』(『101回目のプロポーズ』)、二位を小田和正の歌う『ラブストーリーは突然に』(『東京ラブストーリー』)が占めている。
ドラマの主題曲が話題になり、その後でシングルが発売され、ドラマ人気との相乗効果でCDが売れまくりカラオケで歌われまくるという、後に恒例の行事と化したテレビ業界・音楽業界タイアップ、いわゆるブロックバスター方式が定着したのが、この頃からだった。
それぞれの曲のメロディラインはドラマで描かれるせつない感情を嫌が上にも盛り上げ、歌詞はまるで主人公の気持ちを代弁しているかのよう(実際、『ラブストーリーは突然に』はあらかじめ脚本を読んだ上で作られた)。
ドラマにハマってなければ、特にその歌手のファンの人以外は、きれいなボーカルだなとか売れ筋のラブソングだなと感じる程度かもしれないが、ドラマにハマればメロディと歌詞の一つ一つがあのシーンこのシーンを喚起する。
そして、ドラマでは冒頭とさわりでくらいでしか流れない曲を、別の時間に別の場所で何回でも聴きたくなり、CDを買わないわけにはいかない仕組みになっている。
つまり純愛ものは幅広く商売としてイケる、ということでもあった。
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柴門ふみの人気連載マンガが原作の『東京ラブストーリー』(鈴木保奈美、織田裕二、 有森也実、江口洋介、千堂あきほ)は、当時で常に三十パーセント近い視聴率をキープし「ドラマのフジ」の名を高めた大ヒット作である。
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東京のスポーツメーカーに勤める帰国子女の赤名リカ(鈴木)は、中途入社してきた長尾完治(織田)をいきなり「カンチ」と勝手な愛称で呼んじゃうような、天然で直球な女。彼女は「カンチ」に恋心を抱くが、完治の心のマドンナは、愛媛の高校時代の同級生で今は東京で保育士をしている関口さとみ(有森)。
しかしさとみは、やはり高校の同級生で医大インターン生の三上(江口)と付き合い出し、完治は失恋する。完治の恋を応援していたリカは積極的に彼にアプローチし始め、完治もリカの明るさと奔放さに惹かれていき、カップル誕生となる。ところがプレイボーイの三上に不安を覚え、なにかと心細い声で相談してくるさとみに完治の心は揺れ始める。
完治が三上と別れたさとみに会ったことを隠していたと知ったリカは、彼の嘘に怒り直情的に自分の気持ちをぶつけるが、悩み続ける不器用な完治は、おでん持参で訪ねてきたさとみの涙目に金縛り状態となり、ついにリカとの約束を破る。
別れを決めたリカが出向先のロスに旅立って三年後、さとみと結婚した完治は、帰国していたリカと偶然再会。それぞれの思いを隠し、さわやかに別れていく‥‥というドラマ。
これまでの恋愛ドラマでは見たことのない、天真爛漫直球勝負のヒロイン。
これまでのちゃらちゃらした恋愛ドラマとは一線を画したストーリー展開。
まさに「純愛ドラマの伝説」を作ったと言っても過言ではない盛り上がりようで、「月曜夜九時には街から女の子が消える」とまで言われた。放映時間帯は、日本中の若い女(若くない女も)が、自宅のテレビに釘付けになっていたわけである。
それは、予備校講師などというヤクザな職種でも同様だった。
放映時の年明けから春にかけて、私が関わっていた受験産業は忙しさのピーク時だったが、月曜は八時を回ると周りの女性講師はそわそわし始めた。ビデオ録画しとけばいいって話ではないのだ。リカとカンチの仲がどうなるか、リアルタイムで見ないことには。リアルタイムで泣かないことには。『君の名は』以来の現象だったかもしれない。
「最終回を前に、「カンチとリカがハッピーエンドにならなかったら、フジテレビに火をつけるから」「リカが振られたら生きる自信がなくなっちゃう」などという脅迫めいた電話や投書がテレビ局に殺到したらしい。」(『見渡せばそこにはカンチなやつばかり』より/檜山珠美/CREA五月号)。
ドラマ放映中から、週刊誌にもこぞって取り上げられた。
「超人気!東京ラブストーリー 『SEXしようよ』と明るくいえる奔放娘、保奈美のように生きたい」(微笑・二月二十三日号)
「スクープワイド 湾岸戦争の裏の忘れてはいけない事件(4)あなたの娘や恋人を虜にする『東京ラブストーリー』の『SEXしようよ症候群』に御用心」(週刊ポスト・三月一日号 )
「『東京ラブストーリー』ヒロイン研究 赤名リカみたいな恋がしたい! 必須7か条」(女性セブン・三月七日号)
「『24時間、好きって言って!』人気ドラマ東京ラブストーリーの赤名リカの積極恋愛術に学ぼう」(女性自身・三月十二日号)
「赤名リカのスタイルを盗め! 恋も仕事も東京ラブストーリーがお手本!」(女性自身・三月二十六日号)
女性誌では「生きたい」「したい!」「学ぼう」「盗め!」「お手本!」と絶賛されているヒロイン、リカに対し、オヤジ雑誌は「御用心」である。「SEXしようよ」(実際のセリフは「セックスしよっ」)が強烈過ぎて、そんなもの純愛じゃないと思われたのである。
しかしおじさん達の心配をよそに、純愛とは、単に「まだセックスしてないから、胸がきゅんきゅんしちゃってたまらん」みたいなものばかりではない、という見方は広まった。
リカは、男に媚びを売らない「新しいタイプの女」として描かれていた。媚びない代わりに、「二十四時間好きって言ってて!」などと、事実上遂行不可能な無理難題をぶつける。グラついている男にこんなことを言える蛮勇は、普通の女にはない。
二〇〇五年には、ビールのCMでその立ち過ぎたキャラと大袈裟なリアクションが揶揄されていた。あのリカを弄れるくらい時間は経ったんだなと思ったが、当時はそれがものおじしない率直さとして、新鮮に受け止められていたのである。
だから、大人しい顔でいかにも古風な手を姑息に使った(と見えた)さとみの"略奪愛"は、視聴者の非難の的であった。涙を武器にした女を選びやがってと、完治も非難された。
でもそれは仕方ない。正面切ってぶつかってくる女より、おでんの差し入れしてくれるような女がいいという男は多いだろう。押しまくる純愛は、おでんに負ける定めである。
で、その負けがほぼ決定的となった時に、リカのとった行動が面白い。
完治に裏切られ、彼女は突然仕事を投げ出して失踪し愛媛に行く。愛媛はいつか一緒に行くはずだった完治の故郷である。なぜ一人で行ったかと言えば、彼の出身高校の柱に刻まれた名前の横に、自分の名前を刻むためだ。今さらそんな子どもじみたことをしても仕方ないのに、頑固な女ゆえ無駄な意地を張らないではいられない、という展開。
しかし追ってきた完治が別れもやり直しも切り出せないでいるのを見て、リカは約束した一本前の電車でとっとと去ってしまう。迷ったあげくぎりぎりで駅に駆けつけた完治が目にしたのは、「バイバイ、カンチ」と書かれたハンカチだけ。
なんでそんな突っ張り方をしたかと言えば、たとえ完治が来てくれても、それは愛情ではなく彼の優しさに過ぎないだろうことはわかっているし、来なかったら来ないで自分が一層惨めになるからである。
「こっちから別れてあげた」という形に持ち込むことで、相手の罪悪感を軽減し自分のプライドも守る高度な合わせ技。
男が向こうから来てくれるのをじりじりして待ち、不満があっても譲歩してずるずるつきあい、二股かけられれば被害者ヅラで泣きつき、いざ別れとなるとあの手この手で見苦しく悪あがきするような女には、到底できない芸当だ。リカがやっと泣くのは、一人で乗った電車の中である。
これまで離ればなれになったり、病死したり、心中したり、後追い自殺したりする純愛ものはたくさんあったが、いくら悲劇でも、最後まで二人は愛し合っているという設定だった。ヒロインが他の女に男を取られて一人で泣くなど、ありえない話だった。
しかしドラマに釘付けだった女性達は、圧倒的にリカを支持した。「純愛を生きた正直な女」リカの人気は、絶大であった。
何事も猪突猛進で手加減するということを知らず、常にシロクロはっきりつけたがるリカのようなタイプを、普通の男はちょっと持て余す。そういうことを女は熟知しているので、男の前でさとみを演じてみたりするがストレスは溜まる。
「本当の私」は、リカなのだ。実際にリカのような生き方はできなくても、それに憧れることで「本当の私」を肯定できる。そんな気がしたのだ。
しかし、最後にもしリカが、レジの女や場末のホステスとして、前より見るからに落ちぶれて現れたら、どんなに一生懸命働いていたとしても、視聴者はがっかりしたに違いない。
恋を失った上にキャリアも失い貧乏だったら、いずれは男に頼らざるを得ないかもしれないではないか(頼らず静かに自滅するという選択肢はない)。
そんな惨めなヒロインを誰が見たいだろう。フジテレビと柴門ふみに嵐のような抗議が殺到すること必至である。仮に孤独になったとしても、 "キャリアウーマン"然としたリカが最後に颯爽と再登場したから、視聴者は喜んだのだ。
つまり、「純愛を生きた正直な女」と同時に、「都市に生きる自立した女」というもう一つの理想像も手放したくなかったリカファンの女にとって、リカの純愛の悲劇は、「泣けて安心できる物語」であった。
これが、男女雇用機会均等法施行から五年後、バブル崩壊間際の、名作純愛ドラマの受容のされ方である。(続く)