日本の純愛史 11 『ノルウェイの森』と純愛論争 -80年代(2)

テレビドラマでは九十年代に純愛ものが続々と出てくるがその数年前、小説の「純愛物語」があった。八十七年バブルの絶頂期に出てベストセラーとなった、村上春樹の『ノルウェイの森』である。
帯の文句は「限りのない喪失と再生 今いちばん激しい一〇〇パーセントの恋愛小説!!」(上巻)、「激しくて、物静かで、悲しい、一〇〇パーセントの恋愛小説!!」(下巻)。
九月に発売されるやたちまち話題となり、年末にかけてどこの書店にも赤と緑の上下二冊が目立つ場所に平積みにされ、まるで「クリスマスプレゼントには恋人にこれを贈れ」と言わんばかりだった。当時、女性雑誌にも軒並み取り上げられ絶賛されていたので、本当に恋人にプレゼントした人もいたであろう。
九十年代に入って文庫本が出た時のフレーズは、「あなたの一番大切な人へ贈ってください」。
  ノルウェイの森(上)  ノルウェイの森(下)

中身は、三十七歳の「僕」の回想である。
六十年代末、大学生だった「僕」の親友キズキが死んでしまい、彼の恋人だった繊細な女の子、直子と「僕」は時々一緒に過ごすようになり一度だけセックスをするが、その後直子は姿を消してしまう。
替わって、明るく元気な緑が現れ、「僕」に積極的にアプローチしてくるが、「僕」の心は直子の方に。
精神を病んで療養所暮らしの直子と、健康そのものの緑の間を「僕」は行ったり来たりする。
直子からは「待ってほしい」という理由で、緑とは直子に操を立てるという理由で、両方から手でしてもらっちゃう「僕」。
緑が自分のことを好きなのを知っていても「やりたいけどやるわけにはいかないんだ」などと言っていたのに、結局「遠慮しないで好きなだけ出しなさいよ」などと言われている。
「僕」は受け身で相手が積極的。特に何もしていないのに、なんか女のウケがとてもいい「僕」である。
やがて「僕」は緑を愛していると自覚するが、直子の自殺の知らせを療養所ルームメイトのレイコさん(三十代後半)から受け取り、傷心の旅に出る。
訪ねて来たレイコさんと、立て続けに四回セックスする「僕」。最後は緑に電話して「何もかもを君と二人で始めたい」と言う「僕」。
こうした間にも、いろんな女の子と寝たり、直子を思い浮かべてオナニーしたり、緑や直子とエッチな会話を楽々こなしたりする「僕」である。
どんな女の子にもモテてしまう「僕」のセックスライフと恋。‥‥こんな紹介の仕方では春樹ファンが怒ると思うが、だいたいそういう内容である。


直子は『風立ちぬ』の繊細な節子、緑は『愛と死』の明るい夏子にあたるキャラである。
「セックス関係なし」は、村上春樹の他の多くの小説と同様モテる「僕」にはありえないが、「女が死ぬ+男の回想」には、ぴったりハマっている。
つまりこれは、昔ながらの純愛小説の体裁をとった、生(緑)と死(直子)を巡る小説である。上巻の四十六ページに早くも、「死は生の対極としてではなく、その一部として存在している。」というフレーズが出て来る。それも御丁寧にそこだけ太ゴシック体で。もうその時点で、これがテーマだとわかってしまう。





しかし、翌年の七月には朝日新聞紙上で「純愛」論争が起こった。
「この本の主人公は、好きな女性を本当に大切に思い、自分をさらけ出し、その人との精神的なつながりを求めることに努力しています」と「僕」の純愛ぶりを主張する十代の女子に対し、こんなものは純愛ではないとして「この主人公を殴りたい!」とまで言う中年(推定)男性。
まあ一番好きな人とはできないつらい立場の「僕」が、いろんな女の子としてしまうのは、性欲を持て余している若い男子という設定なので仕方ない面もあるかもしれない。
そういう「僕」の語り口は、気が利いていて繊細で淡々としていながら内省的だ。
若い女子がこれを純愛小説だとした一番の理由は、周囲のガサツな男とは一味違う「僕」のその語り、特に会話=コミュニケーション能力にイカれてしまったからである。

「ねえワタナベ君、私のこと好き?」
「もちろん」と僕は答えた。
「じゃあ私のおねがいをふたつ聞いてくれる?」
「みっつ聞くよ」

‥‥ワタナベ君、女心をわかっている。手だれの者である。ここでの相手は直子だが、こういう会話を若い女子はよくするのだろうか。私のこと好きだったらおねがい聞いて。ちょっと厚かましくないか。でも男はこのくらい余裕でうけとめられなきゃね、と読者(の女子)は頷く。
次は緑との会話。

「べつにかまわないよ。僕は時間のあり余ってる人間だから」
「そんなに余ってるの?」
「僕の時間を少しあげて、その中で君を眠らせてあげたいくらいのものだよ」

ステキ‥‥と、読者(の女子)は感動。こんなセリフがすらすら出て来る男など、そこらにはおらん。もっとステキなのもある。

「春の野原を君が一人で歩いているとね、向うからビロードみたいな毛並みの目のくりっとした可愛い小熊がやってくるんだ。そして君にこう言うんだよ。『今日は、お嬢さん、僕と一緒に転がりっこしませんか』って言うんだ。そして君と小熊で抱きあってクローバーの茂った丘の斜面をころころと転がって一日中遊ぶんだ。そういうのって素敵だろ?」
「すごく素敵」
「それくらい君のことが好きだ」

‥‥やれやれ。十九歳ですよ。若い女をたぶらかそうとしている三十男じゃないですよ。いるんかいこんな大学生。しかし読者はコロッと参ってしまうのである。





直子は精神を患っているので、言動が不安定である。彼女が本当は「僕」を愛しているわけではないことは、「僕」もなんとなく感じている。
が、直子の態度は時々やけに積極的だ。療養所に訪ねてきた僕の前で、夜中すっぱだかになって見せたり(でも見せるだけ)、翌日草原で散歩中に「今、抱いて、ここで」と言い出し、「僕」に押し倒されて抱きしめられると「私と寝たい?」と訊く。「もちろん」と答える「僕」に、「でも待てる?」。
何を待つかと言えば「そうする前に私、もう少し自分のことをきちんとしたいの。きちんとして、あなたの趣味にふさわしい人間になりたいのよ。それまで待ってくれる?」。
あなたの趣味にふさわしい人間に? 直子って古いタイプなのかと思っていると、今度は「今固くなってる?」。
こうした無邪気な質問攻めも、直子の生真面目さとしてとらえるべきであろう、『ノルウェイの森』的には。セックスは待たせて手でしてあげたり裸を見せたり、「僕」を手玉に取っているとしか思えない行動も、直子の精神の不安定さと繊細さからきていると了解しないといけない。感動するためには。


直子とは正反対のタイプの緑も、その手のカワイイ質問で「僕」を挑発している。

「あなたフェラチオされるの嫌?」
「嫌じゃないよ、べつに」
「どちらかというと、好き?」
「どちらかというと、好きだよ」と僕は言った。

ベッドでの会話ではない。日曜の朝の大学寮の門の前である。どこでどういう会話をしても全然構わないが、「僕」にもフェラチオにも興味津々の緑に、シラッと真顔で返せる「僕」の肝の座り方はどうだ。
いや、真顔かどうかは小説なのでわからないが、全体を通した「僕」の落ち着きぶりからして、顔を赤らめたり目を逸らしたり口ごもったりしているのではないことは確かだ。たとえ二十歳前でも。
緑には前に、「ねえ、あなたってなんだかハンフリー・ボガードみたいなしゃべり方するのね。クールでタフで」と言われている。女の子にはクールかつタフに接したいという、若い男の願望にも応えたサービス満点の小説である。
いろんな女と寝るタフな神経と体を持ち、積極的に言い寄ってくる女はクールにかわして増々惚れさせ、本命の女とは一回こっきりのセックスだけで続きは待ってやる。それが男のダンディズム。ハードボイルド小説か。


"ウィットに富んだ会話"にいちいちひっかかってしまう読者にとっては、今ひとつ激しく胸に迫ってくるものがない。しかし人気作家の新境地によって、「百パーセントの恋愛」=純愛は一気に注目された。
戦前の純愛小説のパターンを踏まえた上で、さりげなく用意周到な会話を散りばめた『ノルウェイの森』は、「恋人を失った男」の地位を再び高めたと同時に、「男とこんなやりとりしてみたい」という女と「こんなこと女に言えるか」という男のギャップをますます広げたのだった。(続く)