ブログとカラオケは似ているけど違う

ブログとはカラオケである - しあわせのかたち


sho_taさんが、カラオケとブログの共通点について記事を挙げていました。面白いので私も書く。*1
元ネタとなっている『大人は愉しい』(冬弓舎刊/鈴木晶内田樹著)は未読だが、二つの共通点が「要・観客、素人性、キャラクター化(擬装)」なのは確かにその通りだと思った。以下興味を引かれた「キャラクター化」のところ。

 鈴木先生の論考の根は「ブログを書くことによるキャラクター化」にある。これまたカラオケも同じとのこと。


 確かにweb上の人格は、普段仕事をしたり友達と飲んだりする「わたし」とは別のものだ。カラオケで歌っている時にもそういう気分になるし、友人の歌を聴く時もそう。普段の彼とは別の「擬装した彼が歌う歌」を聴いている気がする。仮想パーティか仮面舞踏会みたいなものか。


なんだけれども‥‥‥。
ブログとカラオケの「キャラクター化」には、根本的に違う部分があると思う。その違いは、カラオケとブログの特質に関わるところに思える。


sho_taさんと同じくカラオケは好きじゃないのだが、誘われてたまに行くことがある。
なぜ好きじゃないかというと、「私の嫌いな曲を他人がうっとりして歌っているのを我慢して聴くなんて拷問」というのは措いといて、自分の下手な歌(素人性)を複数の他人に聴かれる(要・観客)のが恥ずかしいということである。
そこで現れる普段の自分と違う自分は、「キャラクター化(擬装)」されているというより、普段の擬装がとれちゃって困る、というのに近い。これは自分を「キャラクター化(擬装)」するほどカラオケ慣れしてないせいだ。


しかし聴く側になると、話は別。
カラオケには人並みに行っている友人や知人の歌を聴くと、こういうのもたまには悪くないと思う。プロ裸足で上手かったりするともちろん感心するが、やはりやや素人臭い方がウケる。
そして何より、選曲や歌い方で「普段のAさんの別のキャラ」を見た気になれるのが楽しい。


そう、カラオケは「普段のAさん」を知っているからこそ面白い。
「普段の彼とは別の「擬装した彼が歌う歌」を聴いている気がする」から。
これは、ブログとの決定的な差ではないだろうか。


初対面の人とすぐその場でカラオケに行くことは、普通あまりない。カラオケに行くまでには、会ってから三日だろうが三ヶ月だろうが、相手のことを少しは知る期間がある。互いに、この人は普段はこんなキャラの人だなという認識がある程度はできあがっていて、「カラオケ行く?」となる。
人をカラオケに誘うということの中には、歌を聴いたり聴かせたりして楽しみたいとか、さらに友好を深めたいとかいうこととは別に、普段の自分とは別の顔、別のキャラを見せたい、同時に、普段のその人の別の顔、別のキャラを見てみたいという欲望があるのではないか。


というのも、飲み会の後などで「じゃ、次カラオケ行こうか」となった時、「えーと私明日早いので帰ります」と逃げたり、やむを得ず流れで付き合わねばならくなった時でも「大野さん歌わないの?」「ごめん下手だから。聴いてる分にはいいよ」などと言い訳したりということが続いていると、そのうち中には「どうしても大野に歌わせてやる」という邪悪な欲望を抱く人が出てきて、「山口百恵世代だから『プレイバックPart2』なんかがいい」と勝手に曲を入れられてしまい、追いつめられてヤケクソになって歌って何が面白いのか大笑いされ、「あー今日はいいものを見た」「次は桜田淳子でお願いします」などと言われて、自分ですら自覚していなかった恥部を晒してしまったという手遅れ感に浸ったことがあったからである。
まったく世の中には、人のカラオケ処女を奪って喜ぶ酔狂な人間がいるので迷惑だ。



何の話だっけか。
そうそう、カラオケは「普段のAさん」を知っているからこそ、別のキャラ(擬装)を見られて面白いということだった。そして、「普段の私」を相手が知っているからこそ、別のキャラ(擬装)を見せるのが楽しいと。
私のような歌の苦手な人は擬装も何も、ただ間違えずに歌うだけで必死なのだが、カラオケ好きな人からしてみれば、「今この流れの中であえてこの選曲をしたらウケるぞ」とか「私がコレを歌ったら皆意外に思うだろうから、ちょっとびっくりさせてみたい」とか「この歌で○○さんが普段の俺にもっているイメージを変えてやる(んで、あわよくば惚れさせたい)」とかいろいろ画策するのだろう。
だってお客さんあってのものですからね。単純に好きな歌を歌いたいんだったら、風呂の中で充分なわけで。


しかもカラオケの歌はすべて「他人の歌」である。そこにはあらかじめその歌手(や作詞家や作曲家)のキャラが染み付いている。カラオケを歌う人は「他人のキャラ」の力を借りて、かりそめの擬装を果たすのだ。
これはいつもと違う服を着て、イメージチェンジするのに近いかもしれない。普段はスーツのイメージの人が、カラオケでTシャツとジーンズになる(かのように見える)。意外と似合ったりギャップが面白かったり。
全然目立たなくて冴えないなあと思っていた男性に別の服を着せてみたら、じゃないやミスチル歌わせてみたらあれま別人みたいにカッチョええがな周囲も驚嘆、一瞬好きになってしまった(でも翌日になったら魔法が解けた)とかありませんか。


ブログにこういう「変化」はないのではないか。
そのブロガーAさんは最初から、「Aさんというキャラ」以外のものではない。「普段のAさん」がブログでこんなキャラをやっているから面白いという、カラオケみたいな現象はほとんど起こらない(Aさんを直接知っている人以外には)。
ただ「Aさんというキャラ」がそこにあり、ここはリアルとは異なるweb上だから、それはなんらかの擬装が施されたものなのだろうと推測するのみである。


ちょっと擬装について考えてみる。
sho_taさんの記事で言われている擬装は、昆虫の擬態のような「 a が a' に一時的に擬態しており、本来の姿は a 」というものではなく、むしろ a をもたない a'、a''、a'''‥‥という「仮面」だけがあるようなイメージだ。
リアルであろうとwebであろうとすべての「私」は擬装(仮面)であり、隠されたオリジナル(本当の私)がどこかにまとまってゴロンとあるのではない、という言い方もできる(というかポストモダン以降はそういうことになっていて、sho_taさんも近いことを言っていると思う)。
ちなみにこの「「本当の私」など存在しない」は、なんかどっか変だなという感じが個人的には拭いきれてないのだが、どこが変なのか、また変だと感じる私が何かに囚われているだけなのか、そこらあたりがうまく説明できないので、とりあえず「すべての仮面に「私」が断片化している」ということにしている。
「私」は a'+a''+a'''+‥‥というようなものとしてあると(その+という計算をしている俯瞰的な私が「本当の私」ではないか?とか言われるとますますわからなくなってくるが)。


とっちらかってきたのでそろそろまとめに入ると、カラオケで起こっているのは、「普段の私」(擬装 a' )が「普段と違う私」(擬装 a'' )に変化することである。a' → a'' 。「→」は「キャラクター化」の「化」の部分であり、その切り替わりが自分にも観客にもわかるのがカラオケの醍醐味である。
一方、ブログでは、「→」が存在しない。「化」が観客には見えない。あるのは、個々のキャラクターである a'' や a''' だけだ。


もっともsho_taさんの書いているように、ブログを「人格の分離、解離というものを意識的にできるツール」として一種の「社会訓練」に使うなら、変化、切り替わりは自分にだけわかっていればいいのかもしれない。

*1:なんか最近よくsho_taさんの記事を取り上げているので、あちらのトラバ欄にOhnoblog2が並ぶのが幾分気が引ける。‥‥けど気にしない気にしない。