「「非モテ論議」の傾向と対策」への疑問

id:crowserpent烏蛇さんの非モテ論議の傾向と対策という記事にブコメをつけたら、次の非モテ論議の傾向と対策(2)/「酸っぱいブドウ」理論の陥穽で御本人から批判的言及を受けた。レスが長くなりそうだったし、付随して書いておきたいこともあるので、記事を起こすことにした。


烏蛇さんは最初の記事で、非モテ論議を失敗させないためには「モテるには/恋愛するにはこうしたら?」というアドバイスではなく、「なぜモテたいと思うのですか?」と非モテに問うべきだと言っている。これにつけた私のブコメに対する次の記事での烏蛇さんの異論は以下(ちょっと前から引用)。

 ナツ氏の挙げた「問い」は一見「問い」のように見えながら、実は既に答えを用意しています。背後にあるのは「恋愛も価値があるが、それ以外のものにも価値があり、何を選ぶかは自由であるはずだ」という主張なんですね。もちろんこの主張は「正しい」んですが、「恋愛は『なぜ』価値があるのか?」という問いはスルーされています。


 なぜこの部分が抜け落ちてしまうのか、はっきりとは分かりません。理由の一つはおそらく、この「なぜ」を問う必要性が充分認識されていないということなのでしょう。前回の記事に対するブックマークコメントにも、以下のようなものがありました。

ohnosakiko なぜモテたいのか?ってそりゃあパートナーを求める人の多くが、性欲と被承認欲をもて余しているからでしょう。あまりに当たり前のことで、それを問われてもモテたい非モテの人は困るのではないか。

 
 ここには「恋愛したい(価値がある)のは当たり前」という認識があります。その理由は「性欲」として、あるいは多少気の利いた場合でも「承認欲望」で片付けられてしまいます。
 しかし、よくよく考えてみれば、これはおかしな話です。「性欲」は「恋愛」でなければ解消できないわけではありませんし、「承認欲望」なんて尚更そうです。それらを敢えて「恋愛」に求めるには、それなりの理由があるはずなんですよ。


 その「それなりの理由」とは何か? この部分をこそ、「自分自身に問い直してほしい」と私は前回述べたわけです。おそらく、その「理由」は個々人で異なった語られ方になるはずです。
非モテ論議の傾向と対策(2)/「酸っぱいブドウ」理論の陥穽


で、コメント欄で以下のやりとりをした。正直、噛み合っていない。
http://d.hatena.ne.jp/crowserpent/20080409#c1207766557
http://d.hatena.ne.jp/crowserpent/20080409#c1207798241
烏蛇さんの言うように、細かく見れば求めるものは千差万別だし欲求の温度差もあるだろう。非モテでも非・非モテでもそれは同じだ。しかしそのベースにあるのは性愛欲求(性欲と被承認欲とした)だという見方は、そんなにおかしいだろうか。性愛欲求は相手がいて初めて生まれるとは限らない。意中の人がいなくても「恋愛したい」「誰かと恋仲になりたい」という欲求が潜在していることはある。
というか、「モテたい」「恋愛したい」にはそうした欲求があるでしょうと言っただけで、「恋愛したい(価値がある)のは当たり前」という認識があると決めつけられ、「恋愛は『なぜ』価値があるのか?」という問いが意識されてないと言われるのがわからない(ずっと前に、恋愛が過剰に価値づけられていることについて批判記事をいくつか書いているのを、烏蛇さんも知っているはずだが)。


こういうことは、これまで烏蛇さんの記事を読んだり議論をした中で、私が時々感じているズレである。烏蛇さんも同様に思っているだろう。
端的に言うと、烏蛇さんから見た私は「人には(非モテには)性愛欲求があるということを前提にしてしまっている人」であり、私から見た烏蛇さんは「人の(非モテの)性愛欲求の切実さをあまりに軽く見ている人」である。これについては、また後で述べる。


こうした議論で、「非モテ」という言葉で一律に語ることが齟齬を招くという意見は時々ある。非モテにもいろいろなタイプや主張があることは私も知っている。
だが、今回の一連の議論で対象となっているのは、「性愛欲求が満たされないことに苦しんだことがあり、それが嵩じて非・非モテから言及されることに怒りを表す非モテ」である。
彼らとのコミュニケーションギャップ=「非モテ論議」の失敗が問題となっている。ナツさんが挙げていた議論の失敗例は、すべてそういう非モテとの間に起こっていることだと思う。
「特に苦しんではいない非モテ」、たとえば前記事のコメント欄にあった「「恋愛と全く縁がない人生も大いに楽しんでいるが少しは女性とお付き合いというものもしてみたい」みたいな緩いスタンスの人間」との間に、そうした失敗、トラブルは起こらないと思う。少なくともキレられたり罵倒されているところは見たことがない。


烏蛇さんは議論の失敗例を鑑みて、最初の記事で「「非モテへの対応」に対する具体的な提案」をしようとしていた。そのとっかかりとして、個々の非モテの「モテたい/恋愛したい」欲求の中身を語らせよと。

[‥‥]具体的には、「私はどうすればモテますか?」という問いに対して、「あなたはどうしてモテたいのですか?」と問いで返せばいいんです。


 そもそも「モテる」という日本語の意味はかなり多義的ですし、以前こちらの記事でも述べたように「恋愛対象として見られること」は必ずしも望ましいこととは限らないのですから、「どうしてモテようと思うのですか?」という問い返しは別に不思議なことではありません。
非モテ論議の傾向と対策


上のこちらの記事では、「非モテの苦しみ」とは「恋愛できない苦しみ」というより「恋愛するのが当たり前という環境の中に置かれる苦しみ」であるとしている。確かにそうした文章は時々目にする。
恋愛そのものが苦手でそうしたコミュニケーションを避けたいだけだったら、その人には「恋愛するのが当たり前という環境の中に置かれる苦しみ」しかない。そして私の見たところ、そういう非モテの人がネット上の人の恋愛記事やアドバイスにキレるということはない。もちろん恋愛したくないとわかっている人にアドバイスなど不要なのは、言うまでもない。
キレた態度を表に出すのは、一度も恋人獲得に成功したことのないことから「恋愛できない苦しみ」をもっている人である。それだけでも当人にとってはしんどいのに、「恋愛するのが当たり前という環境の中に置かれる苦しみ」までのしかかってくる。


繰り返すが、一連の議論で対象になっているのは、こうした「恋愛できない苦しみ」を度々味わい「それが嵩じて非・非モテから言及されることに怒りを表す非モテ」である。
つまり広い意味での性愛欲求は「二次元」でも満たせるかもしれないが、やはり現実の女性に性的に承認してほしいという欲求は失っていない、にも関わらず、言及やアドバイスを拒否する人だ。矛盾しているが、欲求がどこかにあると仮定しないと、非・非モテへの強い憎しみ、ルサンチマンの理由がわからない。
その点、「「モテたくないと主張している」のに、実際はモテない(異性に承認されない)ことに心の底から憤ったり絶望したりしている人」というナツさんの考察は当たっているのではないかと思う。なぜそのように矛盾するのかは非モテの人自身が語ればいいので分析はしない。


で、そうした内心モテたい非モテの人に、「なぜモテたいのか」という欲求の中身を語らせることができるのか。 
そんなことを聞かれて語るには、相手との信頼関係ができていてコミュニケーションしたいと思っており、しかも自分の抱える欲求を公の場所で具体的に書いてもいいと思っていなければ無理だ。
だが烏蛇さんは、非モテが「どうしてモテたいのか」を語らない理由は、自己言及の拙さにあるのではないかと言っている。「「恋愛することは価値があることだ」という規範意識が、自己を反省的に語り直すことを阻害する」と。
「自己を反省的に語り直す」のを非モテが苦手としているとして、その原因がなぜ「「恋愛することは価値があることだ」という規範意識」の存在になるのか、理路が見えない。
「どうしてモテたいのか」語らないのは、単に恥ずかしいから、非・非モテの人に突っ込まれると鬱陶しいからかもしれない。「モテたい/恋愛したい」に理由も理屈もない、ただそれを渇望しているんだということかもしれない。それこそ個々の事情はわからない。
なのに、「規範意識」があるから「なぜモテたいのか」自己反省的に語れないのだと一方で分析しつつ、「どうしてモテたいのですか?」と訊くのは、暴力的ではないか。



‥‥と思ったのだが、次の記事で「少なくとも「攻撃的な非モテを避ける処方箋」としてはあまり適切ではない気がしてきた」ということでちょっと当てが外れた。烏蛇さんくらい非モテを観察してきた人が、なぜそれに気づかなかったのか、と思った。以下その推測。


烏蛇さんの中に一環してあるのは、「「恋愛することは価値があることだ」という規範意識」への問いである。世間一般にそういう「規範意識」が漠然と共有されているのは事実であり、問いそれ自体は、恋愛について考察する上で大切なものであると思う。
その上で烏蛇さんは、非モテに言及しようとする人にも、なぜ恋愛したいと思うのか「自分自身に問い直せ」と言っている。
この問題意識が強いために、非モテとのコミュニケーションギャップ問題が出された時、上の問いをモテたいと言う非モテへの「対策」としたのではないかと思う。
しかし、そもそもモテたい非モテは誰かのアドバイスを聞いてモテようとするのであり、そこにわざわざ「なぜモテたいと思うのか」と聞くことにどんな意味があるのかわからない。「対策」しなければならないのは、容易にモテたいとは言わないのにその欲求があるとしか思えない攻撃的な非モテ、ということになっていたのではないか。


烏蛇さんはヘテロであることを言明しているが、「一生異性と恋愛及び性交渉はしない」と中学生の時に決意した人である(どこかでそれを読んだがどこでだったか思い出せない。すみません)。今度の記事で詳しく述べられると思うが、少なくとも恋愛の価値を世間一般より低く見積もっている、あるいは懐疑的であるということは言えるはずだ。
そうした立場から烏蛇さんは、非モテ、非・非モテに関わらず、
「あなたの中には、誰もが恋愛しないとならないという囚われがありませんか? 恋人がいないことは恥ずかしいという間違った認識がありませんか? 恋愛は価値のあるものだという思い込みがありませんか? あなたは自分の欲求を世間一般で言う恋愛の「型」に当てはめようとし過ぎていませんか? あなたの欲求は、別に恋人ではなくても異性の友人でも(あるいは二次元でも)満たせるものではありませんか? それは特定の人との恋愛でなければいけないのですか?」
と問いたいのだろう。これまでの言説からそう読み取れる。
烏蛇さんの恋愛に対する問題意識の高さとは別に、自身が恋愛を放棄しているからこそ、そう問うことができるのではないかと思う。その位置から見れば、私のブコメ規範意識に囚われたものに見えるだろう。


恋愛はなぜ価値があるとされているのか? 本当に言われるほどの価値があるのか?
こうした問いを、自分にしなかったわけではない。それでも私は誰かを好きになり、恋愛したいと思った。この人との間で、自分の性愛欲求を満たしたいと切実に思った。それが叶わなかった時、この欲求は他では決して代替できないと思った。本当はできたのかもしれない。次第に別のことに集中して失恋を忘れ、やがて別の人を好きになり、運良く欲求を叶えることに成功したのだから。
でも、「代替できない」という感情は、嘘ではなかった。それは「恋愛できない苦しみ」だった。その感情を、恋愛を最初から放棄している人に理解せよと言っても無理だろう。頭で理解はできても共感は難しいだろう。
同様に、「恋愛できない苦しみ」を抱えた人に、「恋愛することは価値があることだ」という規範意識に囚われていないか?という言葉がどこまで届くのだろうかと思う。規範の中にあろうがなかろうが、今ここにある苦しみはリアルなものである。誰も理性では恋愛しない。理性や理屈では割り切れないから厄介なのである。


私の記事の視点にバイアスがかかってないとは思っていない。私の言葉は異性愛主義に染まっているだろうし、性愛感情を無条件に肯定しているかもしれない。ただその感情に深く囚われたことのある人が、恋愛をそう簡単には相対化できないことは、自分個人の体験「以外」からも知っているつもりだ。
こうした恋愛観をもつ私が「恋愛の規範意識に囚われた人」ならば、烏蛇さんは「恋愛への懐疑に囚われた人」である。非モテに絡めて恋愛を分析し相対化し「対策」をすればするほど、烏蛇さんの立ち位置や思想は明らかになる一方で、一連の議論で対象となる「非モテ」や非モテを苦しめる「恋愛」からは遊離していくように私には見える。


規範を疑い分析することは重要である。規範が私達の「自由」を奪いコミュニケーションを断絶させ私達を不幸にしている限りにおいては。
しかし性愛欲求を失っていない非モテの人が、もし「自分は『恋愛することは価値があることだ』という規範意識に囚われているかもしれない」と考えたとして、では彼は明日から「モテなくてもいい」「異性に性的承認されなくてもいい」というふうに思えるのか。
そこまで人は「自由」ではないと思う。



●付記
私が非モテ論議に首を突っ込んでいたのは、主に2006年の10月頃から翌年の2月頃まで。記事を何本か書き、烏蛇さんのところやfurukatsuさんのところにも時々コメントをしていた。最後は8月のfurukatsuさんへの記事で、それ以降は書いていない。
以下、非モテ関連記事です(旧ブログから記事のみ移動したのでコメント欄は再現していません。読みたい方はお手数ですがこちらから発掘して下さい。旧ブログブックマークを見たい方はこちらから)。
非モテ女が見えないのはなぜ?(2006/10/20)
性的視線は遍在する(2006/10/24)
「非モテ論議」についての個人的且つ暫定的まとめ(2006/11/05)
ハウルの城の革命家(2006/12/20)
「殴れば人は言うことを聞く」のなら(2007/08/24)
※おまけ
恋愛なんか。(2006/06/20)