「"村上春樹"的なるもの」について

村上春樹氏 エルサレム賞受賞-村上春樹という問題 - 無造作な雲
村上春樹エルサレム賞受賞に関する一連の議論の中では、この記事がもっとも深く問題の在処を捉えたものだと私は感じたが、コメント欄ではさらに掘り下げられていた。重要なことが書かれていると思うので、書き込み者の発言の一部をコピペさせて頂きます(各コメントにつき全文は引用していないこと、読み易さのために一部の行間を詰めたことをお断りします)。


id:quagmaさんのコメント

ところで、ここでコメントいたしますのは、エントリの趣旨には同意しながらも、書かれているところの一部にやや違和感を感じたからです。
>「“村上春樹”的なるもの」の根強さの根底には、宮本顕治徳田球一らの「獄中18年」に始まる“輝かしき”戦後日本の左翼運動が、2・1ゼネスト六全協全学連全共闘と、曲折と挫折と変節を繰り返しつつ、自陣営の拡大のみを至上とする政治的マキャベリズムへと堕してきたことへの失望と諦めがあるように、ボクは思う。
>そういった意味で、戦後サヨクの罪は重いといわざるを得ない。真に批判されるべきは、村上春樹ではなく、社会変革をお題目に掲げながら、自己のプライドや党派性によってその理想自身を裏切り続けてきた、戦後日本の“左翼的なるもの”なのかもしれない。


実は、このあたりの戦後左翼運動史に関しては、恥ずかしながらほとんど無知なのですが、それでも、「春樹的なもの」の蔓延る日本社会の空気について、いわゆる左翼のみに責めを負わせるのは、やはりフェアでも現実的でもないと思います。
安保闘争弾圧のために右翼を利用した岸自民党政権、その結果としての右翼テロの続発(浅沼暗殺事件や『風流夢譚』事件)、ある時期から労働運動に対し極端に冷淡な判決を連発した最高裁、中曽根による労組潰しを目的とした国鉄民営化、といった権力側の作用について全く不問に付すのは、問題があるのではないでしょうか?
私は、まずは第一にこれらの事実が功を奏した結果として、70年代以降の日本を支配し続けた、冷笑的で虚無的で体制順応主義的な日本的空気というものが発生したのだと考えています(もちろんそれに抵抗する側の無力さといった事情も見逃せないでしょうが)。
そして、春樹は見事にこのような時代と寝てみせた(下品な表現ですみません)のです。


私は、今回のエルサレム賞受賞事件は、文学の政治性に対し極めて鈍感な日本文学に突きつけられた匕首だと思っています。
他でもない春樹が受賞したという事実に、痛烈な皮肉を感じてしまいます。


id:icchan0000さんのコメント

>、「春樹的なもの」の蔓延る日本社会の空気について、いわゆる左翼のみに責めを負わせるのは、やはりフェアでも現実的でもないと思います。


というご指摘につきましては、ご批判のとおりボクの記述はフェアでないと認めます。
確かに権力・体制の側からの力学をまったく触れずにやり過ごしたのは、片手落ちだったかもしれません。
言い訳させていただけば、権力側からの働きかけはあまりに当たり前なので言及することに重いが至らなかったということ、そして、心情的に、反体制・社会改革を掲げる側に、より多く“失望”しているため、つい、左側にのみからい物言いになってしまいました。
丸山真男風に言えば、「革命運動なんだから失敗・敗北を権力や権力の強さのせいにするなよ」という感じですが。


>今回のエルサレム賞受賞事件は、文学の政治性に対し極めて鈍感な日本文学に突きつけられた匕首だと思っています。


その認識には賛同します。
賛同するのですがやはり一方で、日本の現状は、その匕首が刺さったくらいではビクともしないのでは、という諦観も禁じえませんけれども。


id:font-daさんのコメント

私は春樹さんの行動それ自身より、春樹さんをとりまくファンやアンチがどのように今回の件を取り上げるのかは興味深いと考えていますので、もっと話題が広まればいいなあ、と思っています。


ところで、左翼についてですが、春樹さん自身は「戦後左翼(とくに学生運動系)」のだめなところをどっぷりご覧になられたんだろうと思います。そして、古参のファンも、50代〜60代の同じく左翼(女性運動も含めて)のだめなところを、あちこちで目にしたのだと思います。それ自体は左翼の責任と呼んでよいでしょう。
しかし、私が注目する「”村上春樹”的なモノ」を消費する層は、もう少し若いのではないかと直観的に考えています。すなわち、左翼のだめなところは、直接的にはほとんど目にしていないのだが、村上春樹を筆頭とする世代の作家の、左翼批判を内面化している30代〜40代です。
私はさらに若い20代ですから、この上の世代の”村上春樹”風ニヒリズムは、「そういう時代だったんだね…」と揶揄される流行として目に映ります。この30代〜40代の考えていることは、私にとって興味の対象です。

(※追記:この後も興味深いやりとりが続いています)



quagmaさんとicchan0000さんのやりとりは、「"村上春樹"的なるもの」(icchan0000さんの当該記事より)が蔓延る日本の精神的風土とそれへの苛立ちや諦観の表明として、よく理解できる。ここに書かれている以上のことを述べる能力は私にはない。
村上春樹の小説は七〜八割方読んだ。話題作だから読んでおこうというのも半分あった。『ノルウェイの森』を初めとした男女の描き方やセックス描写に違和感を覚えるようになり、『海辺のカフカ』に登場するフェミニストのあまりに定型的な捉え方にうんざりして、読むのをやめた。一人称として語られる「僕」に今いち共感できないということもあった。いくつか印象深い作品はあるけれども、どうも根本的なところで合わない何かがあるのかもしれない。そういう意味で、私は村上春樹の良い読者ではない。
今は村上作品より「"村上春樹"的なるもの」に関心があるので、今回の議論も非常に興味深く見ていた。そして「"村上春樹"的なるもの」とは、font-daさんが指摘した「左翼批判を内面化している30〜40代」の世代の「”村上春樹”風ニヒリズム」であると私も感じている。


今日私は50歳になったのだが、バブル世代のすぐ上の1960年前後生まれのこの世代は、中学高校の頃(70年代)既に三無主義と言われ全共闘世代への反発も強く、かと言って完全にノンポリ化するところまでもいけない中途半端な心情を抱えている人が多いと思う。
その下の60年代後半から70年代世代になると、そうしたぐじぐじした迷いや葛藤があまり見られない印象だ。この世代の青春期に重なる80年代は、相対主義という名の無邪気な「人それぞれでいいよね」主義が蔓延していった時代であり、「"村上春樹"的なるもの」は、たしかにそういう気分と親和性が高い。
もちろんその現象は、私の世代にも20代にも見られるものだろう。ただ、村上春樹の小説が「新鮮」なものとして受け止められ、読者が飛躍的に増えていった80年代に多感な時期を過ごした人の中に、より「”村上春樹”風ニヒリズム」は浸透しやすかったということは言えるかもしれない。


当時の村上春樹の描く小説の風景には、80年代に爆発的にヒットしたウォークマンで好みの音楽を聴きながら眺める街の風景のような感じがあった(この指摘は誰かが既にしているかと思う)。巻き込まれ型で出来事に関わらざるを得なくなっていく人物がよく描かれたが、その小説の受容レベルにおいては、自分は風景に取込まれることも関わっていくこともなく、ただ透明な膜を通してそれを眺め「やれやれ」とか溜息をつきながら通過していく、そんなメンタリティが共有されているようにも感じた。これはなかなか「気分の良いもの」だったのではないかと思う。


村上春樹地下鉄サリン事件を取材して書いた『アンダーグラウンド』で、それまでのスタンスから脱却したと言われた。「デタッチメント」から「コミットメント」へ。以下、Wikipediaに掲載されている本人の言葉。

「それと、コミットメント(かかわり)ということについて最近よく考えるんです。たとえば、小説を書くときでも、コミットメントということがぼくにとってはものすごく大事になってきた。以前はデタッチメント(かかわりのなさ)というのがぼくにとっては大事なことだったんですが」
「『ねじまき鳥クロニクル』は、ぼくにとっては第三ステップなのです。まず、アフォリズム、デタッチメントがあって、次に物語を語るという段階があって、やがて、それでも何か足りないというのが自分でわかってきたんです。そこの部分で、コミットメントということがかかわってくるんでしょうね。ぼくもまだよく整理していないのですが」


村上春樹は非常に注意深いやり方で「コミットメント」している作家だと思う。彼のテーマである「暴力」にはおそらく、わかりやすい権力の暴力も戦争の暴力も左翼の暴力も宗教の暴力もテロの暴力も、ありとあらゆる「暴力」が含まれるだろう。それに押し潰される多くの人々と、「キャッチャー」としての役割を果たそうとする人。閉塞感とほんのわずかの希望。
誤解を怖れずに言えば、これはある意味「世界最強の世界観」である。だからこそ支持を得やすいのかもしれない。


だがそれとは別に(まったく「別」でもないが)、村上春樹の小説には"男の子"の感性にピンポイントで訴えかける実に独特なエッセンスがある。以前自著のエッセイの中で、市川拓司の『いま、会いにゆきます』を批判する際に、村上春樹を持ち出したことがあるので、その部分を以下に抜粋。

村上フォロワー
「ぼく」の文体とそこから醸し出される独特な雰囲気について、少し分析してみたい。
 僕語りを駆使して人気を不動のものとした作家と言えば、村上春樹である。彼の小説の主人公の「僕」はみんな、内省的で知的でウィットに富み、追いつめられていてもスパゲッティを茹でる余裕がある。セリフもいちいち捻りが効いていて、女にモテる。だいたい文体が"クール"だ(と思われている)。
 そういうスタンスに憧れてしまうというのも、まあわからないでもないが、誰でも村上春樹になれるわけではない。
 ‥‥と思っていたら、市川拓司は「村上チルドレン」だという書評家の豊崎由美の指摘に対し、担当編集者が、市川は村上と同じくヴォネガットカポーティの読者ではあるが村上読者ではないので、チルドレンではなく「村上ブラザーズ」だと言ったそうだ。市川拓司が村上春樹を読んでいなかったとは驚きだが、「村上チルドレン」と「村上ブラザーズ」とどれほどの違いがあるのか、よくわからない。
 いずれにしても村上春樹は、外国文学青年が真似たくなる文体の雰囲気を確立している。だからその劣化コピーが蔓延することになり、子どもとか兄弟とか言われるのである。「いま会い」はその典型。
 [中略]
 私の勘では、自分のことを繊細でピュアで少々いわくありげに見せつつ、ああでもないこうでもない、まあいいんだけどねと鬱陶しい語りをしたがるのは、三十代後半のプチインテリ男に多い。そういう男の文体(ブログなどでたまに見かける)は大概、過去に重度の春樹病を患った感じ。
『モテと純愛は両立するか』(大野左紀子夏目書房、2006)*1


ちなみに「村上チルドレン」については、またWikiの解説を引いておく。こちらでは「春樹チルドレン」となっている。

吉田伸子によれば「春樹チルドレン」とは、村上春樹の文体や、センス、世界観に影響を受け、それを受け継いでいる作家たちのことであるという。具体的には、伊坂幸太郎本多孝好金城一紀といった「若手のトップたち」が「春樹チルドレン」であるという。また女性の作家には該当者がいないという。
藤井省三は、中国の著名な女性作家たち、衛慧、安?宝貝王家衛らが「村上チルドレン」であると評している。
朝日新聞社のウェブサイトには「『村上春樹チルドレン』と呼ばれる作家たちが韓国、中国、イギリス、ウクライナなどで次々に登場している」と評する記事「〈ふたつのM-マンガと村上春樹〉世界に根付く自己表現」が掲載された。
豊崎由美本多孝好の作品が村上春樹のフェイクであると論破するにあたって、「村上春樹チルドレンの優等生」という言葉を使っている。
その他には、ミュージシャンのスガシカオ村上春樹チルドレンを自称している。


スガシカオ!自称! そうなのか。
それはさておき、(日本の)「女性の作家には該当者がいない」というのは興味深い。伊坂幸太郎以下の作家を私は読んでいないので判断を控えるが、「村上春樹の文体、センス、世界観」には、ナイーブで少々ナルシスティックなある種の"男の子"(あえてそう呼ばせてもらう)を強烈に魅了し、「病」にまで至らせる何かがあるのだ。
それは村上文学の「本質」とは関係ないと言う人もいよう。もちろん村上春樹の作品を論じるに当たっては、「"村上春樹"的なるもの」などどうでもいいかもしれない。だが村上読者の裾野の方では、y_arimさんが「高2のときに突然彼の小説の登場人物の口調で話し始めた」(後、正常に戻ったらしい)のに近い症状がしばしば見られるのは事実である。高校生や大学生で罹患し、そのまま30半ば過ぎまで持ち越した人も多いのではないだろうか。これは文学作品の「本質」云々より注目すべきことだと、個人的には思っている。
それら「"村上春樹"的なるもの」に、私は時々げっそりする。そして、げっそりしたり苛立ったり諦観したり‥‥という態度すらも、どこか遠い視点から見れば、「"村上春樹"的なるもの」の一部に見えるのではないかと怯えている。

*1:07年出版社倒産のため、ただ今絶版となっています(とほほ)。