タイトルの企み

美術作品によく「無題」とタイトルがついているのはなぜか。
表現とタイトルの狭間-「無題」とは何であるのか -煩悩是道場を読んで思ったことをつらつらと(引用箇所は、すべて同記事から)。

「無題」は芸術の中二病から始まった?

絵画・彫刻に限らず「無題」である理由は概ね以下の通りだ。
1.作家が意図的に表現に題を付けなかった
2.作家は作品を番号で呼称し、題と呼べるものは付けていない
3.作家が「無題」という題を付けた
4.作家は何らかの題を付けたが、題が何であるのかがわからない
5.作家が作品を完成させる前に何らかの理由で制作を中止するなどしたので題が存在しない


美術作品の展示の場合、1 では作家自らが「無題」とつけている場合と区別するために、「(無題)」、あるいは「(タイトルなし)」としているのを見たことがある。美術館で一律にそうかどうかは知らない。
普通は、まず本人か、本人が故人の場合は、取扱いギャラリーなどにタイトル表記の確認を取る。存命中の作家で新作の場合は、企画者側が作家にタイトル表記その他を文書で提出させる。そこが空欄だったら「無題」としていいかどうかの確認も取られるはずだ。
2 は、作家が呼称している「番号」がそのままタイトルとして表示されることが多いと思う。4 は(作家不詳と同じく)「題名不詳」となるのではないだろうか。
5 は特殊な例だが、故人の場合は後で例えば「風景(未完)」とか勝手につけてしまうこともありそう(まあ未完の作品(つまり本人が世に出せなかったもの)を人に見せるのは作家にとってどうか?ということもあるが、資料価値ありと判断されれば公開されるだろう)。

たとえばメッセージ性のある深遠なタイトルをつけ、作品そのものとの相乗効果で自分の創作意図をより有効にアナウンスしよう、とか考えないのかな。
一方、音楽の世界では、「無題」のポピュラーソングってありえない。演劇や文学もそうだ。美術の人だけが、なんだか別の世界にいるような気がする。
タイトルも含めてひとつの作品なのに、自分のかけがえのない作品を「無題」で終わらせるアーティストの心理ってどんなふうなんだろう?

展覧会などで「無題」と書かれている作品群は概ね上記のように分類されると思うので、その作品の背景を知らなければ「何故無題なのか」を知る事は出来ないし、論じる事は出来ない。


「無題」のポピュラーソングは知らないが、『無題』と名付けられたアルバムは結構あるようだ。
文学だと94年の芥川賞候補作品で、『平成3年5月2日、後天性免疫不全症候群にて急逝された明寺伸彦博士、並びに、』石黒達昌 著)という特殊な例がある。もともと題名なしで発表され、単行本化に際して作品の冒頭をとってタイトルとしているらしい。しかし長い。
長いと言えば、この記事のブックマークコメントでちらっと名前を上げられていた、現代美術作家の岡崎乾二郎氏の作品タイトルの中には、まるで小説の出だしのような長いものがある。


「無題」から話が逸れた。
美術で作品に「無題」と名付けるようになったのは、1910年代のダダイスムあたりからだろう。ダリもミロもアルプもマン・レイシュヴィッタースも『無題』という作品を作っている。
ダダイスムには、伝統的なアートの慣習破壊とともに、作品が既成のイメージに回収されることへの抵抗があったので、タイトルを拒んだのだと思う。偶然性による自動書記やコラージュ作品に具体的なタイトルはつけにくいし、モダンアートは絵につきものの額縁、彫刻につきものの台座を捨てていったのだから、従来のタイトルのつけ方を捨てても不思議ではない。
抽象絵画モンドリアンの作品などにも「無題」は見られる。『無題(青のコンポジション)』とか、一応説明付きだったりするが。
当時の作家が最初から「無題」というタイトルを積極的に採用したのか、タイトルなんかつけてなくて発表する際に「じゃあ『無題』でいいや」となったのかは不明だ。世界で一番最初に「無題」というタイトルをつけるという"勇気"ある行為をした作家は誰かと、家にある資料をあたってみたがわからなかった。


ダダでは、詩の分野でも「無題」がよく使われている(ダダに影響を受けた中原中也の詩にも『無題』がある)。もしかすると美術より詩、あるいはパフォーマンスの方が一歩先だったかもしれない。いずれにしても当時「無題」とつけるのが、若くてとんがった芸術家の間では流行だったのだろう。
「無題」、アナーキー。「無題」、アヴァンギャルド。「無題」、クールでカッコいいぜ‥‥みたいな。ダダイストの多くが二十歳代の若者だったし、ダダも意地悪く見ると芸術の中二病と言えないことはない。
ただ、第一次世界大戦が勃発し、ロシア革命が起こり、ペストが大流行し、タンゴやルンバがアメリカから入ってきた1910年代という時代の中でこそ、「無題」というタイトル付けは独特の意味をもっていたと思う。「これまでの芸術におまえらが見ていたような"内容"なんか、ここにはねーよ、ザマーミロ!」くらいの勢いの「無題」なのである。
「無題」のほかでは、「作品」とか「レリーフ」など、「それは言われなくてもわかってる」なタイトルもこの頃からだ。しかし「作品」て。「無題」と同じくらい、取りつくしまがないそっけなさ。


シュールレアリスムでは夢や無意識を扱う傾向が強まり、具体的な何かを表象するものではない作品に付けるタイトルとして、「無題」も受け継がれていった。
戦後になると、「無題」はますます増えてくる。50年代から60年代の抽象表現主義ポロックとか)や70年代のミニマル・アート(ジャッドとか)など。作品が「何か」を表すのではなく、絵画という形式そのものを、更にはアートの「物体」としての存在を際立たせるようになって、「無題」も板についてきた感じだ。


これは検索していて見つけたある大学の西洋美術史(現代)の講義要綱だが、やはり現代美術に「無題」は多い。それも『無題(○○)』としてあるものが目につく。
2003年のクリスティーズで62万6500ドル(約6860万円)という価格を付けられた村上隆のタブローも、『無題(ゴールド)』。これは明らかに狙ってつけていただろう。
正方形のキャンバスを一面金箔で覆ったオールオーバーな「抽象絵画」で、『無題(シルバー)』とセットでの展示を見たことがあった。作品が西欧美術史の文脈を踏まえているのと同様、タイトルもそのあたりを意識している(はず)。


芸大や美大の卒業制作展でも、「無題」がたまにある。「無題」とつけるとカッコいい時代もとうに過ぎたのだが、下手なタイトルをつけるくらいなら「無題」の方がマシと感じないでもない。下手とは例えば、「自我の葛藤」とか「心象風景」とか「差異と反復」(パクリ)とか「或る日」とか「My heart」とかそういうの。
作品のセンスとタイトルのセンスは、だいたい比例している。

言葉と物の緊張関係

絵画や彫刻に何故タイトルが必要だと思われるのか。
それは絵画や彫刻が「それだけではコミュニケーションプロトコルとして伝達可能性の低い表現である」からという無意識に近い考えや価値観が存在しているように思う。


中世のキリスト教美術の場合、表されたものがそのまま聖書の内容を伝達していた。ルネサンス以降も肖像、風景、歴史、静物、寓意など、絵画(彫刻)の意味内容ははっきりしていた。つまり「コミュニケーションプロトコル」としての「伝達可能性」は高かった。もちろんそこに描かれている人や物や出来事の背景を読み解く最低限の知識は必要とされただろうが、リアルな具象表現だから、何が描かれているかは誰にでもわかった。
こちらの解説によると、美術作品に作家自らタイトルをつけるのが一般化したのは、19世紀後半とかなり遅い。つまり近代社会の表現ジャンルの一つとしての狭義の「アート」(何をどのように表現しても自由で、やがて自己言及性を強めた)が成立してから後のことだ。
それより前は、作家以外の人(パトロン、注文主、後世の人など)がタイトルを決めていた。基本的にはもともとどんな美術作品も「無題」だったのだ。中には自分でつけた人もいただろうが、タイトルは単に描かれた(作られた)ものを説明、絵解きする言葉でしかなかった。逆に言えば、作品はタイトル(言葉)の具現化だった。


ところで19世紀後半というと、印象派の時代である。印象派という名称の元となったモネの『印象 日の出』(1873)は、対象の忠実な再現ではない、作家個人の「印象」がそのまま描かれた、当時にしたらひどく"雑"な絵だった。カタログに載せる時になって、作者によってタイトルがつけられている。
単に『日の出』とか『ルアーブルの眺め』だったら普通だが、『印象 日の出』は従来の基準からすると、絵画のタイトルらしくない。それもあって、揶揄する呼称として使われたのだった。


しかし聖書や神話、寓意などのビジュアル表現としての側面が薄れ、テーマが拡散しても、モネを初め19世紀後半のゴッホの絵画やロダンの彫刻は、まだ再現性は保っていた。「絵画や彫刻が「それだけではコミュニケーションプロトコルとして伝達可能性の低い表現である」」と、一般の人に感じられるようになるのは、フォーヴィズムキュビスム、そしてダダが登場した20世紀からだろう。
音楽などはもともと極めて抽象性の高い表現だが、絵画、彫刻は、「対象の再現」という一大使命を写真に譲って以降、大きな転換があったので、一層そう感じられるのではないだろうか(絵画、彫刻が時間軸を持たない表現だという点も、おそらく「伝達可能性」の低さに関係している。拙書参照)。

確かに言葉の持つ力は強い。制作した絵にタイトルを付けたほうが"わかりやすい"のも事実。
だけれども、自分が伝えたい事がタイトルという手段で伝えたくない場合、言葉に内包されるべきではないと感じたとき、表現者はタイトルから離れようとするのだと思うのです。
ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン論理哲学論考の中で「語りえないことについては、沈黙するほかない」と書いていますがまさにこの心境。絵画や彫刻という表現でコンプリートし、それ以上語る事など存在しえない-だから絵画や彫刻という表現の手段を選択しているともいえる-のに、何故タイトルなどという表現を重ねなければならないのでしょう。


ululunさんがどんな絵を描かれているのかは存じ上げないけれども、これは絵画や彫刻を、自律した純粋な表現と看做している人の言葉のように感じた。
「自律した純粋な」とは、作品が外部世界とはいかなる関係も持たず、それ自体で充足、完結しているということ。抽象性の高い作品(欧州にいた頃のモンドリアンロシア・アヴァンギャルド構成主義や戦後アメリカの抽象表現主義やミニマル・アート)は、そうしたものを目指していた。
だからタイトルも番号だけとか「無題」とか「コンポジション」とか、無味乾燥なものがよくあった。それは、絵のタイトルなんか別に芸術表現じゃないし、作品の絵解きでもないよ、という態度の表明だ。


「無題」というタイトルの心証があまりよくないとすると、その"不親切さ"と、そこから僅かに感じられる作家の"独善性"にある。あえて「無題」とつけている人に、不親切で独善的だなどと言うのも見当外れなのだが、そう感じている人は少なからずいるのではないだろうか。
美術館に行くと、絵を見る前にまずタイトルを読んでいる人がよくいる。絵を一瞥してすぐタイトルを確かめ、納得したような顔をしてまた絵を眺める人もいる。見たことのないものを目の前にして、具体的な言葉の説明がないと不安なのだ。人間は、あらゆる物を命名する生きものだから。そこにもってきてパッと見ただけではよくわからない作品に、「無題」とか「作品1−A」とかつけられていると、途方に暮れる。見ることはそこから始まると言われても、無心に見ればいいと言われても、なかなか骨が折れるものだ。
ピカソキュビスム時代の『泣く女』という絵は、そのタイトルを知っているから「泣く女」に見えるのか、作品オンリーもしくは『無題』というタイトルでも「泣く女」に見えるのか、私も判然としなかったりする。
ムンクの『叫び』なんかもそうだ。そのタイトルを知らなかったら、「幽霊」でも「夕焼け」でも「失恋」でも納得してしまうかもしれない。私達は作品をそれぞれ"自由"に受け取っているように見えて、言葉への依存度というものは、思っている以上に高い。


美術は言葉のいらない、言葉を超えたところにある表現だとよく言われる。しかし作品を見て何がしかの感興をもつ時、人は何らかの言語的操作を無意識のうちに行っているのではないか、とも思う。
「○○に似た形だ」「○○のような色だ」「○○のイメージがある」「マティスみたいだ」「シャガール風だ」「繊細だ」「ダイナミックだ」「シャープだ」「味がある」「これは好き/嫌いな感じだ」etc‥‥明確に言語化しなくても、そうした想念が断片的に浮かんでくるのを止めることはできない。よく訓練された鑑賞者でない限り、純粋な抽象絵画を見ても思わず「これは○○のようだ」などとそこに描かれていない何かを連想しながら見てしまうことはあるのでは。*1
では、それは「間違った鑑賞」だと言えるのだろうか。それとも「どう受け取ろうと見る者の自由」でおしまいになる話なのか。どれだけ作家の狙いから乖離していても?


そこで「これは○○のようだ」「○○のイメージがある」という印象を撹乱し、安易な解釈に落ち着かせないために、タイトルがものを言う。
タイトルの意味は、「「わかりやすさ」や検索性」だけではない。作品鑑賞を邪魔しない程度のラベリングと捉えている作家がいる一方で、タイトルの効果を考え抜く作家も当然いる。


こうしたタイトルのつけ方が上手いのは、何といってもデュシャンの『泉』(1917)だ。
「泉」と言えば当時のアート界では、19世紀半ばにフランスアカデミーの大御所として君臨していたアングルの『泉』である。「泉」は古典的な裸婦絵画の別名だった。そんな中でデュシャンは、男性用便器に変名でサインし、『泉』と名付けて展覧会に出した。物と言葉のずれの絶妙さもさることながら、空気を読んでブチ壊すダダイストの面目躍如。
もう一つ思い浮かぶのは、マグリットの『これはパイプではない』(1928〜29)(追記:正式なタイトルではない。コメント参照)
白い背景に端正にパイプが描いてある作品である。どう見てもそれはパイプにしか見えないのに、その下の余白に堂々と書かれているのは「Ceci n'est pas une pipe.」(これはパイプではない)。‥‥パイプの「絵」ではあるけれども。「無題」よりはこういう知能犯の方が、個人的には好みだ。フーコーの同名の書『これはパイプではない』は、マグリットの作品を分析しつつ視線と言葉の関係について論じている。


『泉』も『これはパイプではない』も、作品はタイトルに「内包」されてはいない。「伝えたい事がタイトルという手段で伝え」られているというのとも違う。そこにあるのは、言葉と物、言葉と視線のずれと緊張関係だ。それに気づかせることによって、美術に対する私達の認識の更新を迫っている。
言葉やテキストを扱っている現代アートはいくつもあるが、デュシャンマグリットは「タイトルと作品」という従来型の枠組みの中で、言葉と物、言葉と視線の宿命的な関係を端的に示したのである。


「見ること」において、言葉による概念化は避け難いものだ。タイトルがついていてもいなくても、私達は作品からさまざまな情報を勝手に読み取っている。その視線は文化の影響を被っており、政治化されてもいる。
だから、経験にも観念にも知識にも影響されない"純粋"で"自由"で"無心"な鑑賞というものはない。美術作品本体とタイトルの間に生まれるべくして生まれるのは、それを当たり前のこととした上で切り返し、観客を驚きや困惑の中に宙づりにする企みである。



●付記

ですが、文字の持つわかりやすさと検索性がもたらすのは良い面だけではなく「タイトルが作品から乖離して一人歩きを始める」危険性をも孕んでいます。
「考える人」といえばロダンの彫刻を思い浮かべると思いますが、では考える人の腕はどちらの足の上に置かれているか即答出来ますか?


「タイトルが作品から乖離して一人歩きを始める」のは、有名な作品の宿命じゃないかなと思う。
で、「考える人の腕はどちらの足の上に置かれているか即答出来」るかどうかが、タイトルの「一人歩き」とどう関係するのかが、ちょっとよくわからなかった。腰掛けた膝に適当に肘を置いて手首を顎の下に持ってくると、「あ、『考える人』やってるー」などと言っちゃうようないい加減さがいかんということだろうか。しかし「タイトルが作品から乖離して一人歩きを始める」のは、有名な作品の(以下ループ)。


ちなみに、ロダンの『考える人』は、ダンテの『神曲』に着想を得た『地獄の門』というモニュメンタルな作品の中央上部に位置し、『詩想を練るダンテ』と名付けられており、単体で再制作して発表した時は『詩人』というタイトルだったが、これを鋳造した人が「考える人」と呼んでいたので、やがてそれがポピュラーなタイトルとなったらしい。

*1:よく訓練された鑑賞者は鑑賞者で、「カンディンスキーの30年代の作品か。ブラウエ・ライターの頃より洗練されてるけど装飾的で軽いよなぁ。フランスに行ってからウリに走ったのか毒気が抜けたのか」などと"知識"をバックに作品を見る。これも止めることはできない。