「スピリチュアル!」だったからどうだというの?あるいはよしもとばなな最強伝説(y_arimさんへのお返事に代えて)

id:y_arimさんの一連の記事「【ばなな居酒屋問題?】『人生の旅をゆく』を読んでみた【勝手なことぬかすな!】」(前編、中編、後編)にブコメをつけたら御本人からidコールでお返事を頂いたのだが、メタブコメで言いきれなかったのでエントリを立てることにした。


ブコメのやりとりをしているのは、前編の記事について。記事の中程には「いったいいつの出来事なのかというのがまったく気にされず、かつ、まさに今このときの問題であるかのように扱われていること、そういう風に扱ってしまえる、おそらく本来の読者でもねェ連中の無造作な手つき、そういったものがおれにはとても気色悪く感じられるということが言いたい。」とある。
y_arimさん本人のブコメ

みんなこれ、無意識のうちにごく最近のことと思っていたんじゃね? 何年も前の話だぞ? というはなし。


私のブコメ

3、4年前のことだったとわかって、印象がガラリと変わるタイプの文章ではないと思うが。10年前だとわかっても去年今年のことのように通じる。そのくらい昔から今に至るまである話。


それに対するy_arimさんのブコメidコール省く)

印象が変わる変わらない、の問題ではないんですよ。変わらんから問題ないという無神経さが嫌なんだ


メタブコメでの私の返事idコール省く)

「原典に当たるべき」は一般論としてわかる。だがここでわざわざ主張するからには、引用先の読後感を覆すような何かがあるのかと普通は思うのに、ないのでは?ということを言ってます。


それに対するy_arimさんのメタブコメidコール省く)

省かれた部分まで含めて全部読んで浮かび上がったスピリチュアル視点は、多くの(彼女のことをつゆ知らぬ)論者を瞠目させる程度ではあったみたいだけど。ばななの問題意識についての読み筋は変わるはず。


「省かれた部分まで含めて全部読んで浮かび上がったスピリチュアル視点」について、y_arimさんが言及しているのは「後編」である。「前編」で言っているのは「実は3〜4年前の文章だった」ということだ。私はそれをわざわざ強調する"意味"を問うており、「省かれた部分まで含めて全部読んで浮かび上がったスピリチュアル視点」についてはこのエントリでは(まだ言及されていない以上)問題にしていない。問うたことの軸がずらされているように感じた。


わからないのは、原典に当たらないばなな叩きの人々を批判するのに際して、y_arimさんが「あれは3〜4年前に書かれた文章だった」ことを強調する理由である。
エッセイを買って読まなくても、「よしもとばなな」「人生の旅をゆく」(元となった記事にタイトルが明記されている)で検索すれば、2006年に出た本だということは知れる。そうやってああこれは3〜4年前の話なのだな‥‥とわかったところで、web上で抜粋紹介された文章に反感を抱いた人の心証が覆されるのだろうか。今なら問題あるが3〜4年前なら反感は買わない話だと思えるのだろうか。であればわざわざそれを言う意味もあろうが、そういう種類の文章ではなかったと思う。


飲食店でのああした振る舞いは10年前にも20年前にも見られたことで、蔭で「何様のつもりだろう」「場をわきまえない人だな」と思われていた。それがたまたま超有名な小説家で、しかも自己正当化の仕方があまりな感じに見えたからここぞとばかりに叩かれたのであって、「つい最近なのか何年か前なのか」ということは、ここでは関係ない。
また、そのテキストが書かれた数年後にwebで引用され、「本来の読者でもねぇ連中」、つまりファン以外の人々の様々な反応を呼び起こすことを今更憂えるのも、いささかナイーブに感じる。小説でもそれ以外のジャンルでも、「本来の読者」だけによって守られる聖域などないという状況は、webで可視化はしたがそれ以前に既にあったはずである。むしろそういう「フラット」な状況こそ、よしもとばななが所謂「純文学ファン」の枠を超えて広く読まれるに至った要因の一つだろう。
従って「あれは3〜4年前に書かれた文章だったんだよ!おまえら知らないで叩いていただろ!」ということをいくら言っても、「俺はちゃんと買って読んだぞ」アピール以上の意味はないと思う。



さて、「中編」は、当該エッセイ本から別の文章をいくつか紹介しつつ、「自分に属する物事、体験をことごとく特別視し全肯定するのが「小娘センチメンタリズム」だ」ということを、実証的に言おうとしたものである。
だが一連の記事のハイライトは「後編」の、「小娘センチメンタリズムの成れの果て」とされる「省かれた部分まで含めて全部読んで浮かび上がったスピリチュアル視点」だ。
それについての指摘は、「多くの(彼女のことをつゆ知らぬ)論者を瞠目させる程度ではあったみたいだ」。これは記事に先だって上げられたハイクのブクマ反応を指していると思われる。確かに「なるほどそういう特殊な人だったのか。だからああいう書き方に。納得」といったコメントは幾つも見られる。


だがこの指摘によって、「スピリチュアルの人なら非常識でも傲慢でも仕方ない。批判できない」ということにはならないだろうし、スピリチュアル系への懐疑や忌避感が強まりはしても、よしもとばなな本人に対する違和感や反感が払拭されることはないだろう。
とりわけ、スピリチュアルとかニューエイジとか精神世界とか気とか魂とか癒しとかセラピーとかロハスとかいった言葉や、それが出てくる文脈にいかがわしさを感じている人にとっては、よしもとばななは単に「イタいおばさん」「勘違いした有名人」というだけではなく、この記事によって「どうも/やっぱり胡散臭い人」ということになったのではないか。
y_arimさんは、「別にばなな批判がやりたいわけじゃねェよ」と書いているが、よしもとばななという作家が、活字になったものをweb上で断片的に晒され、呆れられ笑われ珍獣扱いされて面白がられている、という事態には変わりない。むしろそのダメ押しになっているとさえ感じられる。書いた本人の意図とは違うかもしれないが、それがこの一連のエントリの言説効果である。



さておきy_arimさんの中にあるのは、「活字になっているものを対価を払ってきちんと読むこともせず、webに引用された一部だけを見て散々放言している人々の、怠惰さと愚鈍さと傲慢さへの不快感」であり、それはこの件に関しての彼のブコメ発言を見るとよくわかる。


以下、y_arimさんの関連ブコメより抜粋する(ブコメ全文でないものもあり)。
発端となった記事に付けられたブコメは、「「いいときの日本」にはそもそもチェーン居酒屋なんかなかっただろうなあ、ああいう店では馴染み客自体が成立しがたいので融通のきかせようがなく、こういう対応をとるのが最善」。この時点では、店長の対応は仕方ないということで、間接的にせよ、よしもとばななには冷淡な意見である。
しかし翌日は「まあ、ブクマ見て「うわあさましいなこのクソ庶民ども」と嫌悪感催したのは確か。作家のエッセイに、なんか世間的にマトモな意見求めるほうがどうかしてる」と、あまりの作家叩きに嫌気が差したのか一転してばななの味方に。*1
その翌日から「おれむしろ、作家なんつーのはそういうこと言うくらいでちょうどいいと思っているからなあ」「その線で行ったら筒井康隆とか丸山健二とか書き物晒しあげたらどんだけ炎上するんだろう」と、作家という立場の特殊性を強調している。「だいったい作家のエッセイなんてよほどのことがない限り愚にもつかないことが書かれているもんであって、いったい何を期待しているのかと」とも書いている。


つまり「これは作家ならではの感覚であって、一般人の常識的な尺度で批判するなよ」ということだ。「作家だから仕方ない」と。何人が原典読んだのか?ということも何度か書いている。ここには、作品をまともに読まれずにweb上で人格を叩かれまくる作家への同情も感じられる。y_arimさんが紙媒体で書いているもの書きの一人である(がゆえにそちらの立場にシンパシーを抱き易い)ということが関係しているのではないかと思う。


その後y_arimさんは当該エッセイを買って読み込むことで、「よしもとばななが「小娘センチメンタリズムの成れの果て」の「スピリチュアル」の人だったからこそ、ああいう書き方ができたのだ」ということを実証的に述べようとした。長文連続記事でそれをしたのは彼によれば、「ろくに大元のテキストを読まないままに好き放題話膨らませて「ばなな問題」とかぬかして騒いで、ろくすっぽ読んでもいねェばなな批判までやってるのが気にいらなかった」からだ。
ではy_arimさんの「作家だから仕方ない」というそれまでのブコメ指摘は、自分の批判から免れるのだろうか。「ばなな批判」ではなかったものの、それだって「ろくに大元のテキストを読まないままに」書かれたことである。そもそも「作家は「世間的」にはマトモなもんじゃない」とか「作家のエッセイは大抵愚にもつかない」といったステレオタイプな作家イメージだけを彼女に付与することと、「これでばななは読者を失った」と言ったりエッセイに垣間みられる人格を批判することの間に、どれほどの違いがあるのか疑問である。


ある作家への常識人的な批判や反発について、「作家だから仕方ない」「活字になったものを時制を無視して「こっち側」で無造作に弄っている」と作家の立場を擁護する。一方で、「読んでみたらこの人、スピリチュアル系でこんなにトンデモだったわ。ある意味面白いわ」と「こっち側」で晒す。
それぞれについては特にどうとも思わない。が、一人の人が両方やっているとなると、なんとなくおかしな気がしてくる。
結局そこにあるのは、「作家」を一般人の常識レベルに引きずり降ろそうとする非「作家」の「クソ庶民ども」への抜き難い憎悪と、その裏返しの、常に何らかのかたちで「作家」というものを特権化しておきたいという一人のもの書きとしての欲求だけではないか?と。そうならそうとはっきり言えばいいのになと。‥‥‥邪推だったらごめんなさいね。


ちなみに、ある文章の一部しか読まないで判断したり批判したりしてはいけないのか?と言うと、「いけないとは言えない」と私は思っている。エッセイの一部をwebで読んで「この作家はクソだ」と断言してもいいし、上映始まって5分で席を立って「この監督はダメ」と決めつけてもいい。
原典(全文)に当たった方が、より精密な分析や批判はできるだろう。それをしていない批判が的外れになることもあるだろう。だからと言って、その本を全部読んでからしか何も言えない、言うべきではないということにはならない。西洋の諺にも「樽の酒をすべて飲み干さないと『まずい』と言えないわけではない」(ウロ覚え)とある通りだ。


で、そういう判断に対して真に有効なのは、「ちゃんと読まない(見ない)のはそもそも話にならん」「原典に当たらない奴は黙れ」ではなく、「その作品がいかに面白かったか」「いかに重要な作家か」について説得力をもって語ることである。そして「しまった、ちゃんと読むべきだったか」「最後まで見れば良かったな」と、一部だけで全体を批判した人を後悔させることである。そういう人が数多くいて、その論が説得力があればあるほど、一部だけで批判した人の後悔と反省は深くなる(かもしれない)。
だがもしそこまで語れる人があまりおらず、反対に「いかにつまらなかったか」「いかにどうでもいい作家か」という論に説得力があるようなら、その程度のもの、あるいはかなり酷いと看做されているわけだから、結果的に一部だけで批判した人の判断は「その時点で全体が予感できるほど慧眼であった」ということになる(かもしれない)。



最後に「スピリチュアル」の話に戻って。
よしもとばなながもともと「スピリチュアル」の人であることは、件のエッセイにすべて目を通さなくても、またオカルト色を強めているという最近の作品を知ってなくても、初期の作品をいくつか読んでいれば容易に想像のつくことである。
サブカルチャー文学論』(2004、朝日新聞社/2007、朝日文庫)の中で大塚英志は、吉本ばなな(当時は名字は漢字表記だった)がサブカルチャーとして外国で受け入れられていることを指摘しつつ、その作品世界を分析している。以下抜粋。

このように、吉本ばななは自らの小説を外部から隔離された場に成立させている。それは「あの頃」という発端句を伴う純粋な虚構の場である。そこはフォークロア的な昔話が成立する場と同じであり、その内部の時空間も地勢図も現実からは一切、隔離されている。(p.201)

吉本ばななにおける「あなた」と「わたし」はいわば常に治療共同体として存在する。
[中略]
ところでこの「あなた」と「わたし」をめぐる鏡像のような関係は、何故か非言語的な関係として示されるのが特徴で、吉本ばななが描くこの治療共同体に於ては「ことば」は意味をもたないのである。
[中略]
本来なら小説家がことばによる理解を否定するのは取りようによっては小説家としての自己否定である。だが、彼女は確信をもって、あなたとわたしは言葉なしで理解できる、と語る。こういった非言語的コミュニケーションを肯定する感覚は、吉本ばななの主人公がしばしば霊感を感じたり幽霊を見たりするあたりにも見てとれる。
[中略]
理解する、という行為はことばではなく「気配」として記述され、しかもそれは根拠もなく突然、訪れる。まるで周波数が偶然、合ったかのようにメッセージは非言語的なものとして「私」に届けられる。(p.211〜214)


これらの分析を読んでいると、なぜ大塚が「スピリチュアル」という言葉を言わないのか不思議になってくるほどである。喉元まで出かかっていたが、あまりにベタな表現なので避けたのかもしれないと思った。


よしもとばななの小説が伝承文化としての「昔話」に近い、つまり世界中に存在するフォークロアの基本的な説話構造(行きて帰りし物語)そのままであるという点は、『物語論で読む村上春樹宮崎駿』(2009、角川oneテーマ21)でも指摘されている。

ジャパニメーション村上春樹よしもとばななも、それらが容易に世界化するのは、そこに構造しかないからだ、という柄谷の指摘*2は、労せずして海外に伝わりうるのは「構造」の部分でしかない、ということにもなる。「構造」以外のものが伝わらないわけではないが、それはとてつもなく厄介なディスコミュニケーションを乗りこえていく必要がある。簡単に届いてしまうのは「構造」だけだ。だから世界に届く表現など、たいてい「構造」に特化した表現だ。(p.13)


「昔話」(=「構造」)と同じく「スピリチュアル」も「容易に世界化する」ものの一つである。大塚はフォークロア的要素がサブカルチャーの中に復活しているとの指摘をこれまであちこちでしているのだが、70年代後半から80年代冒頭にかけて現れたニューエイジ思想もサブカルチャーの中でよりカジュアルなスピリチュアル系となって拡散し、現在に至っている。「厄介なディスコミュニケーション」なしで「世界に届く表現」*3を二つも備えているという意味では、よしもとばなな最強ということになろう。

*1:確かに、いくら不快でもそこまで言うのはちょっと‥‥と感じる発言はあったように思う。

*2:『終焉をめぐって』(柄谷行人、1990、福武書店/1995、講談社学術文庫)参照。

*3:もちろん大塚英志は、「何も届いてはいないし、届けてしまってはいけないのである」と結んでいる。