「ブスなのに何故」問題

北原みのり|よしもとばなな


よしもとばななの容姿をめぐる自意識についての、北原みのりと友人のBさんの会話がCさんを"誤爆"してしまい、大変なことになったという話。
以下は、例の居酒屋ワイン事件についての「勘違い」エッセイに驚いたという下りの続きの部分。

いやー、よしもとばなな、すごいね。
その安定感は、やはり、父親の名前が大きいからなの?
というようなことを私が言うと、その場にいた女友だち(仮にBさんとします)がすかさず、


「そういう人なんですよ。よしもとばなな。前にエトロのパーティで、全身エトロを着て・・・ええ、もちろん、全く似合っていないんですけど、ピーコのファッションチェックを満面の笑みで受けてたことがありますよ」


と言うのである。なるほど、作家に必要なのは客観的に自分を観る力ではなく、自分に酔える力だ。妄想力だ。よしもとばななの自己肯定感は、父にそっくりな容姿を得た故なのか、それとも得たにも関わらず、なのか。なんだか奥深い、いやー、どんな人だよしもとばなな・・・・と私とBさんは楽しく盛り上がったのだった。


どう読んでも、よしもとばなな=ブス、ブスがおしゃれして積極的に人前に出てるのはイタい、という暗黙の共通認識のもとに交わされた会話である。そりゃCさんは「ブスでデブは大人しく家にいるべきだと言うのか?」と突っ込みたくなるでしょう。何気ない言葉ほど、残酷かつ正しく伝わるものだ。
「そんなこと言ってない」「よしもとばななの自己肯定感の理由が知りたいだけ」というのは、この場合無理筋である。なぜよしもとばななが「自己肯定感」の高さを問われるかと言えば、「ブスが自信満々だと見苦しい」「ブスなのに何故」という見方が世間にあり、Bさんも北原みのりも内心そう思っているからだ。
そこにもってきていくら「女はみんなブス自認している」などと言ったって、Cさんが受け止めたメッセージの意味が変わるわけではない。とはいえ、この際そう言い張る以外に選択肢が見当たらないのも事実。
こういう「違う、違うの!Cさんのことなんか言ってないって!誤解だって!!」という会話、共感をベースとし事を荒立てたくない女性の間ではわりとよくありそうで笑えるが、大抵あとの祭りである。


北原みのりよしもとばなな観は、以下の箇所でも繰り返される。

よしもとばななが一世を風靡した時私は高校生で、美しくない女の小説ってないのかな、ということを考えていた。自分も小説を書いてみよう、と書きはじめたことがあったが、ブスが主人公になるとテーマが深くなりすぎ、結局そこそこキレイな女主人公じゃないと物語がスムーズに進行しないことにすぐに気がついた。女の容姿を徹底的に表現するか、まったく表現しないか、どちらしかないのであるが、自分の容姿にコンプレックスを持ちながら、美しい主人公のことはシャーシャーとは書けないとも思ったり、しかし自分に似たブスな女を書くことは、コンプレックスをだだ漏れする感じがして怖かった。


というような私には、食うために子どもの頃から書き続けた田辺聖子とか、コンプレックスを隠さない林真理子の容姿には何も感じたことはなかったのだけれど、よしもとばななの容姿には、ちょっと驚いたのだ。どうしてこの人は自分の容姿に一言も触れずにいられるんだろう。それどころか、この人の小説に出てくる女の人はみな死にそうに細く、エキセントリックな美人じゃないか。どうして書けるのか? それが才能というものなのか!


ここだけ取ってみると、「うん、才能なんでしょ、作家だし」という話になる。何も、美人とは言われない女性の作家が皆、己の容姿に対する自意識を文章に反映させる必要もないわけで。そもそも、容姿に対してコンプレックスが強くなりがちな思春期に、「ブスが主人公」の小説を書こうと思っても、普通はよほどの才能と強いモチベーションがなければ難しい。
しかし北原みのりがここで言わんとしているのは、最初に引用した箇所と合わせて考えれば、「自分の恵まれない容姿に一言も触れずに美人を描けるよしもとばななの作家としての才能、すごいですね!」という賞賛ではない。「あまりに「自己肯定感」が強く自分の容姿への「妄想力」が高く自分に「酔える」から、コンプレックスに苛まれることなく美人を描けるのかもね(ファッション・チェックに出られたように)」ということだ。
これは作家に対する言葉としては相当キツい。よしもとばななのファンではないが、そう思う。それに彼女の小説の主人公って、みんなそんなに美人として描かれていたっけか?(という疑問はブコメにもちらほら)。

「そうです。私もブスです。女はみんなブスです(意味不明)。なのに、なぜよしもとばななさんは突き抜けていられるのか、それが、わからない」(しどろもどろだ)


「みんな」と一緒にしてはいけませんって。普通の女とは違うんだって。しかも作家だし。
容姿コンプレックスを堂々とエッセイのネタにして売れた林真理子以降、「ブス自認」は同性の共感を得る戦略として広く行き渡った。しかし、よしもとばななはそんな下世話なレベルの"女の共感"など眼中にないに違いない。「ブスならブスらしく容姿コンプレックスの一つも書けば共感されるのに」といった凡俗の眼差しが全然届かないところに立っている。だからこそ、ああいうぶっとんだエッセイも、スピリチュアルな小説も書けるのだ。自分と同じところに引きずり降ろして理解しようとしても無駄なのだ。


なんかよしもとばななを擁護しているのかケナしているのかわからなくなってきたが次。
CさんとBさんのやりとりがヒートアップする中、北原みのりは呟く。

「私は・・・そんな、よしもとばななが・・・うらやましいですっっっつ!!!」


そのとたん、空気が一瞬変わった。パチン! Cさんが、キラッ! としたのである。
「うらやましいの? あ、それなら意味がわかる。うらやましいのね。そういうことね。だったら、わかります。」


ブスへの差別発言と思っていたが、なんとそれはブスへの羨望であったと。Cさんはそう捉えて傷ついた自尊心を満足させ、追求の手を引っ込めたように見える。あたかも、「ブス自認」している人がどれだけ承認に飢えているかを暗に示した場面のようでもある。
ただ、この文脈で「よしもとばなながうらやましい」とはどういう意味かと言えば、「ブスなのにブス自認してなくて脳天気でいいわねあの人は」ということになるのであって、Cさんにしてみたらポジティブに反応したらいいのかネガティブに反応したらいいのかは微妙なところだ。
しかしCさんは、「もうここらでおしまいにしたい‥‥けど、今更引っ込みがつかないし困ったなぁ」と思ってたところに意外な発言があったので、渡りに船とばかりに議論を終わらせたのかもしれない。そこんところはよくわからない。
最後は、「美人で頭のいい女友だち」の登場する後日談において自己のダブスタを描き出すことで、それまでよしもとばななに向けていたいささか意地悪な視線を相対化しバランスを取っている。手堅い。



人の文章についてあれこれ言ってる私も、「容姿を売る仕事をしていないがメディアによく登場する女性有名人」について、やはり「ブスなのに何故」問題(問題設定そのものが失礼という)の記事を書いたことがあったのを思い出した。


谷亮子について考える
谷亮子について考える2


ブログを始めたばかりで一日のアクセス数100〜200の頃、この二つの記事を上げたらいきなり二日で一万近いアクセスがあり、コメント欄は賛否両論で炎上し(後にはてなダイアリーに記事だけ移動したので当時のコメントは読めない)、熱烈な谷亮子ファンから怒りのメールが来た。
谷亮子に対する違和感を追求していくうちに、とうとう"降参"せざるを得なくなった‥‥という記事だけど、そこまで読んでくれた人は少なかったっけな(女が女の容姿について書くのは難しい)。



●追記
ついでなので、拙書『モテと純愛は両立するか?』(2006、夏目書房)の中の「ブスに純愛は可能か」の章から抜粋して貼っておきます。

 ブスゆえにモテない女から皆が目を逸らす。この社会の「平等」は、ブス差別の上に成り立っている。
 だから、女が恋をした時に気になることは、「私の顔は相手に好ましく思われるだろうか」ということなのだ。この顔に自分の顔を近づけてキスするのは、まんざらでもないと思ってくれるだろうか。チラとでもそう思わない女は、至近距離でも自信のある美人を除いていない。
 そこで普通の女は、陰で並々ならぬ努力をする。少しでもマシに見えるようスキンケアや化粧や表情に気を遣う。心さえ美しければ容貌も好かれるであろう、などというのは、現実の前には虚しいきれいごと。
 せこい努力の結果で満足できない女は、美容整形に走る。きれいになって自信がもてたら、恋にも積極的になれるはず。キスもこわくないはず。たぶんそれは真実だ。自分の容貌に自信がないと、好きになった相手の目を正面からまっすぐ見つめることすら、ままならないのである。美人にはなかなかわからない心境であろう。
 たとえブスでも、人前で堂々と胸を張っていられる肚の座った女であればいい。が、もし隣に聡明そうな美人がいれば、胸を張りながらも「私はこんな顔だけど、心はきれいよ」とか「顔にあまり現れてないけど、実は健気な女よ」と心の中で言い訳しないではいられない。
 そういう言い訳は、なるべくしたくないものである。自分が惨めになるからである。いつか容貌に関して何の言い訳もしないで済む世の中になってほしいと、容貌に恵まれない女は心から思っている(私のことだ)。

 
 それなら男だって同様だという意見はあろう。しかし、男と女を対称的に見てはいけない。男は金や地位や秀でた能力さえあれば、一応一目置かれるものであると、昔から決まっている。金の力で美人を侍らすこともできたし、手八丁口八丁で美人をノックアウトすることも可能だった。あの頃のホリエモンを見よ。
 見た目全然パッとしない男が、不釣り合いなくらいの美人を恋人や妻にしているというケースは、ちょくちょく見かける。男が財力と権力で女を獲得してきた昔から。しかしその逆は少ないだろう。
 男が思っているほど、女は男の外見を気にしないのだ。そりゃモテるのはイケメンであろうが、イケメンというだけでは尊敬されないし、真剣な恋愛をしたいとも思われない。金さえあればどんな顔でもという女は少ないだろうが、中身に興味を持てたら多少不細工なくらいの男の方がセクシーに見えるという女は結構いる。
 一方、女は常に美醜で判断されてきた。ブスな女は昔は「これでは嫁の貰い手がない」と嘆かれ、どんなヒヒオヤジのところでも黙って嫁がねばならず、その次には「器量が良くないんだから、一生懸命勉強していい学校に入ってちゃんとした仕事に就くんだよ、男なしでも生きていけるように」と言われたものである。
 そして頑張って財力や地位を得たり、仕事で高い能力を発揮したり、才能を世に問うていたりしても、「でもあの人ブスじゃん」という言葉を耳にしたが最後、女の心の奥で何かが崩れ去る。崩れ去ったことは表には見せぬが、ブスの一言で片付けられるのは努力してきた女にとってあまりにもやるせない。
 ブス、ブスと書いていてだんだん気が滅入ってきたが、この言葉ほどヤワな女の心を一瞬にして打ち砕くものはないであろう。それはおそらく、男がブサメンだのキモメンだのと言われる以上の破壊力を持っている。
 それもこれも、女がいかに容貌で判断される場面が多いか、ということなのである。どこまで行っても女は、ヒトではなく「女という種」において、外見を比較されざるを得ない立場。
 そんな万年逆風の中で、ブスゆえにモテない女は、いったいどこに行けばいいのか。一生片思いで暮らせ? 純愛などは諦めて、「男」として生きていけ? それはあまりに酷な話である。


●当ブログ内「美人」関連記事
負けた美人の起死回生
美人で何が悪い
美人○○と女性○○
美人○○に潜在する女性恐怖