女の「男ウケより女ウケ」をめぐって

プロの仕事評価

はてな匿名ダイアリーにて、「女のファッションと男ウケがどうのこうの」という反応があったので、それについて。


まず、なぜこの意見が匿名ダイアリーに書かれるのか、コメント欄というものがあるのになあ‥‥と単純に思うわけだが、誤読されている可能性もあることを念頭において改めて言うと、前回のエントリの主旨は、「誰でも男ウケのために服を選んでいる」ではない。
ファッションはそれがジェンダーロールに忠実であろうとなかろうと、性的記号として機能する。そのことを私達はよく知っているだろう?という話である。服を選ぶ際に個々人が何を考えているかということは、その上での各論、あるいは表層的な問題だと私は捉えている。
従って、「男の目は特に気にしないけど同性の目は気になる」と言う女性がいくらいても別に不思議ではないし、その逆の「女の目より男にどう見られているか気になる」(という声は今のところ表立って聞かれないが)と思う女性がいたとしてもまた不思議ではない。私は、後者は正直で前者は嘘をついていると言いたいのではない。どちらも個人的な実感としてはありだと思う。


だが上記の匿名さんのように、「女は、男の目より女の目の方を気にするもんだよ」という女性の意見はよく見られる。
異性と会う時より同性と会う時の方がずっと気合いが入るとか、男ウケなんてほとんど考えないという意見もあった。最初、「男の前では手抜きファッションでもそれなりにモテるから、無理してウケ狙いする必要もないんだよね」ということかと思ったが、そういうニュアンスでもなさそうだ。


「自分のため」とは言いつつも、オシャレは社会的なものである。男性より女性に美しく着飾ること、外見の美が求められてきた過去を振り返ると、オシャレは女性にとってほとんど「仕事」の域にあったと言ってもいい。
だからたとえば、髪は束ねっぱなしで着古した流行遅れのブラウスにウエストがゴムのスカートなんか穿いている女(というのも最近は滅多に見ないわけだが)は、哀れみと非難の目で見られてきた。女のくせに、なんで真面目に「仕事」しないのかと。


社会的に要請された「仕事」も今や、「自分の楽しみのためだ」と思わせてくれる環境ができあがっている。楽しむためには、それなりの勘の良さとトレーニングを必要とする。それらを身につけたある程度オシャレな人なら、オシャレがよくわかってる人、センスのいい人に自分の服装を褒めてもらいたいと思う。
そこで、ちゃんと工夫や努力の成果を見て、「そのジャケット、パンツと合わせるとかわいいね」とか「配色のバランスが新鮮」とか「アクセサリー使いが上手い」とか評価してくれるのは、圧倒的に同性である。女性のファッションについては一般に女性の方が詳しいので、相対的に女性の方が感度が高くなるのは当然だ。
男性は、よほどのオシャレさんは別として、そこまで女性ファッションの詳細がわからない人が多い。疎い人になると、「スカートはいてピンクの口紅つけてりゃ女らしいくらいに思ってるんでしょ」とオシャレな女性からバカにされる。男の褒めるファッションは所詮、わかりやすい「女らしさ」を定型的に表しているものに過ぎないだろうと。
つまり、男に褒められるのなんか簡単。簡単なことはつまらない。
だからオシャレを愛する女性は、より審美眼の優れた同性の評価を求めるのだ。「仕事」してないやる気のない人とは仲間になっても張り合いがないし、「仕事」の価値を理解しない人は相手にしたくない。「仕事」のできるプロフェッショナルな人に一目置かれたい。
それは健全な被承認欲である。絵のうまい人が、近所のおばちゃんに「たいしたもんだね」と言われるより、プロの絵描きに認められたい、プロをも嫉妬させたいと思うのと同じである。


しかし件の匿名記事において、
「男ウケはするが女には全くウケないファッションと、女ウケはするが男には全くウケないファッションがあったら迷わず後者を選ぶ」
とまで書かれているのはなぜか。
ことわりがないのでこの人はヘテロという想定でいくが、なぜ男に好感を持たれることを一切断念してまで、同性に「好かれたい、認められたい、尊敬されたい、羨ましがらせたい」のだろうか。

潜在する男の眼差し

話は一旦飛ぶが、優秀な男性を巡って女性達が美しさで張り合うというのは、過去延々と続いてきた歴史である。
美人は何かと「得」であった。ブスの烙印を押されたら嫁にも行けなかった。そこで、素材がどっこいどっこいの多くの女は、化粧や服で競い合った。
競い合える他の手段(たとえば優しさとか知性とか人間性の高さとか)を手に入れても女性がオシャレをやめなかったのは、多くの男性にとっては外見の美が何より雄弁であり、そこを完全にスルーできる男性はいない、という事実を知っているからである。


その歴史が長いために、というかその事実があまりに重いために、女性は他人と自らを差異化できるありとあらゆる「美」の追求にいそしんできた。
平凡な「美」だけで満足できない一部男性も、そこに加担してきた。
その結果、「美」のレースは、ついていけない男性達を置き去りにして難解なゲームに突入しているが、元をただせば、男性を巡って女性が(生き残りをかけて)外見の美しさを張り合う戦いから始まったのである。同性のライバルに認められるレベルに達しないことには、戦いに参入もできないのである。


ここで一番嫌われるのは、戦いから降りた「仕事」をしない地味な女ではない。オシャレなどしてなくても、持って生まれた素材の抜きん出た優秀さで他を圧倒してしまうような美人である。
どっこいどっこいの人達が張り合いつつ互いの努力とセンスを賞賛し合っているところに、「オシャレ? 別に興味ないわ」といった風情のとんでもない美人が現れて、ファッションの機微のわからん男達の注目を一身に集めてみたまえ。自分達のしていることが一瞬虚しく思えないか。いや、こんなに「仕事」ができるのに、なんで男はそれがわからないかと、ますます愚鈍な男達を疎んじたくなるかもしれない。
私のセンスや努力を理解しようともしないで、安易に目先の美人に行く男なんかどうでもいい。
だいたい美人ったって、たまたま生まれつきそうなだけで、何の努力もしてないじゃん。オシャレの愉しみも知らず、センスを磨こうともしてない怠け者じゃん。メークもファッションも高度な娯楽です。知的ゲームなのです。すっぴんで裸が私の一番のオシャレだと? だったら素っ裸で歩きなさいよ、この原始人! 


オシャレ好きの努力型プロフェッショナルな人、同性同士で互いの「仕事」の成果を褒め合うことを好む人は、努力しない「天然」を嫌う。「天然」の美人は、女のオシャレ共同体において横紙破りな存在である。
とは言え、美人に罪はない。かといって「仕事」をわかってくれない男性に、レベルを落として歩み寄るなど、自尊心が許さない。男ウケするようなわかりやすい「女らしさ」で男に好かれても、そんな安い(所詮は俗情に基づいた)評価など、女同士で培った「仕事の絆」に比べたら、吹けば飛ぶようなものである。


しかし物語ではしばしば違うことが描かれる。
映画でも漫画でもいいが、いかにも男ウケしそうなフェミニンな格好のモテ女と、オシャレだけど男に媚びない格好の女とが現れるパターンがある。それぞれの性格は、わかりやすく外見に現わされているとしよう。
そこで二人の間に立つ主人公の男性は、最初前者に惹かれ後者とは反発しあうのだが、最後は後者を見直して選ぶという展開になる。その時、女性達は自分が選ばれたかのように喝采する。
こうした、自分の趣味や主張が男に理解された上で選ばれたいというのが、最終的に大方の女性の望むところではないか。
あるレベル以上のわかっている女性に好かれ憧れられる自分を、承認する/できる男性の眼差しを、どこかで求めているのではないか。「男ウケか女ウケか」という二者選択の問いを立てずとも、両方にウケればそれが理想である。


どんな男に嫌われても全然平気という人はあまりいない。よほど嫌いなタイプは別として、できれば友好的な関係を作りたいものだし、好みのタイプなら積極的に気を惹きたいものだ。
そうした場面では、自分の趣味ばかり主張せず、時には相手が喜びそうなオシャレをしようとしたりもする。「この人を喜ばせたい」というのが恋の始まりである。そして行きつくところ、ファッションセンスがどうこうなど、問題にはならなくなる(セックスではどうせ裸になるからという話ではないよ)。


でもそれはやはり、限られた特別なことである。いつくるかわからないそうしたイレギュラーな場面と、日常的なオシャレの愉しみや女同士の絆とどちらが大切か。
ファッションに限らず、男ウケを目指して得るものと、同性ウケを目指して得るものとの多寡、リスクとリターンを、おそらく多くの女性は一度は考える。
自分の愉しみを諦め同性の支持をなくしてまでウケたい男はそういないし、もしそこに賭けて美人に負けたとしたら元も子もない。
「男にはわからない楽しいオシャレ共同体」で、いずれ男を巡ってライバルとなるかもしれない同性からの尊敬と憧憬と信頼を得ておくことの方が、ずっとリスクが少ない。ナルシシズムを満足させ被承認欲も満たせるのだから、性欲(愛情)関係を別にすれば全然問題ない。


「男ウケより女ウケ」と言う時、男の眼差しが完全無視されているのではないのだ。それは、男を巡って「美」で闘う古典的タイプの女に意識されているようには明快ではない、捩じれ変形した形で潜在している。そのことを前回、「同性ウケにおける無意識としての異性ウケ」と言ったのである。
「男ってこういうのが好きなんでしょ。はいはい、適当に合わせておいてあげますよ」と、何のこだわりもなくやれる女性は、いかなるファッションにもオシャレ共同体にも無関心だろう。


●追記
関連エントリを見たが、今回の一連の議論は、ファッションを楽しんでいる人、興味のある人と、楽しめない人、無関心な人とでも、捉え方語り方が違ってくるなあとつくづく思った。
前者は、ファッションをジェンダー観点以外からも、いろいろ肯定的に語れるコードを持っている。興味があれば当然だ。
しかし後者はオシャレ自体を「強制」と感じるから、そんな観点まで持てない。それで、「女だけがオシャレするもんだったけど、男にまでそれが要求されて困ったよ」という話になる。
私はファッションに比較的関心があるから、語りたいことはいろいろあるが、今回は趣味嗜好の開陳は差し控えたいと思った。また身体性と衣服の話なども、アートやサブカルや思想と絡める話も、今回の議論からは外れるので、とりあえず避けたい。
この議論の核心は一貫して、ファッションをめぐる構造化されたジェンダー的眼差しの話である。


女性をコルセットから解放したココ・シャネルのデザインした直線的なスーツは、当時ウエストを絞り胸を強調した服に見慣れた男性には「女らしい」とは映らなかっただろう。しかしそれが洗練された美しいものとして広く認知され、やがてシャネルスーツは「女らしさ」の象徴服となった。
ファッションくらい自由で各自が好きなもの着て楽チンだったらそれでいいのに、必ずしもそうはいかない現状がある。
優れたデザイナーの仕事があり「個性」が謳われる一方で、同じ服が大量に売れ雑誌に若者が右に倣えしている。昨日も街で十人以上のジーンズ短パン+黒のオーバーニーソックスを見た。大流行だ。しかし一年後にはもうダサいよねということになっているかもしれない。
消費とは残酷なものだ。それとジェンダー的眼差しとの関係はどうなっているのか。
私はそういうことに興味がある。