『嗤う伊右衛門』に見る醜女の意地

北原みのりのエッセイが前提にしているであろうことを解説的に書いただけの先日の記事に、思いがけず100もブクマがついてびっくりだ。美人だブスだという話になるとムズムズする人が多いのだなぁと思いました(っておまいさんがその筆頭だがな)。


「男に比べて圧倒的に女の方が容姿を云々されてきた。明らかに非対称性がある。女は男に比べて、美しいかそうでないかに敏感にならざるを得ない傾向がある」というのは、幸か不幸か厳然たる事実である。しかしそれを改めて指摘すると、「世の男性はそんなに女性を外見で選んでるかなぁ」とか「一部の男の声が大きいだけ」とか「容姿を必死で気にする人は美しく見えない」という意見が必ず出てくる。
では、それをもって厳然たる事実が覆されるのか? と言えば、されない。だから突っ込みとしての意味はあまりないんじゃないかと思うわけです。あ、一言言いたい気持ちはよくわかります。*1


世の中の男性の多くは、「いくら性格が良くても話が合っても、あまりに容姿がアレな人は‥‥。正直言ってブスは勘弁」と公然とは言わない。そんなことはっきり言ったら、周囲の女性から「鏡見て言えよ」とか「女の顔しか見てない馬鹿」とか思われて嫌われる。
「外見もそれなりに気にはするけど、やっぱり中身ですよね」「本当の美しさは自然と滲み出てくる」などと当たり障りのないことを言うものです。普通は。


書籍からの引用についてはブコメid:font-daさんが、「最後の引用部に関しては「君がどんな顔してようと好きだよ」って言い合うのが恋愛じゃないの?と思った。」と書かれていた。
なるほど。そういうことを言い合う恋愛もあるのだろう。私自身は実際に言われたことも言ったこともないが、恋をすると顔も好きになる、良く見えてくるということはあるかなと思う。*2
しかしまだ中身をよく知らなくて、容姿を見た段階で「あ、ダメだ。これは絶対ダメ」ということもないわけではない。というか、そういうケースは結構ありそうだ。そこを突破することはできるのか?というのが、この「ブスに純愛は可能か」のテーマだった。


そこで、京極夏彦の『嗤う伊右衛門』(1997、中央公論社)を取り上げた。第25回泉鏡花文学賞受賞作品。読んだ人も多いかと思う。
この小説に出てくる民谷岩は、醜女な上にぶっきらぼうで頑固者で気位が高く内に激しい気性を秘めた女として描かれている。その"烈女"の岩を、(四谷怪談の原作とはまったく異なって)伊右衛門は最後まで想い続ける。いったい何故? 
以下、拙書から解説の部分を抜粋(ネタばれあり)。

 伊右衛門と言えば、あの四谷怪談に出て来る岩の夫だ。怪談の方では若い娘梅と浮気をし、邪魔になった妻の岩に毒薬を飲ませ、彼女の顔を醜く崩れさせてしまい死に追い込んだ人非人。もちろん恨んで化けた岩に苦しめられることになる。
 しかし『嗤う伊右衛門』では、最初から顔が醜くただれた異形の岩が登場する。昔は美しかったが、服用していた薬のせいでそうなってしまったのである。美人がブスに転落するのは耐えられないものがあろうと想像するが、彼女はもともと化粧もしないナルシシズムとは無縁の女。その岩と、伊右衛門は結婚する。
 彼はあらかじめ岩の顔がいかに醜いか聞かされても、「容貌など、なんの障りにもならぬと存じます」と、恬淡として言ってのける。フェチ目線で女を見ない、実にあっぱれな態度である。まあきっかけは純愛ではなく見合い結婚だから、ある程度割り切っていたとも考えられる。
 気性の激しい岩と不器用な伊右衛門との結婚生活に、甘いムードはない。お互い誠実であろうと努めるが、ささいなことで心ならずも夫婦喧嘩が繰り広げられる。
 そこにつけこんだ地元の権力者伊東喜兵衛の悪辣な罠にかかって、彼らは離縁に追い込まれ、伊右衛門は喜兵衛の子どもを妊娠している妾の梅を押し付けられる。
 喜兵衛はかつて岩に袖にされた腹いせに、薬屋に手を回して毒薬を売りつけ岩を醜女に変えたにも関わらず*3伊右衛門と結ばれたのが気に入らないのだ。しかも権力を利用して伊右衛門を威嚇し、人妻となった梅をまだ妾扱いする極悪人。
 独り身となって伊右衛門の幸福を願っていた岩は、彼の不幸を知って激昂のあまり大暴れし、そのまま失踪、祟り神となったと街中で噂される。
 梅は岩の「亡霊」に怯え、伊右衛門に執着するあまり、自分の子を密かに殺害。最後にすべてを知って堪忍袋の緒が切れた伊右衛門は、ついに喜兵衛と梅を斬る。
 そして後に、廃屋の棺の中から発見されるのは、ほとんど骸骨となった岩の遺体を抱いて自ら餓死した伊右衛門伊右衛門のその最期の選択で、愛情表現は下手であった彼が、苦境の中でずっと岩を思って生きてきたことが示される。
 

 伊右衛門が岩の風貌を気にしなかったとは言っても、醜いものが美しく映ったわけではない。醜いことに内心同情し、そういう態度を岩に見抜かれてたじろいだりしている。
 岩も、自分が醜いということは重々知っている。普通の女には許される媚びが、ブスには許されない。道で目の合った人に岩が微笑みかければ、相手は気味悪がって逃げ陰でクスクスと笑う。外見が圧倒的に不利な立場で、一人の女として自分を見ている身近な男の目を、まったく意識しないでいることはできないだろう。
 だから岩は、初夜の床で伊右衛門に偶然顔を触られて、思わず抵抗したりもする。このただれた顔に触れられるのは恥ずかしい。強い女である彼女も、そういう普通のヤワな心をどこかに抱いている。
 岩の気性の激しさや、スジを曲げない頑固さや、毅然と伊右衛門を見返すまなざしは、生来のものだ。しかし彼女の正しい態度、見返すまなざしの底にはさらに、「ブスである」という女にとって致命的な弱みを、弱みとして見せまいとする意地がある。
 後追い自殺するほど伊右衛門が愛したのはその、ブスであるがゆえの女の気高い意地である。
 最下層に転落しても、卑屈になることなく胸を張っているブス。「見られる女」ではなく、「見返す女」であろうとしたブス。でも夫に触れられ、羞恥心をふと見せてしまったブス。
 そうした彼女の存在まるごとが、男の心を捉えたのである。


で、「ブスに純愛は可能か」という問いへの答はこの後に書いています。興味のある方は本のほうを読まれたし。

モテと純愛は両立するか?

モテと純愛は両立するか?

↑出版社倒産につき絶版となっているので、古本でどうぞ(内容紹介はこちら)。
嗤う伊右衛門

嗤う伊右衛門

↑文庫でも出ています。ストーリーを知っていても十分に楽しめます。傑作。

*1:追記 : ブコメで、「どちらも反証不能な言い合いにしか見えん」とありますので補足しておきますが、「世の中の男性〜」以下の意見を間違いだとは言っていません。レイヤーが違うということです(だから反論にならない)。私の書いた「傾向」は社会、環境を見渡してみれば明らかにあります。仮に一部で異なる現象があったとしても、全体の傾向として逆のことは言えません。

*2:追記 : 容姿から入るということも当然あって、どっちが先ということは言えない。美人は三日で飽きるがブスは三日で慣れるとかいろいろ。

*3:これマチガイ。毒を盛ったのは別の人物(ということにものすごく後で気づく。間抜け過ぎる)。ですが本当のことを書くとネタばれ過ぎるので、伏せときます。