どうしてメイクやおしゃれがやめられないのか

ミスコンは画一的な美の序列化だとして批判される。美とは多様であるはずだと。ナンバーワンよりオンリーワン
たしかにミスコンを見ていると、決まりきった女性美を産出しているようにも思える。顔(ヘアメイク込み)もわりとそうだが、スタイルに関してははっきりと方向性が決まっている。
もっとも常に/既に、女はそうした美の元に序列化されている。ミスコンは公にやってお墨付きを与えているから目立ち易いというだけで、日々あらゆる場面で人はオンリーワンよりナンバーワンの結果を目にしている。
個々のもつ美人のイメージが、そうした一般に流通する女性美とぴったり合うとは限らない。だがまったく影響を受けてないわけではない。そして、時代や流行によって多少異なるとは言え、外見が一定の条件の中にある人を「美人」と呼ぶのだから、それが画一的な傾向になるのは避けられない。*1
序列の上の方にいる美人は消費を生み出すから経済効果も期待されている。「美人」と言われる人をロールモデルとする、お手本にしてヘアやメイクやおしゃれを頑張るということは、女の間で普通に行われている。男も女も美人が好きだ。


ミスコン問題の肝は、単に「画一的な美の序列化」ではなく、モデルや女優など美が要請される職業の女に限らず、すべての女が美しいか否かで比較、判断されるという事実をあからさまにしたところにある。ミスコン優勝者からモデルや女優への転身を図る人が現れて、逆にますますそれは明確になった。
能力があるのに差別があって男性と同じ報酬が望めないから容姿だけでのし上がる、という人は別だが、大方の女性は容姿が特別重要な仕事には就いていない。そして容姿が特別重要でない限り、モデルや女優のように外見を磨き上げる必要はない。
そこに手間と時間と金がかかることにより、肝心の仕事や勉強にかかる手間や時間や金が削られるとしたら、その方が問題である。仕事や勉強に十二分に手が回らなくなり、同じ仕事や勉強に邁進している男性との間に開きが生じ、どこかにしわ寄せが出る。人より短時間、安上がりで高い成果を上げられるような人でない限りは。
「いつも美しく、しかも(男性と同じように)デキる」が現在の働く女性の理想らしいが、そんなことは本当は無理なのだ。
しかしミスコンは「普通の女性だって頑張ればこんなに美しくなれる」というメッセージを発し、美容業界はそこに乗っかりメディアが喧伝し、今では小学生向けのメイク用品が出るまでになった。


メイクなんかいくら頑張ったって、土台が違ったら所詮無理という現実がある。だが「女は皆美しく」教がここまで浸透している中、使用前と使用後がちょっとでも違って見え、それをちょっとでも褒められたりすると、もっとやってみたくなる。そして、メイクやおしゃれをしてない人の方が目立つようになってしまい、ますますしなけりゃならないはめになる。
私の授業でのアンケートによると、「女としてプラスだと思ったことは何ですか?」の第一位は「メイクやおしゃれが楽しめる」だった。しかし「女としてマイナスだと思ったことは何ですか?」の中よりやや上に、「メイクやおしゃれに時間がかかる」「(同)お金がかかる」が上がっていた。
彼女たちの気持ちはよくわかる。私も「男はいいなぁ、化粧しなくて済むし、化粧落とさなくて済むし、そもそもあれこれ買わなくて済むし。服だって女よりバリエーションが少ないからそんなに悩まなくて済むし。男はいいなぁ、仕事ができさえすればいいんだもの基本的には。女は損よなぁ」とブツブツ言いながら、じゃあその手間と時間と金のかかることをスッパリやめるのかと言えばやめず、面倒がりながらムダ毛の処理をし、新しいマスカラを試して「お、これはちょびっと目が大きく見えるかも」などと喜んでいるのだ。


30年もそんなことをしてきた。いったいどれだけの時間を使ったか。一日30分平均でそういうことに費やしたとして一年で約182時間、30年で5460時間、実に227日半。‥‥‥だってやらざるを得なかったんだもの。金についてはもう計算するまい。
それで得たものは何だろう。よくわからない。漠然とした「安心」を買っていただけのような気もする。結局歳取ったら同じだ。そんなことしている暇に、もっと勉強し、もっと本を読み、もっと知的体力をつけていたら、今頃後悔しないで済んだのに。
‥‥‥と、自分の勉強不足を「女は皆美しく」教に洗脳されたせいにしてみた。
以前、「食事がワリカンなんて不公平。女は見た目にお金かかるんだから男が奢るのが当然」という考え方を批判したが、自分も同じだ。



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*1:メディアでいろいろな美人たちを見ていると、ミスコンほどではないが、ある種の類型が見えてくる。不幸な家庭は様々だが幸福な家庭は皆似ている、とか言うのと同じように、ブス(と言われる人々)には様々あるが美人(と言われる人々)は皆どこかしら似ていると思う。いや美人以外は非常に多種多様だが、美人な顔には条件がある。それは、単に目が大きくて二重とか、鼻筋が通っているとかいうパーツの問題には還元できない。目鼻立ちのバランスか?ややアンバランスだけど美人という人もいる。美人とそれ以外の人を分つものは何か、美人でない私は長い間考えた。結果、それは「輪郭」ではないかという結論に至った。正面、斜め、横、後ろ斜め、上から、下から、あらゆる角度から見て整った輪郭、つまり造形的土台を持っている人は、大抵美人と呼ばれる。これを発見した時、自分がどう頑張っても美人になれないことがよくわかったのだった。美がどんなに多様性を獲得しても、ブスが美人に、美人がブスに見えるようになるわけではない。