戦いの中で下がる男、上がる男 - 『人情紙風船』


『人情紙風船』(山中貞雄、1937)
私ごときが今頃あれこれ言うまでもない、恐るべき傑作である。山中貞雄がこれを撮ったのは若干27歳。私ごときが今頃あれこれ言うまでもない、天才である。
あまり知らない人が多いと思うので(私もだいぶ前にBSで放映するまで未見だった)あらすじを紹介したいのだが、案外複雑なストーリーでなかなか手際よくまとめられない。検索してあちこちを見ていたところ、とても臨場感のある良いあらすじ紹介文を発見したので、やや長いがそっくりここに引用させて頂く。

 とある長屋で、自殺があった。老武士が首をつったらしい。しかし、住人たちは、その死を悼むよりむしろ「通夜」を口実に酒宴をしてしまう、そんな刹那的な連中だった。元は髪結いで、今は賭場を主宰する不良住人・新三(しんざ)が率先して仕切る。
 長屋連中総出でドンチャン騒ぎをする中、一人だけ参加せずに傍観している男は、浪人・海野又十郎である。海野は、再就職のための活動をするよう、妻にせっつかれている。妻は紙風船張りの内職をしていた。


 宴会から一夜あけた翌朝、海野は亡き父の手紙を携え、毛利という武士を訪ねた。毛利は、海野の亡き父に恩を受け出世した人物だった。その息子である自分が頼めば、きいてくれるに違いない。・・・毛利の横に随いて歩きながら、自分の再就職のお願いをしようと必死の海野。しかし、毛利は「今は忙しいから。この店に用事があるから」と取り合おうとしなかった。「それなら、お玄関でお待ちしております」と、なお食い下がろうとする海野だった。
 毛利が用があるのは、質屋の大店である白子屋。この店の娘・お駒と毛利の仕える家老の息子との縁談をまとめれば、毛利自身の出世の足がかりになり、白子屋も武家閨閥を得られる。かくして、お駒自身の気持ちと関係ないところで画策は進んでいた。当のお駒は若番頭の忠七とデキているのだが。・・・


 白子屋は、また、ヤクザの弥太五郎源七一家ともつるんでいた。白子屋がクレームなどの面倒なときのために、用心棒がわりに抱えこんでいる関係である。この日は、毛利につきまとう海野を追い払うために弥太五郎一家を動員する白子屋であった。
 さらに、弥太五郎一家は、自分たちの縄張りを勝手に荒らして私的に賭場を開く新三のことも痛めつける。
 こうして、長屋の隣人同士である新三と海野は、白子屋−毛利−弥太五郎一家というトライアングル・コネクションにそれぞれの事情で怨恨を抱く。


 縁日の夜は雨だった。海野が毛利に再就職の件を再度頼もうと白子屋で待ちぶせしていた頃、新三は縁日の寺でお駒を見つける。そして、ある悪だくみを思いついた。
 新三は、お駒を拉致した。妻がちょうどその晩に外出していた海野は、新三が連れこんだお駒を、行きがかり上、自分の部屋にかくまうことで結果的に誘拐の片棒をかつぐことになった。白子屋のお駒をさらえば、政略縁談を押し進める毛利が困る。白子屋の用心棒である弥太五郎一家も困る。嫁入り前の娘に悪い噂がたつのを避けたい白子屋としては、番所に届け出るわけにもいかない。・・・
 これは、単なる営利誘拐ではない。新三にとっては、自分を目の敵にする弥太五郎一家に一泡ふかせるチャンスだ。海野にとっても、自分を邪険に扱った毛利にささやかな復讐をするチャンスとなる。
 たまたま利害の一致した二人の男が、損得でなく意地とプライドをかけて敢行した拉致。果たして、吉と出るのか、凶と出るのか!!??


http://www21.ocn.ne.jp/~kobataka/cinema/kamihusen.html


いいところで終わりにしていて上手いです。これに続く熱のこもった紹介文も読ませます。



映画は、縁日の夜を境に長めの前半とやや短めの後半に分けて見ることができる。
前半で示されるのは、浪人海野と髪結新三の「違いと共通項」だ。
見ていて気の毒なほど生真面目な性格の海野は、腐っても鯛の武士階級。お調子者で憎めない不良の新三は、町人階級。これがまず明確な違いで、更に前者は必死に求職中、後者は仕事をせず遊んでばかりいる。
共通項は、「敵」。新三は弥太五郎一家の者に追われて一度隣の海野の部屋に逃げ込んでおり、海野も弥太五郎一家にやられているところを偶然通りかかった新三に救われている(というか、ついちょっかいを出したので逆に追われた)。当初は身分も性格も異なり単に隣人というだけで直接の関わりのなかった二人が、共通の「敵」を巡って一回ずつ貸し借りができている。


この伏線が後半、新三の連れ込んだお駒を自分の部屋に隠すことで、海野が新三の片棒を担ぐという展開に繋がっていく。それぞれ別々に手をこまねいていた相手と共闘して戦うことになるのだが、後半の要はふたりが「らしくなくなっていく」ところにある。
海野の生真面目さは明らかに只の脆弱さに。新三の無鉄砲ぶりは目を見張るような剛胆さに。海野が武士としての誇りや気概をほとんど失っていくのに対し、逆に新三は実に侠気溢れる好漢に変身していくのだ。


穏便にカタをつけるための金を白子屋から預かってやってきた弥太五郎一家を、鼻で笑って小判を突っ返し啖呵を切る新三のカッコ良さ(演じる中村翫右衛門は別に美男ではない)。対して、新三に言われるままお駒を預かり隣でただ待機状態の海野は、前半に比べてまったく影が薄くなっている。
それぞれの身分から考えると、「立場」が完全に逆転しているとも言える。「武士の誇りと気概」はむしろ髪結新三にあり、浪人の海野はあたかも「卑屈で受け身の町人」だ。これ以上は後に引けない切羽詰まった戦いの中で現れるのがその人間の素の姿であり、「階級」やそれに基づいた振る舞いなど上辺のものなのだということが酷薄なまでに示され、それぞれに相応しいラストが用意される(海野の口数の少ない妻おたきを演じる山岸しづ江がとても良い)。*1


初めて見た時、突き放すような厳しい幕切れに本当に打ちのめされた。まるで、知らない場所に置き去りにされたような気分になった。
この映画だけはオチを書かない方がいいだろう。というか「オチ」などという、私たちが漠然と抱いている物語回収の概念があっさり裏切られる。そして、いかにこの時代に、映画というジャンルが高度な完成を見ていたかも改めて思い知らされる。必見です。



ちなみにこの作品は、山中貞雄の遺作である。封切り当日に招集令状が来て中国に出征し、翌年1938年9月17日に28歳で戦病死した。
だから今日は天才の命日。
さてもう一回、『人情紙風船』を見よう。


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「お駒さん、俺の傘に入っていかねぇか。家まで送ってやるぜ」と親切に呼びかけているような図ですが、これから拉致しようとしているところです(スチール)。

*1:‥‥と書いたついでに追記しておくと、おたきが物語の最後で重要な役割を果たすだけでなく、白子屋の娘お駒と忠七の最後のワンシーンもとりあえずの結末をひっくり返しそうな予感を孕んでいる。男たちの戦いを思いがけないかたちで締めくくっている女二人。実にビターな後味だがそれはそれで痛快と言えないこともない複雑な味わい。