退屈を巡る現代劇『十三人の刺客』

豪華キャストの中でも残虐非道な殿様の異常っぷりを淡々と演じた稲垣吾郎が素晴らしいとか、50分にも及ぶ殺陣が圧巻だとか、「武士道」という建前を根拠とした殺し合いの虚しさを上手く描いているとか、リアリティに拘りつつも三池監督得意のバイオレンス表現とエグ味が全開とか。以上どれにも特に異論はない。
そうした目下「退屈」とは無縁と評判の「時代劇」エンターティメントについて書くのに、このタイトルは何なんだ‥‥ということだが、遅ればせながら話題の映画を見に行っての第一印象は、細部の面白さや見所だらけのチャンバラ乱闘シーンなどにも関わらず、全体としてなんだか物足りない、釈然としない、「よく出来てるけどそんなに言うほどのものか?これ」であり、筋としては極めて単純な話を2時間半に渡って盛り上げるための衣の部分が分厚過ぎて中身の肉がいまいち薄いみたいな、脂っこいけど噛み応えがないみたいな、なんかすごく派手なものは見せてもらったけどそれで?みたいな、そんな感じを受けたのだった。


物足りなさはたとえば、最初に集まった刺客12人のうちで、個性の区別ができるのが半分くらいな点。さすがに10人を越えると「七人の侍」のようにはいかないにしても、それぞれの戦いと死に様は描いているわけだから、それなりに感情移入できる前情報がもっと欲しいというのが、見ている側の人情だ。背景、動機が具体的に描かれている人物は、山田孝之の演じる島田新六郎くらいである。
室内の暗さや既婚女性のおはぐろ・眉剃りや宿場町のたたずまいや林立する日本刀などリアリティを追求している一方で、伊勢谷友介の演じる木賀小弥太のキャラが不自然なほど立ち過ぎなのも釈然としない。カマキリ喰ったり庄屋のオカマ掘る場面まで必要か?だいたいいくら山の民とは言えあんな不死身な人間を登場させると、シリアスなドラマがギャグに見えてくる。『スキヤキ・ウエスタン ジャンゴ』みたいな全編ギャグの作品ならありだろうが、ちょっと遊び過ぎではないか。しかもこんな役をやらせるには伊勢谷友介は主役級過ぎる。
残虐非道の限りを尽くした明石藩主松平斉韶が最後、島田新左衛門に刺されその痛みの享受を感謝して死んでいくのも、なんだかとって付けたような感じだし。


‥‥などと見た直後はあれこれ内心でツッコミを入れていたが、後で考えると復讐と対決の筋立てばかりに気を取られていた。重要なのは単純に、スクリーンに何がどう映っていたのか、だけ。
そこから反芻してみると、私が疑問を覚えた上記の諸々の点こそ実は、このリメイク作品が「退屈を巡る現代劇」として成立するために欠かすことのできないポイントだった。
以下にその理由を書いてみる。そんなの書くまでもなく皆わかってるよという方はスルーして下さい。



ここ数年やたらと増えた時代劇映画のほとんどが、現代に通じるテーマを扱っているという意味では、もちろんこれも現代劇だ。共に「武士道」の名の下に展開された正義vs忠義の死闘が、結果として徳川末期の安泰を維持するためだけの命の浪費であったことをもって、「無益な戦いを生む空疎化したシステムと、その犠牲になる人間の生の儚さ」といったテーマを見ることも可能だろう。*1
だが無論それはメインではない。これだと、役所広司演じる島田新左衛門らvs市村正親演じる鬼頭半兵衛らの仁義なき戦い(とその無惨な結果)だけに目を奪われ過ぎになる。
主人公は、正義に殉じて「本懐」を遂げた新左衛門の甥の、新六郎だ。切り詰めて言うとこれは、無為な暮らしを送っていた青年が生きる意味を探してジタバタする話である。
この平坦な日常を、何らかの物語に依存、短絡することなく、退屈しないで生きることは可能か。これが三池版『十三人の刺客』の、優れて現代的なテーマだ。


その問いに、新六郎が最初に飛びついた答は新左衛門だった。最後に残った答(むしろ問いか)は木賀小弥太である。であれば、その他の刺客を個人として同じようにクローズアップする必要はなく、伊勢谷友介が後半登場する小弥太を演じて妙に存在感が大きくなっていくのも頷ける。
従って新六郎を中心として見ると、斉韶暗殺計画から長いバトルシーンまでの構図は以下のようになる。

島田新左衛門:正義に命を賭ける愚直な武士、一世一代の大賭博に退屈などしてられない男


  ↑ 憧れ


島田新六郎:堕落した無為な暮らしを脱し、生きる意味を掴みたいと願う若者


  ↓ 忌避(実は同じ鬱屈を抱えている)


松平斉韶:閉塞的な武家社会の生んだ奇形者、生きている手応えを求めて暴走する退屈しきった男

 

天下太平と言われた文化文政の「実際に刀を抜いて戦ったことのある者がどれだけいるのか」と武士の新左衛門自身が言う時代に、一番退屈している男は、松平斉韶である。
斉韶にとって、徳川を頂点とする武家社会の規律や約束事はただピラミッドの形を維持するためだけの空虚なものであり、そこに政略上生かされている自分もまた空虚な存在で、生きているという実感を得ることができない。内実は腐敗しているが安定したシステムと表向きの平和によってもたらされた恐ろしく閉塞的な「退屈」から逃げるため、彼は刺激を求めて残虐極まりないエログロ行為に走るが、虚無感は募るばかりだ。
常識的な善悪の線引きをしないだけでなく、膳の上の食事までぐちゃぐちゃに混ぜて犬のように喰らうという、乱心とも見える斉韶のアナーキーな振る舞いは、武家社会という牢獄の中で去勢されつつあることへの反動である。何事にも感じなくなってしまった不幸な人間、斉韶のこの人物造形は、非常に現代的だ。


新六郎は、ミニ斉韶である。
斉韶のような残忍さはもちろんないが、武士階級に生まれても侍として生きる意味を見出せず、デカダンで無為な日々を送っている点は同じ。それを彼自身が如何に虚しく感じているかは、強盗を叩きのめした後で賭博の儲けを投げ捨ててやってしまう態度によく現れている。
武家社会の上位にいる人間と下位にいる人間が、同じ「退屈」に蝕まれ外道に堕ちているという設定は、一見平和に見える社会が人から生きる目的なり意味なりを奪って成立していることを示している。
そんな出口なしの新六郎から見て、伯父の新左衛門が、命を賭けるに値する重大な仕事=崇高な目的をもった憧れの人と映り、自分もそのデカいヤマに加わって共に命を賭け、それによって一瞬でも己の人生を輝かせ、生きている実感を味わい尽くしたいとの心境に至るのは大変わかりやすい。
いつの時代も、人生に退屈している根が純朴な若者は、明快な勧善懲悪に飛びつき正義の名の下に暴れてみたい、それでこの平々凡々たる自分と世界を直結させ、今ここで生きることにヒリヒリするような刺激と手応えと意味を感じてみたいと思うものだ。



ここに13番目の「刺客」として現れるのが、武士から見ると"異人"である山の民、木賀小弥太である。自由過ぎる振る舞いに反して意外にも頼もしい戦力となる一方、彼によって侍同士の命を賭けた正義vs忠義の戦いは相対化されていく。
獣を捕らえ虫を食い、女だけで飽き足らず庄屋まで犯すという"自然児"の小弥太にとって、生きること、つまり食欲と性欲を満たすことそのものが、飽きることのないドラマとしてある。登場人物たちが骨がらみになっている社会のシステムからもっとも遠いところにいる小弥太が物事に関わる基準は、忠義でも正義でもなく、単純に面白いか面白くないかだけだ。そしておそらく彼はどこにいようが、自分にとって面白いことを見つけ出す。
つまり小弥太は、退屈とそれのもたらす退廃とは無縁の人間である。一応敵味方で対立しているが日々の虚無感において共通していた斉韶と新六郎にとって、とりあえずは思いがけないモデルの出現だ。だから斉韶は敵陣で暴れる小弥太に興味を引かれ、生き残った新六郎は物語の締めくくりに相当する会話を小弥太と交わすことになる。


侍たちが無駄にたくさん死んだ後の新左衛門と半兵衛の一騎打ちに、新六郎は人間の殺し合いの根源的な無意味さと武士道の空洞化を見た。戦いをかろうじて支えていた建前=理想は新六郎の目の前で崩れ去り、彼の中にあった戦=生きる意味というかりそめの図式も色褪せる。
死屍累々たる中を彷徨い歩く新六郎を捉えているのは、新左衛門の言うような「本懐」を遂げたという充実感ではなく、どこにも持って行き場のない茫漠たる虚しさと徒労感である。
旧世代の新左衛門の生きた物語を自分は同じようには生きられない。ではどうしたらいいのだろう。また無為な生活に戻るのか。
ここでやっと、何らかの大義名分やイデオロギーや物語に依存、短絡することなしに、平坦な日常を退屈しないで生きることは可能か?という問いが、新六郎の中にせり上がってくる。
この時の彼はまだ知らないが、20数年後に訪れる武家社会(という大きな物語)崩壊後の世の中をどう生き抜くかという問題にそれは繋がっている。


ラストの構図は以下のようになる。

木賀小弥太:原始的な欲望に忠実で苦悩(自分は○○としていかに生きるべきか)を持たない、退屈を知らない男


  ↑ 希望(?)


島田新六郎:武士道に己の生を賭けること、戦いの虚しさを思い知らされ、価値観が揺らぐ


  ↓ 懐疑、失望


島田新左衛門vs鬼頭半兵衛:武家社会において表裏一体であり、共に徳川体制を補完するものとして消費される存在


ところで斉韶の最期は、どう考えるべきだろうか。
阿鼻叫喚の中、大勢の家来が死んでいく様を嬉々として眺め、「天下をとったら戦にあけくれる政治を行い、今の太平の世を終わらせてやる」などと嘯いた時の斉韶は、自分にとって刺激の絶対値さえ大きければ何がどうなろうと構わないという、それまでの倒錯的な価値観の極限にいた。
では最後に瀕死の新左衛門に止めを刺されて、這いずりながら「痛い」とえらく素朴な台詞を口走り、その痛みを知らしめてくれた感謝の念を口にして絶命する時、この極悪人は己の暴力が人に与えてきた苦痛を身をもって知り、初めて"人間らしい心根"に目覚め改心したのだろうか。
そのあたりはどうにでも取れるような感じになっているが、クールに見えるほどブレのない残忍さと、動物的な小弥太に惹かれたことを考えると、改心に重点を置くのは甘い見方になるだろう。三池崇史がそんなふうに人間のダークサイドを描くとも思われない。
斉韶は、どんな刺激によっても味わえなかった自分が生きているという実感を、死の間際に激しい痛みという非常にプリミティブなレベルで思い知った。斬られて「痛い」、これだけは紛れもない事実であり刺激の絶対値としては最大級だ。その馬鹿馬鹿しいほど当たり前のことを態々口にし、あえて敵に感謝する態度は、自分を守って(もちろん後の出世のためだが)死んだ家臣の半兵衛の首を平然と蹴飛ばす振る舞いと同様、彼のような立場の人間に望まれるものとは対極にある。
つまり斉韶の幕引きの仕方は、退廃し切った自分の人生とそれを支えたハリボテ化した武家社会を嗤うものだ。そういう意味で、彼の屈折した美意識と虚無的な人生観は一貫している。
実在の斉韶とは異なって創作されているこの人物は、そのキャラの異様さにおいても怪物的且つ仮想的な存在であり、言わば普通人の新六郎の中の退廃を濃縮して極端に描いたものである。だから「新六郎の物語」であるこの作品で、改心しないまま果てる必要があったと私は思う。


さて、どう考えても死んだか重体のはずの小弥太が、最後にピンピンして新六郎の前に現れるのには意表を突かれるが、なぜ彼はマンガ的な不死身キャラなのか。それは小弥太という人物が武家社会、と言うより人間社会の外にいるファンタジックな存在として想定されているからである。
食と性の荒々しくも素朴な充足に生きる喜びを味わいながら、何ものにも囚われず究極の自由を享受する本能的な生き方は、社会の様々なしがらみに囚われて生きざるを得ない人間には難しい。ほとんど不可能と言っていい。でもそれまでの規範や約束事が崩壊した時、小弥太のような生身の姿が現れることも事実だろう。
自分はこんなに打ちのめされているのに、こいつはなんでまたこんなに生き生きとしているのだ?という新六郎の小弥太への当惑と憧憬は、微かな希望に変わる。小弥太の姿からもたらされるのは、ただ生きているという当たり前のことが、退屈なことではなく多彩な表情を持ったドラマかもしれないという発見である。
こうして新六郎は、自らの生を新たに生き直すために日常=女の元に帰っていく。*2


退屈な日常に倦んでいたところに偶然出会った物語に飛びつき、生きる意味という「青い鳥」を見つける冒険に出た青年が、正義も忠義も退屈の生んだ怪物的悪も殺し合いによって等価となるという現実を目の当たりにし、ただ生きることそのものに意味があるのではないかという啓示を受けて、日常に回帰する。「行きて帰りし物語」にきれいに嵌っている。
では彼が(というか私達が)どのような物語にも依存することなく、そこに安易な行動を短絡させることなく、平坦な日常を生きていくことができるとして、それはいったいどのようにして可能なのか。新六郎はどう生きたのか。それにはこの映画は答えていない。
ただ、復讐と対決の筋立てを上回る勢いで、殺陣シーンの迫力と拮抗する生々しさで、スクリーンに能弁かつ豊穣に示されていたことがある。善と悪の線引きを巡って飽きもせず繰り広げられ血が流される戦い以前に、食と性によって支えられる生そのものが、めくるめくような闘争とアナーキーな活力に彩られているという端的な事実だ。*3
日常の中でそれをありありと実感することは困難である。江戸末期の武家生活においてもそうなのだから、食も性もよりインスタントになった現代では尚更である。
でも改めてそこから始めよう。どんな社会がやってきてもそれが我々の根底にあるものだから。そう言われている気がした。

*1:数年前にヒットした『たそがれ清兵衛』はこれを描いて成功したが、2010年の時点で改めて時代劇でそれを描く新味は、あまりない気がする。

*2:吹石一恵が、新六郎の恋人の芸妓お艶と、小弥太を愛する山の女ウパシの二役を演じている理由が、書いていてやっとわかった。彼女は生(性)の象徴的な存在だ。

*3:それを前半で超ネガティブに体現していたのは斉韶、後半でポジティブ(と言っていいのか)に体現していたのは小弥太。三池監督は斉韶を小弥太と同じく、常識的な善悪の尺度から超越した者として描こうとしている。成功しているかどうかは微妙だが。