数日前、コメント欄でフェミニズムの話になった。なかなか議論喚起的な内容だと思うので再掲したい。ただかなり長いので、申し訳ないが脂さんの発言はかなり刈り込ませてもらった(同じことの言い換えになっている部分や後半の若干ヒートアップしている部分)。フェミニズムについてのコメント欄の流れを追いたい人は、遡ってこのあたりからどうぞ)。
ohnosakiko 2011/01/05 17:59
脂さん、大学でフェミ学んだの?上野千鶴子んとこで?(東大だったよね)
精神分析はいつからなの?私は美術系だったんで、フェミっぽいものってアートを通してだった。あとはリブの言説。70年代末〜80年代はまだそういうのに普通にアクセスしやすかった。その後、上野千鶴子や小倉千加子は何冊か読んで面白いとは思ったけど、フェミニズムそのもので救われたということは実は20代ではなかったなぁ。だからすぐに読まなくなった。むしろその後フェミっぽい言説は避けてたかもしれない。全部社会派フェミにしか見えなかったから。20代から40代の初めまではアートどっぷり。
40代前半でアート辞めていきなりジェンダー論の講義もってから、フェミニズムの本をまた少し読むようになった。その頃、精神分析関連も読み出した。精神分析とフェミと反りが合わないよね。でもそれを自覚しつつ両方を見ている人と会えたから、それは結構良かったなと思ってる。
以上、自分語りでした。
(中略)
脂 2011/01/05 20:43
大学は理系でしたのでフェミは独学です。何度かもぐったことあるけどさっぱりだった。ちびちび読める本読んでた。
社会学になるとほんとだめ。言葉が通じない。「権利」とか「権力」とかほんとイメージが人とずれている。最近気づいたんだけど。話通じてなかったんだろうなあって思うと「うわあああ」ってなる。演劇やってたから表象文化系っての? あれが流行りだした時期になんのかな。あの流れ。ミーハーだから上野はよく読んだ。
文化人類系もよく読んだ。オカルト趣味の延長みたいな。演劇のネタにもなるかな、と。
精神分析は、うお、もう5年かよ、です。
精神分析的フェミニズムってぽつぽつあるけどラカンとフェミは相性悪いんだよね。>リアルでもネットでも。引きこもり気味。
もっとケンカしようぜ。
フェミ+精神分析なんてこれ以上ないってくらい世間から嫌われる取りあわせだ。もったいない。存分に暴れてやりませう。
(中略)
脂 2011/01/07 03:42
(前略失礼)
学問の研究態度とは、研究対象を肯定する態度ではない。たとえば物理学の参考書にこんなコラムがあった。
「昔の科学者は、道端に落ちている石ころを見て、「これはどういった物だろう」と考えた。したがって石を二つに割ってみた。二つの割れたそれも石である。なのでもう一度割ってみた。石である。これを繰り返し、最終的に分子や原子という存在を発見したのである」
このとき科学者の石ころに対する態度は、肯定的であるとは言えない。肯定的態度は「これは石だ。割らなくても石」とする態度である。
フロイトは「精神分析は科学である」と言い張った。
フェミニズムはこのように往々にして研究態度を放棄する。
フェミニズムは「対象を研究する」学問ではなく、女たちが「自分が肯定できる何か」を探す言説である。
なのでわたしはフェミニズムを学問として認めない。
脂 2011/01/07 03:45
あ、まあそれを研究、つまり解体しようとするフェミニズムもあるけどね。
日本のフェミニズムには本当にそういった態度に欠けている。この欠けた部分を、社会的な政治運動に割り当てている。
政治運動は学問ではない。
正しくは「日本のフェミニズムは」でした。
脱線すみません 2011/01/08 01:14
フェミニズムが「対象を研究する」学問である必要はないと思いますよ。
女たちが「自分が肯定できる何か」を探すのが目的なのですから。ただ、「自分が肯定できる何か」は理想への追求でありまして
理想への追求に役立つ理論は肯定的に利用したいですよね。
だって、現状に不満を持ってますから。それは、(ある分野の)工学が理想への追求に役立つ物理(化学も)理論を
肯定的に利用する(例えば性能改善とか)のと同じだと思うんですよね。そういう工学が学問ではないと仰るなら、学問に対する考え方の違いですが、
大学では、そういう工学も学問として研究されていますよね?だから、日本のフェミニズムもそういった学問なのではないのでしょうか。
「「対象を研究する」学問」ではない学問であると。
脂 2011/01/08 01:46
それについては基礎科学と応用科学という分類が有効でしょう。
あなたの仰る「工学」は応用科学ですよね。
そういった学問も確かにあります。こちらの記事参照のこと。
http://aburax.blog80.fc2.com/blog-entry-589.htmlそれらの違いは、「対象を研究し理論化する作業」と、「理論を人間のために役立てる作業」という違いです。
これらは学問の分類というより、研究態度の差異です。つまり学者が学問する際の心理の差異だ、ということになります。工学の学者でも、「対象を研究し理論化する作業」という態度で研究している学者もいても構わない、となります。
現在の日本の大学では、前者の態度で研究をする学者の居場所がなくなりつつあります。当然です、前者の態度は、前掲記事内でも書いたように「ジコマン」なわけですから。後者の態度は「人間」という他者のために仕事をしています。大衆のウケがいいのは後者に決まっています。
わたしはそのことに強い危機感を持っています。
あなたのコメントにおける「理想」とは、「人間性としての理想」であり、それは「人間のために役立てる作業」となります。フェミニズムは後者の態度に分類される、ということでよろしいですね?応用科学的な後者の態度を「学者」とするのは構いません。ただしそれによって基礎科学的な前者の態度の「学者」たちが仕事をできなくなっているのが現状です。日本の最高学府でもそういった状況にあります。
http://aburax.blog80.fc2.com/blog-entry-795.html>「「対象を研究する」学問」ではない学問であると。
とおっしゃられていますが、そんなこた骨身に染みてわかってますよ。
むしろ今の大学は基礎科学的な「「「対象を研究する」学問」ではない学問」ばっかりになっているのですよ。したがってわたしは、であるなら基礎科学的な態度の「学者」に、「魔女」(男でも)という呼称をつければいい、と記事にしたことがあります。
http://aburax.blog80.fc2.com/blog-entry-618.html
わたしが「日本フェミは学問ではない」と言ったのは、「魔女」という呼称を採用するならば、「日本フェミは魔女がする研究ではない」となります。
それで結構ですよ?
「女性を研究対象とした基礎科学的な研究態度」を取る学者がいなければ、応用は成立しませんがね。
脂 2011/01/08 01:53
>むしろ今の大学は基礎科学的な「「「対象を研究する」学問」ではない学問」ばっかりになっているのですよ。これわかりにくいっすね。
「基礎科学的な「対象を研究する」学問」ではない、「応用科学的な「理論を人間のために役立てる」学問」ばっかりになっている、と。
後者の態度の学者ばっかりになっている、と。日本フェミも例外ではない、と。
じゃああれだ、ここであたしが「基礎科学的フェミニズム」なんてのを立ち上げてみましょうか。
それを「学問」と呼ぶかどうかの問題なんて別にどうでもいいです。「魔女がする研究」という呼称でも構いません。
脂 2011/01/08 01:56
「基礎科学的態度のない学問」など、すっぱり「宗教」と自称した方がいろいろと効率がいいと思うんですがね。
「宗教」の方が「理想」に邁進できるでしょう?
(中略)
脂 2011/01/08 03:12
>だって、現状に不満を持ってますから。これかちんとくるわ。「フェミニズムはルサンチマンを原理としている」ってことになるじゃん。
そんなんだから「宗教」「自己啓発セミナー」になるんだよ。
わたしがフェミを叩いているのは、フェミには多少恩義を感じているからだ。「学問としてもっとしっかりしろ」って意味もなくはない。わたしは再びやる気はしないが。
脂 2011/01/08 03:14
大学時代多少フェミ齧ってたからかよく「フェミニズムはルサンチマンを原理としている」みたいなことを言われたわ。わたしはそのたびに反論した。フェミには「学問的意義がある」と。
だけどその指摘は正しかったんだろうな。
脂 2011/01/08 03:16
ただの自己啓発セミナーにしかなっていない日本フェミは一回絶滅してやり直した方がいいんじゃねえの。小倉や上野みたいな老害もいるわけだし。
脂 2011/01/08 03:30
要するに、「対象を研究する」という態度がなければ、つまり科学なら基礎科学的な態度がなければ、学問として成立しない、ということです。
それがないとそれこそ脱線さんがおっしゃるがごとく「宗教」あるいは「自己啓発セミナー」になる。
「基礎女性学」ってなかなかいいと思うんですがね。嫌味を効かすなら「女性病理学」でしょうが。「私自身が女ですから」
うん、それで? 自分自身を研究対象にすればいい。お金もかからないし便利便利。
大野センセも言ってましたね。「女の実態は当の女がわからない」と。
(中略)
脂 2011/01/08 03:55
そもそも「女性学」ってことなら「研究対象が女性である」って意味になるだろ?
間違ってるじゃねえか。そこに集まっている人間が女性だってだけだろ? 男性を研究対象にしたりしてるだろ? それはいいんだよ。それが最終的に女性の研究に役立てれば。補助線として他学派から理論を借りることはある。しかし基礎研究における対象はぶれない。
ぶれまくりじゃねえか、フェミは。社会に対し文句をつける道具にしか使ってないじゃん。
それは学問じゃねえだろ。政治団体やれよ。素直に。それなら何も文句は言わん。「フェミニズムという学派」ではなく「フェミニズムという政党」なら。
フェミはもっと自分たちを省みろ。
脂 2011/01/08 03:58
「自分たちという女性」を研究対象にすればいい。
脂 2011/01/08 04:05
わたしは「フェミニズムは学問ですよー」という詐欺師フェミニストたちに騙された被害者だ。
「学問」にしておけば「社会に対する文句」にハクがつくからやってるだけじゃねえの?
「学問」に対し大衆が妄想する「権威」を利用しているだけじゃねえの? お前らが「権力者」であり「男性原理主義者」じゃねえの?
「学問という実態」を考えれば、フェミは学問ではないことがわかる。
(中略)
ohnosakiko 2011/01/08 11:35
>フェミニズムが「対象を研究する」学問である必要はないと思いますよ。
女たちが「自分が肯定できる何か」を探すのが目的なのですから。ふーむ。じゃあ「自分が肯定できる何か」はセレブ専業主婦として生きることであっても一向に構わないですよね。私の知っている女子学生は金持ちと結婚することが自分を肯定できる道だったり、整形して可愛くなってモテることが自分を肯定できる何かだったりするけど、そういうのもフェミニズムは推進していたのか。知らなかった。
ohnosakiko 2011/01/08 11:36
フェミニズムって女のナルシシズムに栄養を与えるものだったの? そりゃ「宗教」になるわ。
学問としてのフェミ/政治としてのフェミって括りで考えてたけど、違うんだ。脂さんの言う「対象を研究する」フェミと、脱線さんの言う「自己肯定のための」フェミだ。私は一番最初から「対象を研究する」フェミがやりたいんだな。それをやると「自己肯定」フェミから「女をおもちゃにするな」「役に立たないどころか害悪」って抗議が来るんだよ。いやあてこすりで、だけど。おもしろいね。
これから自分が「女」について書いてることを「魔女がする研究」と呼ぶことにしよう。グツグツ‥‥
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フェミニズムは学問なのか(政治)運動なのか。研究なのか宗教(あるいは自己啓発セミナー)なのか。「女」を研究するものなのか、女性の権利を拡張し女性の立場を擁護するものなのか。
とりあえずタイトルにしてみたが、こんな問いはナンセンスだろう。そのすべてがフェミニズムの名のもとに為されてきたのだから。フェミは一人一派とまで言われている。
そして脂さんによれば、日本のフェミニズムは前者をないがしろにし、後者ばかりが跋扈している。学会や業界に疎い私だが、少なくともネットの中で見える風景、聞こえてくる言葉からは、かなり抑圧的かつ強迫症的なニュアンスでそういうものを感じることがよくある。脱線さんのコメントもそうだった。それで少し毒を吐いてみた。
もともとフェミニズムは、男性社会における女性差別の糾弾とその問題解決のための思想的政治的武器として登場した。そうしたフェミニズムの運動によって長い時間をかけて達成された地平に自分の今もあるのだろうから、「政治」の恩恵を被っているという自覚はある。
さまざまなメディアや表現における男性中心主義を指摘したフェミニズムの「研究」も、書物を通していくらかは知った。そこでは権力関係がどのように隠蔽されつつ潜在しているか、それにいかに影響されるかということを学んだ。
でも私は学者でも活動家でもなかったから、「フェミニスト」だと自覚したことはなかった。もし自分のような者がフェミニストなら、大半の女性がフェミニストかフェミニストにいずれならざるを得ない人になるだろうと思った。
40代半ばにもなってひょんなことから大学でジェンダー入門の講義をもつことになった頃は、あまり世間にウケの良くない「フェミニズム」という言葉より、「ジェンダー論」というカテゴリ名称が広がって久しかった。そこで、あえて「フェミニスト」と自己規定することにした。
「女」の欲望のあり方について、「女」という”病気”について、「女」と名指される現象について、リアル/ネットを問わず日常の中で見聞きしたごく卑近な例から「これは何だろう」と考え始める時、その先はよく見えていない。よく見えないから少しは言葉で文節化しはっきりさせたいと思って書く。あるいはその見えなさ加減、曖昧さ、複雑さ、居心地悪さをそのまま取り出したいと思って書く。
私の書くものはあくまでエッセイであって論文ではない。その意味で「学問」ではないだろう。また「女性の利益のために」「女性を肯定するために」という発想もない。考えていった結果そこに帰着せざるを得ないことはあっても、そこを目指しては書かない。
だから「女たちが「自分が肯定できる何か」を探」したり「社会に対し文句をつける道具」としてのフェミニズムには、あまり興味がない。少なくとも"そのための"言葉を紡ぐ気はない。
もちろん女が「女」を分析し尽くすことは不可能だろう。またそれが結果的に「女」(あるいは自分)の足下を堀り崩すことになるかもしれない。ではその思考を止められるのかと言えば無理だ。掘り崩された足下の地面が、何でできていたのか知りたいからだ。