父の団扇

三ヶ月ぶりに、車で一時間半の実家に親の顔を見に行った。ボケの入ってきた父に毎日苛ついているらしい、母の相手をする。キッチンのテーブルで喋っていると、居間で横になって休んでいた父が起きてきた。
「体調はどう?毎日暑いね」と声をかけた。父は「暑いね」と言いながら斜向いの椅子に腰掛け、テーブルにあった団扇を手に取って私を煽ぎ始めた。「毎日暑いね」という挨拶を何か勘違いしたらしい。
「お父さんいいよ、煽いでくれなくても」と言うと一旦手を止めたが、またしばらくして煽ぎ出した。ボーッと座っているのは手持ち無沙汰なんだろう‥‥と思い、そのままにしておいた。


少しして「お父さんありがと。涼しくなったわ、もういいよ」と言った。父は手を止めた。そして、私が母と話の続きを始めると、またゆっくり煽ぎ出した。「3秒前のことも忘れる」と母が言っていたが、本当らしい。
母は父の行動をまったく意に介さず、おしゃべりに熱中している。父は母と私の話に耳を傾けているような様子で、団扇を持った手を左右に動かし続けている。ふわり、ふわりと、ゆるい風が私の顔に当る。母との会話より、父の送り続ける団扇の風の方が気になってきた。
しばらくしてからもう一度、「お父さん、ありがと。もういいよ」と言ってみた。うん?という顔をした後、父は団扇をテーブルに置いた。今度はわかってくれたようだ。
母が何か喋り出したので私はそちらを見た。すると、父はまたおもむろに団扇を取って、私を煽ぎ始めた。


母は、まだらボケの父の言動がストレスで、数年前に体調を崩した。それ以降、家庭内の父と母の権力関係は完全に逆転し、実家に行く度に、何かやらかして母に小言を言われている父の姿を目撃することになった。
父がボケてきてからの母の楽しみは、読書とたまに来る娘とのおしゃべりだけである。実家はLDKにしかエアコンがないので昨日はそこで話したが、いつもは私を父の来ない離れた部屋に引っ張って行く。そこなら思う存分、父の愚痴を言えるからだ。
以前と比べてめっきり口数が少なくなった父とは二言三言交わすだけで、後は母の相手。我がままな専制君主だった父の老後の面倒を看ているのは母だから、私としては母の気分が少しでも上向きになればと思い、黙って従っている。


キッチンの椅子に座った時、父は何か喋りたかったのかもしれない。だが私と母のやりとりは父にはスピードが早過ぎて、内容が把握できないので口を挟めない。とんちんかんなことを言えば妻に叱られるし、娘にも呆れられるかもしれないと思っている。だから余計なことを言わず黙っている。
その代わり、「暑いね」と言った私を団扇で煽ぎ続ける。何度「もういいよ」と言っても、煽ぎ続ける。
除け者にされたと思って嫌がらせをしているのではない。半分くらいは何を喋っているのか聴き取れない妻と娘の会話の場で、黙って団扇で煽ぐことが多分、ボケかかった父の自己主張なのである。


私が母と話している間、ふわり、ふわりと、団扇の風が顔に当たっていた。
その風はひたすら「娘よ、父はここにいる」と言っていた。



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