茶渋の妄想

麦茶を入れて冷やしておくプラスチックのポットの底に、うっすらと茶渋がついているのを見つけた。長いブラシを突っ込んで掃除する。
ブラシが粗いせいか隅の方がきれいに落ちなかったので、古い歯ブラシで擦って落とすことにした。こういう時、古歯ブラシは重宝する。


もし掃除をしないでいたら、どんどん茶渋はポットの底に溜っていくだろう。それでも掃除しないで使っていたら、茶渋の層は何ミリ、やがては何センチという厚さになるのだろうか。ポットの口近くまで、30センチくらい堆積した茶渋というのは、あり得るのだろうか。膨大な時間がかかるだろうが、理屈としてはあり得る。


仮に1ミリの厚さの茶渋が形成されるのに、100回麦茶の投入が必要だったとする。一日でそのポットの麦茶を飲んでしまうとして、100日。だいたい、冷たい麦茶を飲む初夏から初秋までの期間に相当。
そうすると1センチの茶渋が形成されるには10年かかり、それが10センチの厚みになるには100年かかり、30センチの茶渋が形成されるまでには300年かかることになる。
自分も含めて今生きているすべての人間がとうに死んでいる。プラスチックのポットは残っていたとしても。


そもそも、誰が茶渋が溜まりに溜って分厚くこびりついたポットに、新しい麦茶を入れようなどと思うか?という根本的な問題がある。茶渋の層作りなどという、とことん無意味なことにトライする人もいないだろう。
だが、外から見るとその行為自体に特別な意味は見出せないが、それを怠ると広範囲に重大な災いが降り掛かる可能性が出てくるので、必ず誰かがやりつづけなければならないと言われているようなことが、世の中にはまだあるのではないだろうか。その起源を知る者がほとんどいなくなってしまった村の掟とか古い言い伝えとか。
もし茶渋の層作りがそういうミッションだったとしたら? きっと誰かがするだろう。その人が死んだら別の誰かがそれを引き継ぐ。


そうやって300年後、ポットの茶渋は30センチの厚さに達した。もう麦茶を注ぐ余裕がなくなった。どうしたものか皆が考えた。
「役目は終わったのだから、このまま土に埋めよう」
「いや、貴重なものだから博物館に寄贈しよう」
「研究所に持っていって昔の層を調べてもらったら、何かの役に立つかもしれない」
ひとしきりガヤガヤした後、誰かが厳かに言った。
「一年に1ミリずつ伝統の茶渋作りを続けてきたことによって、この300年間、村に重大な災いは降り掛からなかった。茶渋の高さが変化しないまま止まった年はなかった。大事なのは続けることだ。これからは一年に1ミリずつ、古歯ブラシで茶渋の層を削り取ることにしよう。そうすればあと300年、安泰が保たれるだろう」
こうして、新たなミッションが誕生した。



‥‥などという馬鹿げた妄想に浸りながら、せっせと茶渋除去を行った。
ポットはすっかりきれいになった。
洗って乾かしたポットに冷ました麦茶を注ぎ、冷蔵庫にしまった。