彼女に求めているものが違う - AnonymousDiary
付き合う前に自分の短所を相手に知らせ、それを受け入れてもらえるなら付き合う、そうでないと安らぎが得られないという増田記事。ブックマークコメントでは、おまえの短所はおまえではなく相手が決めること、自分で把握できる短所などほんとの短所ではない、というようなツッコミに支持が集まっていた。
長所も短所も、この話では「(おつきあいに際しての)性格にまつわること」である。増田記事の「もちろん、直せる短所を直すようにはするよ。」という一文からも、それの元となっている「友達がなぜモテないのかわかった」からもそう判断できる。
自分の性格を何もかも知ってもらって安心して付き合いたいという気持ちはわからないでもないが、増田記事に抜けている視点が二つあるように思う。
一つは、自分にとって一番わからないのが自分であり、自分で自分の性格を完全に把握するのは不可能だということ。もう一つは、人の長所や短所は独立したかたちで常に存在しているのではなく、他のさまざまな人との関係の中で浮かび上がってくるものだということ。
たとえば、Aと付き合っていた時は現れなかった短所が、Bとの交際で表面化するということはよくある。自分の振る舞いは変わらなかったつもりでも、Bとの付き合いの中で初めて「見たくなかった厭な自分」を見てしまう。これを「相性が悪かった」などとも言う。
またある人にとっては長所(短所)と思えるものが、別の人には短所(長所)に思えることも普通にある。たとえば自分の短所を「気が短い」ことだと考えているとしよう。Aさんにはそれは、「決断が早くて頼もしい」という長所として捉えられ、Bさんには「我慢強くない」という短所として捉えられ、Cさんには「普段は冷静なのにたまに短気になるところがカワイイ」などと捉えられる。
自分の長所や短所は、相手の性格及び相手との関係性によっても出方が変わってくるものだから、初対面の相手に自分で認識している自分の短所を並べ立ててもあまり意味がない。
恋愛、友人関係に関わらずお付き合いは、好感の交換からスタートする。もっと言えば、他人との付き合いはどんな場合でも、相手に好ましく思われるように良いところをまず見せる、という言わば「偽善的」な振る舞いからしか始まらない。
だからと言って、自分の長所を列挙してアピールするのは不遜としか受取られない(他人がしてくれるならまだしも)。そんなことをしなくても、相手の言動に共感を示すことでなにがしかの好感をもっていることは伝わる。相手も自分に共感的な態度であれば、好感をもたれていると考えることができる。それが本心か嘘かを、その好感の交換の段階で問う必要は全然ない。
結局、その人と付き合うかどうかという判断は、相手が自分の短所を受け入れてくれるか否かではなく、自分が相手にどれだけ共感的態度を”示したいと思ったか”にかかっている。好感の交換が十分行われれば、付き合いはそんなに無理しなくても始められる。もちろん、始めてみなければわからないことの方が圧倒的に多い。事前の安全策はないのである。
付き合っていけば、自分の短所はいずれ、しばしば思いがけないかたちで相手にバレる。自分では長所だと思っていたところを短所と見なされることすらある。しかし「好きになる」とはその人の存在を丸ごと好ましいと思うことなのだから、短所すら相手にとっては愛すべきものに変わることもままある(誤解されるといけないので書いておくが、これは相手のことを何でも無条件に受け入れるということではない)。そこでもし「こんな気の短い人だとは思わなかった」と言われてフラれれば、その程度にしか好かれていなかったということなので仕方ない。
しかし一方で、「短所を隠しているのは相手を騙すことだ」という意見もブコメにあった。こんなエントリも上がっていた。
たとえば僕が「不治の病に侵されて余命5年の命と宣告されており、バツイチ子持ちで借金1000万。ただしイケメンでコミュ力最強」というプロフィールの持ち主だったと仮定して。短所はひた隠しにしてイケメンとコミュ力を武器に2年間お付き合い。そろそろ結婚かという段になって「実は俺…」と打ち明けられたら、「騙された!」とあなたはブチ切れたくならないでしょうか?
あるいは人間相手でなくても、たとえば不動産で賃貸物件を見学した際、「こんなにキレイで駅近で、しかも新築5万円!こんなイイ物件、他にありませんよ!」とセールストークをかまされたものの、実際住んでみたら線路が近すぎて電車の騒音で夜も眠れず、水回りの欠陥が原因の悪臭に日々悩まされ、そのうえ隣の住民がニートのキチ○イ。夜な夜なイチャモン付けにあなたの家のドアをノックしにやって来るタイプの人物だったとしたら、「ぐぬぬ…」という気持ちにあなたはなりませんでしょうか?
そうした不幸な事態を未然に防げるよう、欠点も含めた判断材料を相手に与えることが、「相手に対する思いやり=『誠意』」でなくて、一体なんなのでしょうか…?
まずここに書かれているのは、その人の「性格にまつわること」ではない。不治の病は性格と無関係であり、バツイチ子持ちや借金1000万は、性格から生じた場合も無関係な場合もあるから、これをそのまま性格的短所とすることはできない。
そして先に述べたように、性格的な短所(と自分が思っているもの)は相手や相手との関係によって捉えられ方、出方が異なるが、不治の病、バツイチ子持ち、借金1000万は相手によって違って見えるものではなく、誰にとっても同じ単に客観的な事実でしかない。不動産の例も同じである。
余命5年の不治の病の人は、自分からはなかなか積極的に恋人を作ろうとはしないだろうと想像されるが、もし誰かに好意を持たれ付き合いたいと言われて心が動いた場合、自分の病のことをまず話すだろう。その重い事実がその人の存在を規定しているのだから。
バツイチ子持ちや借金1000万は人によって話す段階が多少異なるだろうが、相手と好感の交換をし、これからお付き合いをしていこうとなったなら遅からず告げるのが礼儀だろうし、結婚話が出たところで告白したら「騙された」と言われるのはまあ当然だろう。*1
相手の性格や相手との関係性によって変わる性格的短所の話に、客観的事実として存在しているリスクの話をぶつけても噛み合わない。「食べ物屋の列に並べるか並べないかって、つきあうのに結構重要じゃない?」「やっぱり性格的な相性が一番大事だね」という話をしているところに、「じゃあそいつが不治の病でもバツイチ子持ちでも借金1000万でもいいのか」と突っ込むようなものである。
そもそも人間関係に関する話で「長所、短所」という言葉が出てきたら、それは性格的なもの(趣味嗜好も含む)と捉えるのが普通だ。私もブコメで増田記事に批判的なことを書いた一人だが、「客観的に存在している重要な事実をどこまでもひた隠しにして、長所だけをアピールするべき」などとは思っていない。
というわけで、タイトルにした「短所を隠しているのは相手を騙すことなのか」の答えは、「本人によっても相手によっても違ってくる」。
つきあい始めの頃は頑張っていいところを見せようとしていて、そのうちふと、らしからぬ弱音を吐いてしまったり性格的弱点を隠せなかったりした時に、「そんな人だったのか。今まで嘘をつかれていたんだ」とがっかりされるか、「そんな面もあるのか。なんだか前より愛しく思える」となるかは、二人の性格と関係性によって変わってくるとしか言えない。
● 余談だが、私は出会った当初から「俺は人からこういうとこがダメだと言われる」というネガティブな話をする人とつきあって、結婚した(率直な男)。
*1:借金については、恋人を作る前にまず返済に全力を傾けろと周囲から言われるかもしれない。また、相手に心配させたくないので返済するまで隠し通す(その自信がある場合に限るが)という選択もある。