- 出版社/メーカー: 松竹
- 発売日: 2012/08/29
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旧世代の女vs若い女という構図は明確で、高峰三枝子演じる厳格な寮母を中心に、学校側の封建性は圧倒的な権力として描き出される。かといって、学園民主化を求める女子学生の側を、ただ賛辞するような雰囲気にもしていないところが面白い。50年代のいわゆる「逆コース」を時代背景とした左翼知識人たちの構図を反映させている部分もありそうだが、後のフェミニズムの中の女性たちのさまざまな相としても見られるところが、個人的にはポイントだった。
女学生役で中心となっているのは、久我美子、岸惠子、高峰秀子といった当時の人気女優たち。それぞれが他でよく演じた役柄の性格が、ここでも典型的なかたちで現れている。
以下、役柄名で書くべきところもあえて女優名で通して書いてみよう。
左:久我美子、右:寮母の高峰三枝子(着物姿がいつも完璧)
久我美子は、学園内の反体制ムードを牽引する怒れる「正義派」であり、寮母の弱みも握っている気の強い財閥令嬢。硬派な外面に反して若干の不安定要素も抱えている。これ以前によく出ていた黒澤映画でもこの人は、曲がったことが許せないタイプの山の手お嬢さんを演じてきた(そもそも本人が華族出身)。
「自分は恵まれている。だからこそ他の女子と連帯して闘わねば!」というプチブル左翼スタンスで、言うことはどこまでも正しいが、今ひとつリアリティには欠ける優等生。それに時折冷たい微笑を浮かべて辛辣なツッコミを入れるのが、同級生の山本和子(この女優さんよく知らなかったけど、原節子ばりの日本人離れした美人で驚いた)。
最終的に彼女たちは和解し、山本和子が全学生の前で久我美子の意見を代弁するかのような演説を張るので、この二人は「同じ人間」(久我美子の中の葛藤する二つの面)と見るのが正しい。
深刻になっている高峰秀子(左)にふと同情する岸惠子(右)
岸惠子は、前年の『君の名は』(1953) の真知子役で国民的人気をものしていたが、『女の園』の自由奔放で切り替えの早い役柄を見ると、こっちがこの人の本領だと思えてくる。思い浮かぶのは2年後に小津安二郎の『早春』で演じた、池部良の不倫相手の小悪魔OL。楚々とした古風な役より、クールで現代っ子の役の方が美貌が映える。
他の女優は制服か長めスカートの私服でしか登場しない中、岸惠子はテニスラケットを振る颯爽としたスコート姿(カモシカのような美脚)が印象的で、そこだけでも「この娘はこんな窮屈な環境に甘んじてはいまい」と思わせる。コケティッシュな魅力に大学生も寄ってきて、結果門限破りとなったりする。
そもそも彼女が求めているのは自分自身の「快」であり、学友たちと団結して闘うことではない。理不尽なことを言う寮母には食ってかかるが、ここには未来がないと思い定めればサッサと荷物をまとめて出ていく(友達の家から洋裁学校に通うと決めている)。
岸惠子は、彼女ほど目立たないが「民主化とか人権とかいつまでごちゃごちゃやってんの。手に職つけた方が早いわ」と内心思っている一部の女子たちを代表しているのだ。
授業についていけないのが悩ましい高峰秀子
そして、高峰秀子。押し付けられた見合いを断るため、親に無理矢理頼んで女子大に進学したという設定だが、寮生の素行に目を光らせる寮母に、親に内緒でつきあっている恋人への手紙を検閲されるわ、数学が苦手で授業についていけないわ、消灯後に廊下でこっそり勉強していたのを叱られるわ、「校則を守らない」と家に通知されてすべてをバラされ、飛んできた父親にコテコテに絞られるわで、踏んだり蹴ったりだ。久我美子の叫ぶ正論も彼女にとっては机上の空論、どころか自習を邪魔するノイズに過ぎない。
3年前の木下映画『カルメン、故郷に帰る』(1951)ではサバサバ系のストリッパーを演じて話題となったが、ここでは笑顔がほとんどない暗い役。当時の観客は「あの明るいデコちゃんはどこへ?」と思ったのではないか。
しかし彼女はこれ以降の50年代後半から、主に成瀬巳喜男監督作品において、常に不満と葛藤を抱え、思い悩み、文句を垂れ、鬱屈しつつ流されていく若干面倒くさい女の役を多数演じることになる。『女の園』にはそれら役柄のネガ要素が、コッテリ凝縮されていた。
一言で言えば、”「でも」を重ねる女”。
久々の逢瀬を楽しむもあまり噛み合わない高峰と田村
その例として、並んで土手を歩く高峰秀子と恋人を演じた田村高廣の会話場面を書き出してみる。
「そんな嫌な学校、もうやめた方がいいんじゃないの?どうも君からの手紙が変だと思ったんだ。僕の手紙を半分以上握りつぶしてしまうなんて」
「でも、せっかくここまで来たんですもの。今やめたら、うちに帰ったらやっぱり同じ牢獄だわ。それにどこかお嫁に行かされてしまうかもしれない」
「じゃあなおさら勉強なんかどうでもいいじゃないか。ただ学校を避難所にしてれば。要領良く気軽に考えて」
「あなたがそういうふうに言って下さるの有り難いけど、私、それだけで学校にいるの嫌なの。女子大って入ってみて初めてわかったの。二つの種類の人がいるのね。一方は、女も男に負けないように学問を身につけて社会に出て行こうとする人たち。私もそういうふうになりたいの。もう一方の人たちは、お嫁に行くいい条件を、つまり箔がつけばいいって人たちね。そういう人の方が多いのよ。だから口では不満ばかり言っていても、誰もやめてく人はいないの。父兄も本人も卒業だけが目的だから」
「男の学校だって同じだよ。就職するためには大学を卒業しなきゃならないんだ」
「でも、去年の11月に京大の事件があったでしょ。ああいうことを見てると、どうも男の学生と女の学生とは違うような気がする。ただ卒業したいだけなら、あんな事件は起きないでしょ?」
「男は社会を考えるのに積極的なんだと思うよ。つまり黙ってられないんじゃないかな。だってこの前の戦争が終わった時、一億総懺悔とか日本人全部の責任だとか言ったろ?いつでもみんなの責任になるなら、責任を感ずる者ほど何かを叫びたくなるし、言いたくもなるよ。だから、その方法が問題になるんだ。もちろん言わせまいとする方もね」
「じゃあ、あなたでもああいうことが起きれば、やっぱり警官ともみ合うの?」
「さあ‥‥、それはその時になってみないと。でも僕は危険は避けるだろうね。それが君や僕のお袋や兄弟に対する僕の義務だと思うんだ。友達になんて言われても。僕も卑屈になったのかもしれない、生活に追われて」
「辛いこともあるでしょうね、あなただって」
「こんなこと言うと君はがっかりするかもしれないけど、僕は大きな希望とか、立身出世しようという望みはないんだよ。ただ君とほどほどの生活ができりゃ、それでいいんだ」
「ありがと。私もそれでいいの。でもね、あなたの重荷になるのは嫌よ。私のためにあなたが思い切ったことができないんじゃ、まして大きな希望を捨ててしまうなんて」
「そんなことはないよ。君がいるからやっと頑張ってるんじゃないか。もし君と僕の生活が脅かされるようなことがあったら、その時は僕だって死にものぐるいで闘うよ」
「‥‥‥‥」
「どうしたの?」
「あなたがそう言って下さると、私嬉しいはずなのに、そうかしらって思うの」
「どうして?」
「どうしてだかよくわからないけど、男の人ってただそれだけでいいのかしらって思うの。さっきあなたも仰ったでしょ、男の学生は社会を考えるのに女よりも積極的なんだって。だのにあなたも‥‥」
「僕が消極的になったのは、何も君のせいじゃないよ。実際の話が、僕が就職できなかったら君を迎えることができないじゃないか」
「その時は私が働くわ。そのために勉強してるんですもの。貧乏なんか平気。あなたの傍にいられるんなら」
「そりゃそうなった時はそれでもいいさ。だけど男としてそういう女の言葉に頼っちゃいられないじゃないか」
「ああどうして男の人はすぐ、「男として」なんて言うんでしょ。一緒じゃないの、女だって」
「君は変わったね、昔と」
「そう?そうね。やっぱり寮監や補導監とぶつかってばかりいるからなのね」
「頼もしいよ、力強くなって」
「だめだめ。泣いてばっかりいるの。うちに帰ってからも毎日泣いてたわ。今日ばっかり、こんな嬉しいの」
簡単にまとめると、
(そんな嫌な学校やめたらいい)→でもうちに帰るとお嫁に行かされる→(じゃあ学校を避難所にしておけば)→でもそれだけで学校にいるの嫌。男に負けないように学問して社会に出たい。箔付けだけの人は多いけど→(男の学校でも同じ)→でも男と女は違う気がする→(男は社会を考えるのに積極的だから)→あなたも警官と?→(たぶん危険は避けるだろう)→辛いでしょうね→(大きな希望なんかより君と生活できればいい)→でもあなたの重荷になるのは嫌。大きな希望を捨てないで→(君と僕の生活のためには闘う)→そうかしらって思う→(どうして?)→男の人ってそれだけでいいのかしら→(就職しなきゃ君を迎えられない)→その時は私が働く→(男として頼っているわけには)→どうして「男として」?女も一緒→‥‥‥
田村高廣は、当時盛り上がり始めていた学生運動に積極的に加わる気はなく、当面の生活に追われつつ、恋人とのささやかな未来を夢見ている。高峰秀子の家は父親が事業を成功させてそこそこ羽振りがいいので、貧しい田村との結婚はまず許されない。そうしたことを十分わかっていて、高峰秀子は先々の覚悟を固めている。
だったら何も迷うことはないはずなのだが、彼女は「でも」「けど」を繰返す。恋人の意見に真っ向から対立するのではないかたちで、しつこく懐疑の言葉を口にする。
そもそも彼女の言っていることは、矛盾に満ちている。自分も男に負けないように勉強して社会に出る、男も女も一緒だと言う一方で、男と女は違うような気がする、自分との生活のために「大きな希望」を捨てていいのかといった疑問を恋人に投げかける。
男と同じように生きていきたい。でも男には女以上の野心を持っていてほしい。これが「男女平等」と言われた戦後の若い女性の、捻れたジェンダー認識だ。
「でも」を繰返す女は、それが生真面目さからきたものであっても、男にとってはいささかウザったい存在になるであろう。客観的に観ていても、ちょっと苛々する。だがそれは、彼女の度重なる「でも」が、相手の男に対して言っているように見えて、実はすべて自分に向けられているのではないかと思えるからだ。
私は、本当はどうしたら一番いいのかわからない。こう言い切ってみたけれど、本当はあまり自信がない。そういう不安定な気持ちが、「でも」の繰返しに現れる。
拳を振り上げる久我美子にも、現実的に行動する岸惠子にもなれず、ああでもないこうでもないと悩み続ける60年前の高峰秀子。その延長線上には、自分も含めて今も、たくさんの女性がいるように思えた。